後醍醐天皇による倒幕運動…
天皇を、台風の目のごとく、行く筋もの流れを持つ渦の中心と考えるか、流れ出た行く筋もの河川が後醍醐天皇のもとに注ぎ込んだと考えるか…
倒幕から建武の新政の時期はこの二つの考え方があります。
ちなみにわたしは後者だと考えているんですよ。
護良親王。
鎌倉末期の中でも異彩を放つ人物です。
子どものころ、おじから不思議な話を聞いたことがあります。
「京都の三千院に、護良親王の長刀があるんやけどな… あんまり知られてないんよ。」
ふ~ん。
という薄い反応しか当時の私にはできませんでした。護良親王が後醍醐天皇のお子さんで、鎌倉幕府を滅ぼすために戦った人物である、ということは知っていましたがそれと「三千院の長刀」とどう結びつくのかさっぱりわからず…
長じて、中学・高校となっても、三千院に護良親王の長刀がある、というような話も聞かず、そんな重要なものなら展示でもされているのかとも思っていましたが、そんなものがあったような感じもなく…
ところが1997年、この長刀が新聞にとりあげられていたんですよ!
三千院で護良親王の長刀が“発見”されたらしい…
と、いっても実は三千院では前から展示していたらしいのですが、なんだかニセモノの臭いがプンプンしていたらしく、あんまりちゃんと展示されていなかったようなんですよね。
発見ではなく、ちゃんと“鑑定”に出したら鎌倉時代中期の長刀であることがわかったようです。
刀剣には魔性がある、とは、よく言われるところで、じっと見つめていると、何やら深~いところに引きずり込まれるような、不思議な(妖しげな)感覚にとらわれます。
ましてや護良親王のものだと思うと、その感覚はなおいっそう強いものとなります。
護良親王は比叡山の天台座主でもあり、還俗して武者たちを率いて倒幕運動を展開しました。
近畿の山中を放浪しつつ、反幕府勢力(悪党たち)を糾合し、幕府滅亡後は、征夷大将軍(兵部卿兼任)となった、皇族や僧とはかけ離れた武勇の人物でした。
さて、護良親王、で、検索すると、きまって出てくる肖像画があります。
四人の武者の絵。
一人は馬上。
三人は徒歩。
馬上の人物が護良親王なのですが、この絵がなかなかに「おそろしげ」な感じがする…
まず率いている武者たち。
それぞれ三種の武器を持っており、長刀・太刀・槍…
肖像画には意味があります。
長刀は、僧兵あるいは寺社の傭兵。
太刀は、武士たち。
そして槍は、野盗や山岳民などの兵。
などを“象徴”していると思うのです。
三人の徒歩の武者たちの顔はいずれもおそろしげで、むしろ下品な印象もあります。
こういう者どもを率いて親王は戦いを展開していたんでしょう。
楠木正成や赤松一族は、現在の研究では護良親王派であったのではないか、と、考えられています。親王が失脚した後、新政内で二人の地位が著しく低下していることからも、そのように考えるほうが自然な感じがします。
さて、馬上の人物…
異質なほど色白で、そうして弓の弦をくわえている、という構図が印象的です。
以下は伝説ですが…
山中を部下と放浪していたときのことです。山伏というか修験者に身をやつしてある村を通りかかりました。
その村の長らしい人物が、母が病で苦しんでいます、なんとか助けてもらえませんか、と、訴え出てきました。
修行僧たちは、法力で病を癒す力がある、と、思われていた時代です。
親王は、その村の長の屋敷に行き、そうして病に苦しむ村の長の母の枕元で、お経を誦しました。
そのお経の見事さ、朗々とした声の響きに村の長はおどろきます。
いや、「修行僧とも思えぬ透き通るような白い顔」(修験者は日焼けしてたいていは浅黒い)と漂う気品から、村の長は、この御方はただものではないと考えていたのですが、そのことを確信しました。
なんとそのお経の効き目はバツグンで、母の病はたちまち癒された、といいます。
「いったいどういう御方でございましょう。」と問う村の長に、従者の一人が正体を明かします。
「前の天台座主にして、帝の親王であらせられる。」
村の長は、おどろき平伏し、一族および村をあげて親王を支援するようになった、という伝説があります。
そして娘を親王に嫁がせ、以後、親王はこの娘を寵愛することになりました。
史実が伝説かは不明なところも多いのですが、この娘が「雛鶴姫」。
後に、親王が謀殺されたとき、親王の首をかかえて都に届けようとした女性がこの人である、ということです(このあたりは諸説あるのですが…)。
修行僧とも思えぬ透き通るような白い顔
荒武者どもを率いる馬上の人物は、まさにこのお顔、というところでしょうか…
弓弦をくわえる(なめる)親王
この肖像画の親王の目は、三人の徒歩武者とはまったく違う、まるで死をみつめているかのような妖しい描かれ方をしています。
後の“悲劇”を予感させるような…
護良親王は、足利尊氏と対立し、尊氏暗殺計画を立てた、ということで捕縛され、鎌倉に送られて土牢に監禁された、といわれています。
北条高時の子、時行が鎌倉で反乱を起こしました。
そうして鎌倉を攻撃し、足利尊氏の弟、直義が防戦するものの破れてしまいます。
時行は“執権”の子であり、護良親王は前の“征夷大将軍”。
もし、護良親王が北条時行に捕えられて、親王を“将軍”とし、時行自ら“執権”を称すれば、宮将軍を擁立した前・鎌倉幕府の復活が実現してしまいます。
いや、建武の新政への不満から、鎌倉幕府への回帰をもとめている武士たちもたくさんいたわけで、擁立された人物が後醍醐天皇の親王となれば、この反乱は、成功する可能性もありました。
政治的嗅覚のするどい足利直義は、この“事態”と“未来予想”を十分できました。
こうして護良親王は、直義に遣わされた淵辺義博によって殺される、ということになります。
で、先の“雛鶴姫”の話です。
当時、護良親王の子を宿していたといわれています。
雛鶴は、斬られた親王の首を抱き、現在の横浜市の戸塚にある井戸で首を洗い清めた、と、いわれています。
妊婦が愛する人の血まみれの首をかかえて井戸で洗う…
おそろしげでもあり哀しげな光景であった、と、いえます。