子どものとき、サッカーのワールドカップに「イギリスの代表」がいないことに違和感をおぼえたことがあります。
なぜ??
「いやいや、イングランドが代表だよ。」という大人もいたのですが、イギリス=イングランドなのかというと、断じてそうではない、らしい…
「イギリス」を「イギリス」と呼んでいるのは、実は日本だけで、
グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国
が、正式な名称。略称が“UK”です。
まず、リクツの上での説明でいきますと、イギリスはフットボール発祥の地。
FIFAが結成されるよりも以前にフットボール協会が存在していました。
イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの四つ。
いわゆるワールドカップには、フットボール協会加盟国が参加する、ということになっています。
すでにイギリスには、この四つの協会が存在していたので、それぞれがFIFAに加盟する、ということになったので、それぞれが代表チームとしてワールドカップに参加できるというわけです。
サッカーによって国家の“統合”を図ることがある、という話をコートジボワールを例にして説明しましたが、この“逆”がありまして…
いくつかの地域が統合されてできた国があったとします。
統合そのものに不満を抱かないように、政治以外のことで(文化・芸術・音楽・スポーツなどを通じて)、それぞれの地域の独自性を認めてやり、統合の不満を解消する、という手法もある、ということです。
イギリスは「一つの国」だけれども、もともとはスコットランド、イングランド、ウェールズ、北アイルランドが合同している…
でも、もともとは別だっ という意識が高まってしまって国家の分裂が起こってはいけない。よって、その地域の独自性をある程度認めてやることによって、全体の統合を維持する、というわけです。
極端な例をあげますと、現在、ヨーロッパは政治的・経済的統合が進んでいます。
でも、もし、政治的統合が成功して、ヨーロッパ全体が「一つの国」になったとしても、きっと「ヨーロッパ人」たちは、ワールドカップには、「EU代表」として参加しませんよ。
イタリアはイタリア、フランスはフランス、スペインはスペイン、ドイツはドイツだっ!
と、主張するはずなんですよね。
「別々なんだ」という意識が全体の統合を支える、という、一見矛盾しているかのようなバランスが働く国家もあるんです。
さてさて、イングランドです。
紀元前5世紀ごろ、イングランドには、ケルト人が暮らしていました。ただ、それ以前にも石器文化が存在していて、ケルト人自体も、もともとはイングランドへの侵入者でした。
紀元前1世紀には、かの高名なカエサル(ジュリアス=シーザー)がブリテン島南部を占領し、さらに1世紀には、ローマ帝国の領域となりました。
しかし、ケルト人たちの抵抗によって、スコットランド、アイルランドは、ローマの支配からはまぬがれることになりました。
スコットランドとアイルランドは、非ローマ世界、となり、「別の地域」として独自の文化・社会が育っていきます。
ローマは、スコットランドとの境界に「長城」を築いてケルト人の侵入を阻止し、この地域を“ブリタニア”という植民地として、ロンディニウムという町を築いてその拠点としました。
これがロンドンの始まりです。
もちろん、“植民”はケルト人とローマ人との融合・共存も進めていきます。
ブリテンで生まれたローマ人、ローマ人とケルト人の混血… こうした人々を“ブリトン人”と呼ぶようになっていました。
4世紀、ゲルマン人の移動が本格化し、5世紀にはとうとうブリテン島にもゲルマン人が侵入を開始しました。
記録では449年にゲルマン人のうちのアングロ・サクソン人が侵入したことがわかっています。
“アーサー王”の伝説がこのときに生まれました。
伝説上の人物と考えられていたアーサーですが、最新の研究では、ブリトン人のローマ現地軍司令官アリトリウスではないかという新説が浮上しています。
侵入してきたサクソン人を、アリトリウス率いるブリトン人の軍団が撃退して戦った… という話しがアーサー王の伝説になったのではないか…
侵入してきた敵を撃退する…
“英雄”の誕生の法則です。
その後、このアングロ・サクソン人たちが、ブリテン島に7つの国(ヘプターキー)を建てて、このうちの一つ、ウェセックス王セルディックがイングランド王の初代、ということになります。
侵入して征服する…
“英雄”の誕生の法則です。
9世紀末までの380年間を世界史では「七王国の時代」というのですが、9世紀末にこれらを統合したのがウェセックス王エグバートです。
分裂を統合する…
“英雄”の誕生の法則です。
しかし、10世紀に入ると、イングランドは、デーン人(デンマークのヴァイキング)の侵入を受けます。
このデーン人の侵入を一時撃退して、イングランドを守ったのが、アルフレッド大王です。
彼に“大王”の名が冠せられるのは、外敵の侵入を撃退したからでした。
しかし、デーン人の王クヌートのとき、デンマークは最強となり、イングランドを征服して北海周辺を一つの帝国としました(北海帝国)。
クヌートの死後、デンマークの力は弱まり、イングランドは再び独立しましたが、その後もデーン人の侵入を受け続けます。
イングランド王エドワードは、妹の婿(義弟)ハロルドにデーン人との戦争をまかせて、自分はフランスのノルマンディーに避難し、ノルマンディー公ギョームの庇護を受けます。
ハロルドの活躍でイングランドは守られ、エドワードは帰国しました。しかし、外国に逃げていたエドワードに貴族たちは冷たい視線…
自然と、「次の王はハロルドさんだよなぁ」という空気が漂います。
いたたまれなくなったエドワードは、再びノルマンディーで生活を始め、ノルマンディー公ギョームの世話になります。
「あんたには世話になったなぁ」とエドワードはギョームに言います。
「おれ、子どもがいないから、おれが死んだら、イングランドの王位、あんたに譲るよ」と言ったとか言わなかったとか…
エドワードの死後、ハロルドがイングランド王の位についたのですが、これを不服としてノルマンディー公ギョームがイングランドに遠征し、ヘースティングスの戦いで勝利してイングランド王の位を奪いました。
こうしてノルマンディー公ギョームは、イングランド王ウィリアム1世となったのです(ノルマン・コンクェスト)。
イギリスは「一つの国」かもしれませんが、イングランドの人たちは、
「おれたちは、スコットランドでもウェールズでもアイルランドでもないっ イングランドはイングランドだっ」
という文化や歴史を背負っている…
サッカーを通じて、フランスやデンマークと戦い、イギリスの中のイングランドの独自性を訴え続けている、というわけです。