弓矢の話 前編 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

「扇の的」という逸話があります。

歴史の教科書には出てきませんが、中学生の国語の教科書、高校の古典の教科書には、『平家物語』のこの話がよく出てきます。

“事件”は屋島の戦いのときに起こりました。

義経軍の奇襲攻撃を受けた平氏軍は、船に乗り込み沖へと逃げますが、奇襲をかけた兵が思った以上に少なかったことから、平氏は反撃のチャンスをうかがうことになり、「陸には源氏、沖には平氏」で、睨み合いの状態になりました。

義経軍には、援軍が近づきつつありましたから、時間稼ぎもしたいところでした。

夕方をむかえたちょうどそのころ、沖に一艘の舟があらわれます。
みれば竿を立て、その先に扇が一面、すえつけられています。

美しい女性が傍らに立ち、これを射てみよ、と、言わんばかりに、手にした扇で招くしぐさをしているではありませんか。

義経は、「誰かあれを射て来い」と命じます。
こうして、那須与一という弓の名手が連れてこられました。
外せば源氏の恥となります、と、固辞しましたが義経はこれを許さない…
与一は、騎馬のまま海に入り、扇の的を射ることになりました。

このとき、使用された矢が「鏑矢」です。
長さは「十二束三伏」。
一束は、こぶしの幅の広さ。一伏は指一本分の幅です。
「じゅうにそくみつぶせ」は、一般的な矢の長さであったと考えられます。

「よつぴいてひゃうとはなつ」

と『平家物語』には記されています。

そして見事に的に命中。

「ひいふつとぞ射切つたる」

武者たちは、箙(えびら)に矢を入れて背負いますが、この中には一本、鏑矢を入れている場合があります。
鏑矢とは、一番矢、ともいわれ、合戦の合図、「われここにあり」とアピールするときなど、敵陣に向けて放つ第一矢である場合が多いようです。

この話は、この時点で、「二番矢」があるな、ということを予感させます。

二番矢には、「中差」という“戦闘用”の矢が使用されました。

見事に射抜いた那須与一を称賛し、はやし立てるように、平氏の側の一人の男が舞いを踊り始める…

義経は「あの男も射させよ」と命じました。
そして与一は、中差をすばやく抜き、つがえて「ひゃう」と放ってその男を射殺してしまいました。

「鏑矢を放った以上、もはや戦闘が始まっているのも同然だ。」と伊勢義盛は考えていました。
「無情なことをさせる」と嘆く者もいましたが、「何をいうか。もともとあのような扇の的を用意したのは、こちらの大将、義経さまをおびき出し、遠くから狙撃しようというたくらみだったのだ。」と後藤実基は看破していました。

源氏軍の仕様に、しずまりかえってしまった平氏軍でしたが、この様を

「あたりまえではないか。浮かれている場合ではない。」

と考えていた将もいました。
平教経です。

 これは戦争だ。

「仕掛けて参れ!」

と、三人一組の武者を送り出します。
一人は弓、一人は楯、一人は長刀を装備しています。
楯の後ろから矢を射かけ、馬から落ちた武者を長刀で討つ、という源氏の騎馬戦に対抗する平氏の戦闘法でした。

一ノ谷でも、この戦法を有効活用して前線を維持していました。(もっとも義経の奇襲で、平氏軍は壊乱してしまったのですが…)

平氏の上陸兵に対して、源氏側から、美尾屋十郎ら五騎が迎撃します。

待ってましたとばかりに先頭を走る美尾屋十郎に、楯の後ろから鋭い矢が放たれました。

柄を漆で塗った、鷹の羽(しかも翼の下の黒ほろ羽)の強矢。ぶっすりと馬に突き立てられ、美尾屋の乗った馬は「屏風を返すように」ひっくり返りました。(このあたりの『平家物語』の描写は秀逸です。)

太刀を抜いて起き上がった美尾屋に、長刀を持った武者が切りかかります。
美尾屋が太刀をふるうと楯で受け止められ、後ろから長刀が繰り出される…
楯を持った武者と長刀をふるう武者の呼吸の合った連続技に、美尾屋はたちまち逃げ出しました。

四騎が助けに向かいましたが、馬を矢で射られることを嫌い、距離をとってなかなか近づけません。
つかまりそうになりながらも逃げきりましたが、美尾屋は甲を奪われてしまいました。

長刀を持ったその武者は、甲を長刀の先にひっかけて高々と掲げます。

 遠からん者は音にも聞け!
 近き者は目にも見よ!
 われこそは、京童がうわさする
 悪七兵衛景清だ!

平氏側の士気はどっと高まりました。
平教経はただちに命じます。

 それ! 景清を敵に討たせるな! かかれっ

しかし、これは教経の作戦でした。
(義経を引っ張り出してやるっ)

(次回に続く)