学校の授業から 江戸の庶民の“風景” | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

江戸の「庶民」、というのは、いつからできたのでしょう…

というと、ずいぶんと、変な質問だ、と、思われるかもしれませんね。
江戸時代の日本の人口構成だと、3200万人のうち、80%以上が農民で、武士と町人がほぼ7%ずつであったと考えられています。
意外というか、言われてみればそうかと思う話をしますと、江戸では。武士が人口の5割近くを占めていました。

参勤交代で往来する武士はもちろんですが、旗本や御家人など、かなりの武士が生活していました。
身分によって居住地域が分けられていて、町人地、武家地、寺社地などに区分されています。
また、江戸の人口構成では、男子の数がかなり多く、女性が少ない、というかなり歪な状態でした。時代劇では、男女の比率が同じような賑わいで描かれていますが、実際、街中で歩く女性は少なかったようです。

さて、“江戸っ子”という言葉はいつから使用されていたかというと記録上は、明和のころ、つまり18世紀の後半あたりになります。
「宵越しの金は持たない」「喧嘩っ早い」という表現がされる庶民の性質、というのは文化文政年間にはよく言われるようになっていました。

このころ、いろいろな文物が大量生産されるようになっています。

「木版印刷」によって絵や書物が大量につくられる… よって価格が下がる。
「干拓」が進む… 干拓地に「い草」が植えられ、畳が一般庶民でも手に入るようになる。
人口集中と、消費の拡大は「職」を生み出し、商品の種類を増やしていく。

蕎麦・寿司・天ぷら

などは、このころの“ファストフード”で、職人たち(現代のサラリーマンたちのようなもの)が「外食」をすることによって、ますます広がり、かつ、廉価なものになっていきました。
寿司や天ぷらの絵を歌川広重が描いていますが、現在の寿司職人さんがつくるお寿司とたいして違いがありません。
ただ、陶器のお皿に盛りつけて出していたことがわかります。(現在の板前さんたちも、浮世絵に出てくる絵を参考にされたらどうでしょう。かなり美しく盛られています。)

ちなみに「居酒屋」もこのころに誕生します。
「酒屋」が、その場で飲ませる、ということが江戸の町ではふつうになりました。

砂糖の普及も広がります。また、醤油の製造も拡大しました。
砂糖の普及で、「お菓子屋さん」も江戸には増えていくようになります。

ただ、一般に食卓では、ご飯とお味噌汁と漬物、というのがメインで、鮮魚が御膳に出るのは商家くらいで、一般庶民の家庭料理では、お祝い事や節句くらいにしか魚は出てきませんでした。
たいていは干物。(吉田松陰が江戸に出てきたときの記録を残していて、御丁寧に毎日の食事を記録していますが、魚は、ほとんどが干物であったことがわかります。)

たんぱく質不足をイメージしますが、卵はわりと食べられていたようです。『卵百珍』という卵料理の本も江戸時代には書かれていますから、時代劇ではあまり見かけませんが、けっこう食べられていたような気がします。

時代劇では、長屋には井戸があり、“井戸端”会議的な女性たちの「会話」がみられますが、ほとんどの江戸の長屋の半分以上には井戸はありませんでした。
ましてや飲料には井戸水は使用しません。
飲料水は、「水屋」が水を売りにきてそれを購入するというケースが多かったようです。

あと、税金なのですが…
町人にかけられる公の税金はほとんどありませんでした。
文化文政年間の町人文化の繁栄には、この「無税」政策が大きく“貢献”していると思います。
人口わずか7%の部分に課税するよりも80%以上の農民にかけたほうがよいですからね…

(新潮文庫の、杉浦日向子『一日江戸人』がなかなか楽しく読める本です。機会があれば一度お読みください。)