源義経と平経経。
『平家物語』では二人は“好敵手”であるかのように描かれています。
二人には戦いの方法に共通点があり、ともに戦術用語では
“ハートランドアタック”
を考えている、ということです。心臓部直接攻撃…
この時代にあっては、本隊あるいは大将を直接ねらう、という戦い方のことです。
一ノ谷でも屋島でも、義経は常に「本隊」部分に奇襲攻撃をかけています。
平教経も、戦闘目標が明確で、「義経を倒す」ということに的をしぼっています。
「扇の的」の“しかけ”も、出て来た義経を遠矢で射殺する、ということを考えていたようです。(ただし、これは源氏側の後藤実基に見破られてしまいましたが…)
教経は、陸戦部隊を投入しました。
200人ほどの上陸ですが、すべて歩兵。
義経は騎馬を投入してこれを蹴散らします。
「退け!」
と、歩兵は海へと逃げる。
「追うのだ!」
と、義経はこれを戦機ととらえたのでしょう、自ら兵を率いて突出し、騎馬のまま海まで入ってきました。
「捕えるのだ!」
(義経さえ捕えれば、あるいは討ち取れば、少なくとも一ノ谷の敗戦は挽回できる)と平教経は考えました。
平氏の舟からは、長刀や熊手が伸びてきて、義経の甲や鎧を引っかけようとします。
この時、平氏軍が矢を射かけていないことからも、狙いは「義経捕縛」にあったのでは、と、思わせる描写が『平家物語』には見られます。
ここで“アクシデント”が起こりました。
義経が、長刀をはらい、熊手を退けて戦っているとき、自分の弓を取り落してしまい、弓が波にあらわれて流されていったのです。
捨てておけばよいのに、義経はそれを追いかけ拾おうとします。
後藤実基は、「殿っ 弓矢など、うち捨てておきなされ!」と声をかけ、伊勢義盛は義経を守ろうと側を固めようとしましたが、なおも義経は弓を拾おうとします。
せまる熊手を打ち払い、馬打つ鞭で弓を引きよせようやく拾い上げ、義経は兵をもどして陸に帰りました。
(ちっ 取り逃がしたかっ)
と平教経は悔しがりました。
「逃げ足の速いやつよっ」
一方、源氏軍は、あわや大将を失うところ…
「弓など、殿のお命にはかえられるものではございませんぞ!」
「いや、弓が惜しくてあのようなことをしたのではない。わたしの弓が、叔父上、為朝さまのように二人、三人がかりではるな強弓ならば、わざと打ち捨てて平家の輩に拾わせるのだが、このような弱弓が敵にわたって、これが源氏の大将の弓だ、と、笑われてはいかぬからな。」
義経は、十六歳のときの身長の記録は残っていて、だいたい130㎝くらいと考えられています。
一方、平治の乱で活躍した、義経の叔父、為朝は2メートルをこえる大丈夫で、その弓も、
「五人張り」
と呼ばれる超強弓。四人で支えて一人が張るようなものですから、それに比べれば、義経の使っていたものは、かなり小ぶりのものであったにちがいありません。
この時代の武具は、基本的に“オーダーメード”です。
甲も鎧も太刀も弓も、使用する者の体格、体力に合わせて作られています。
武家の戦いは、「名乗り」をあげての戦いであるだけでなく、「ののしりあい」の戦いでもあるので、武具が貧粗な場合もかっこうの“口撃”の対象となりました。
景清に甲を奪われた美尾屋のように“恥”をかいてはならぬ、ということで義経は「流した弓」を命がけで拾ったわけです。
さて、平教経は、なかなかに“あきらめの悪い”男です。
さすがの義経軍も、奇襲のための強行軍と、先ほどの戦いで疲れ果てているに違いないっ わたしが直接指揮して夜襲をかけ、義経を倒す!
と、考えました。
ところがこの作戦を見破っていた者が源氏側いました。義経です。
義経は義盛を呼び、こう述べました。
「今宵、敵の夜襲がある。おまえば敵が上陸してきたら、隠れていつでも狙撃できるように弓矢を持って待機しておれ。」
(次回に続く)