吉田松陰に関しては、いくつかの誤解や歪曲されたイメージがつきまといます。
まず、よく誤解されているところから申しますと…
松下村塾は吉田松陰がつくったのではない。
ということです。
松陰と言えば、松下村塾で多くの人物を教育し、幕末から明治維新にかけての重要人物を産み出した人物である、と、考えられています。
おおむね間違いではないのですが、松下村塾の創設者は吉田松陰ではありません。
叔父にあたる
玉木文之進
という人物が自宅で開いたものです。
設立は1842年、ということになります。その次が吉田松陰か、というとそうではなく、やはり親戚の
久保五郎左衛門
という人物が引き継ぎます。
吉田松陰が引き継ぐのは安政四年といいますから、1857年頃ということになります。
多くの維新の重要人物を輩出した、ということになっていますが、正確には誰が学んでいたか、わからないんですよ。
「名簿」が存在していないからです。
ちなみに、松下村塾の生徒だと勘違いされやすい人物は
桂小五郎
です。
いわゆる維新の三傑の一人、木戸孝允は、塾生ではありません。
ただ、吉田松陰と接点が無いのか、というとそうではなく、吉田松陰が藩校の明倫館で教えていたときに授業を受けていました。
それから
井上聞多
後の井上馨も松下村塾の塾生ではなく、こちらは吉田松陰との関係はありません。
で、維新の重要人物を輩出した、といっても…
実際的な深いつながりがあったといえるのは、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一、高杉晋作。
伊藤博文
山県有朋
らは、ほんとに松陰の直接的指導を受けていたかどうか…
伊藤博文は身分が低いために塾内には入らず、本人曰く「外で立ち聞きしていた」と言うし、山県有朋にいたっては「おれは軟弱な文学の士ではないぞ」と入門を拒否した、という話もあり、入門したという時機と松陰が獄につながれる時期がほぼ同じなので、接触があったとしてもほんのちょっとの時期だったはずです。
(後世に彼らが吉田松陰の門下生だった、と、ウソではないにしてもちょっと大きくホラ吹いてる可能性も否定できません。)
そもそも吉田松陰の主宰していた松下村塾は、師と弟子が、対面式の講義をおこなうという、いわゆる「教室」のようなもので授業がなされていたものではない、ということがわかっています。
みんなで集まっては、何かテーマを議論したり、またみんなでハイキングに出かけたり、と、何か学問的な空間にとどまっていたものではないようなのです。
さてさて、吉田松陰さんなんですが…
この人、かなりムチャな人としか言いようがありません。
東北に視察に行くぞっ と決心し、友人と約束した出発の期日までに藩からの許可がおりそうもないとわかると、脱藩してしまう…
ペリーが来航したときは、漁民から舟を借りて軍艦に乗り込んで、外国へ連れて行ってくれ、と、願い出たり、前年に長崎にロシアの使節プウチャーチンが来航したときは、面会を求めて機会があったら殺してやろうと企んだり(これについては諸説あり)…
黙っていたらよいのに、ペリーの軍艦に乗り込んで失敗したことを、わざわざ奉行所に出頭して自白。このときは命を助けられ、長州に送られて入獄。
1855年には許されたものの、実家の杉家の預かりとなって幽閉。
その後、松下村塾で教える、ということになるわけです。
1858年、日米修好通商条約を締結したことを知ると、それが天皇の許可なくなされたものであることに憤り、老中間部詮勝の暗殺を計画。
弟子たちは、あまりの師匠の暴走ぶりに、血判状まで用意して諌めているのに、「おまえらはこしぬけだっ」と言い放つ…
長州藩をあげて幕府を倒すべしっ と主張して、またまた獄に入れられる…
で、井伊直弼の展開した“安政の大獄”で捕まることになるのですが、もともと昔の海外渡航未遂事件の経緯を正されたにすぎなかったのに、言わなくてもよいのに「老中間部の暗殺を計画していた」と自ら説明してしまう…
で、今度は処刑されてしまう…
そらあんた無茶でっせぇ~
と言いたくなる人物です。
立志尚特異
志を立てる者は、人とは異なってあたりまえだっ と、彼は考えていたのかもしれません。
以下は蛇足ですが…
安政の大獄をおこなった大老井伊直弼。
実は、彼が彦根藩主だったときに、いろいろな善政をおこない、名君との評判をとりました。
当時、長州藩士だった吉田松陰はその噂を聞き、そしてその人となりを知って井伊直弼を高く高く評価しています。
吉田松陰は、井伊直弼のことを憎んだりはしていなかったと思います。
小生
獄に坐しても
首を刎ねられても
天地に恥じ申さねば それにてよろしく候
1571年
織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしました。
これは小学校の教科書にも「信長の統一への道」を記した年表にしっかりと記載されています。
“古きを挫き、新しきを築く”
信長像は、教科書がよく描くところです。
・今川義元を桶狭間の戦いに破る
・美濃を平定して「天下布武」の印を使用する
・比叡山延暦寺を焼き討ちする
・長篠の戦いで武田の騎馬隊を大量の鉄砲を使用して退ける
ここに「楽市」や関所の廃止の話がくっついて、信長が旧世界から新世界へと導く旗手であるかのように描かれていきます。
別にこの視点は誤り、というわけではありません。
古きを挫く、という一つの象徴として比叡山延暦寺の焼き討ちがよく語られるところです。
宗教や古い権威をおそれぬ信長、という“像”を示すには
信仰の対象である寺院の破壊
というのはもっともてっとりばやい説明にもなります。同時に苛烈な信長の性格も描けるところ…
ただ、比叡山の焼き討ち、にはいくつかの誤解もあります。
まず、“焼き討ち”の第一号は信長ではありません。
前回紹介した“くじ引き将軍”足利義教も「比叡山の焼き討ち」をおこなっています… と、言いたいところですが、彼は寺院そのものを攻撃した、というより、坂本や比叡山のふもとなどを攻撃して延暦寺を威圧し、それに抗議した僧たちが、「自ら根本中堂に火を放った」というのが実相でした。
それから、「比叡山」というと、伽藍諸堂を持つ一個の山、というより、その周辺ならびにその勢力全体をぼんやりと示す言葉として当時は使用していたようなのです。
それと関係して、実は
延暦寺
という一個の寺は存在しません。さまざまな伽藍諸堂の総体を「延暦寺」と称しているんです。
本格的にこれらを破却したのは、応仁の乱後、1499年の
細川政元
による比叡山延暦寺の焼き討ち、というのが最初でしょう。
当時の将軍(足利義材)を追放し、新しい政権をつくったところで、それに反対する勢力が細川政元を包囲します。追放された将軍が政権を奪還しようと北陸から京都に迫る… 比叡山延暦寺勢力もこれに味方しようとする。
政元はその出鼻をくじくため、延暦寺を焼き討ちし、伽藍諸堂をことごとく灰にしました。
で、織田信長の焼き討ちの話です。
信長が伽藍諸堂をことごとく灰にし、女や子どもなども虐殺した、という説明がよくされますし、当時の記録(『信長公記』や貴族たちの日記)にも記されていますが…
滋賀県教育委員会の比叡山の発掘調査や、英俊という名の僧が、1570年に延暦寺の様子を記した文献をみると、信長が焼き討ちしたときには、細川政元による焼き討ちや、足利義教の攻撃によって、伽藍諸堂そのものはすでに多くは失われていて、「信長の破壊」はそれほどではないことがわかりつつあります。
考古学的調査と史料的な記録がなかなか整合しない…
一つは、さきほど説明した「信長のイメージ」に添った形で、焼き討ちが「誇張」され、破壊の様子が増幅された、ともいえるのですが、いくら「直接見たわけではない」としても、当時の人々の記録による虐殺・破壊がなかった、小規模だった、と、考えるのもちょっと無理がある…
わたしは思うのですが、先ほど申しましたように、当時の
「比叡山」
そして「延暦寺」という言葉が、一個の山、個別の諸伽藍を指す言葉にとどまっていなかった、と、考えるべきだと思うんですよ。
比叡山を焼き討ちした
と言った場合は、その周辺地域、延暦寺に味方して協力するその地域の諸勢力の総体をぼんやりと説明したものではなかったか、ということです。
実際、足利義教の攻撃なども、「比叡山を焼き討ちにせよ」と指示しているにもかかわらず、伽藍諸堂は攻撃していません。
細川政元は、伽藍の破却をさせましたが、同時に追放した将軍に味方する地元の豪族を攻めたり調略したりしています。
織田信長のおこなった「比叡山の焼き討ち」も、(もちろん伽藍諸堂を含んで)地元ならびに諸勢力全体をさしていたとしたら矛盾の整合は説明ができます。
比叡山延暦寺勢力の焼き討ち
と、説明したほうがよいような気がしないわけでもありません。
織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしました。
これは小学校の教科書にも「信長の統一への道」を記した年表にしっかりと記載されています。
“古きを挫き、新しきを築く”
信長像は、教科書がよく描くところです。
・今川義元を桶狭間の戦いに破る
・美濃を平定して「天下布武」の印を使用する
・比叡山延暦寺を焼き討ちする
・長篠の戦いで武田の騎馬隊を大量の鉄砲を使用して退ける
ここに「楽市」や関所の廃止の話がくっついて、信長が旧世界から新世界へと導く旗手であるかのように描かれていきます。
別にこの視点は誤り、というわけではありません。
古きを挫く、という一つの象徴として比叡山延暦寺の焼き討ちがよく語られるところです。
宗教や古い権威をおそれぬ信長、という“像”を示すには
信仰の対象である寺院の破壊
というのはもっともてっとりばやい説明にもなります。同時に苛烈な信長の性格も描けるところ…
ただ、比叡山の焼き討ち、にはいくつかの誤解もあります。
まず、“焼き討ち”の第一号は信長ではありません。
前回紹介した“くじ引き将軍”足利義教も「比叡山の焼き討ち」をおこなっています… と、言いたいところですが、彼は寺院そのものを攻撃した、というより、坂本や比叡山のふもとなどを攻撃して延暦寺を威圧し、それに抗議した僧たちが、「自ら根本中堂に火を放った」というのが実相でした。
それから、「比叡山」というと、伽藍諸堂を持つ一個の山、というより、その周辺ならびにその勢力全体をぼんやりと示す言葉として当時は使用していたようなのです。
それと関係して、実は
延暦寺
という一個の寺は存在しません。さまざまな伽藍諸堂の総体を「延暦寺」と称しているんです。
本格的にこれらを破却したのは、応仁の乱後、1499年の
細川政元
による比叡山延暦寺の焼き討ち、というのが最初でしょう。
当時の将軍(足利義材)を追放し、新しい政権をつくったところで、それに反対する勢力が細川政元を包囲します。追放された将軍が政権を奪還しようと北陸から京都に迫る… 比叡山延暦寺勢力もこれに味方しようとする。
政元はその出鼻をくじくため、延暦寺を焼き討ちし、伽藍諸堂をことごとく灰にしました。
で、織田信長の焼き討ちの話です。
信長が伽藍諸堂をことごとく灰にし、女や子どもなども虐殺した、という説明がよくされますし、当時の記録(『信長公記』や貴族たちの日記)にも記されていますが…
滋賀県教育委員会の比叡山の発掘調査や、英俊という名の僧が、1570年に延暦寺の様子を記した文献をみると、信長が焼き討ちしたときには、細川政元による焼き討ちや、足利義教の攻撃によって、伽藍諸堂そのものはすでに多くは失われていて、「信長の破壊」はそれほどではないことがわかりつつあります。
考古学的調査と史料的な記録がなかなか整合しない…
一つは、さきほど説明した「信長のイメージ」に添った形で、焼き討ちが「誇張」され、破壊の様子が増幅された、ともいえるのですが、いくら「直接見たわけではない」としても、当時の人々の記録による虐殺・破壊がなかった、小規模だった、と、考えるのもちょっと無理がある…
わたしは思うのですが、先ほど申しましたように、当時の
「比叡山」
そして「延暦寺」という言葉が、一個の山、個別の諸伽藍を指す言葉にとどまっていなかった、と、考えるべきだと思うんですよ。
比叡山を焼き討ちした
と言った場合は、その周辺地域、延暦寺に味方して協力するその地域の諸勢力の総体をぼんやりと説明したものではなかったか、ということです。
実際、足利義教の攻撃なども、「比叡山を焼き討ちにせよ」と指示しているにもかかわらず、伽藍諸堂は攻撃していません。
細川政元は、伽藍の破却をさせましたが、同時に追放した将軍に味方する地元の豪族を攻めたり調略したりしています。
織田信長のおこなった「比叡山の焼き討ち」も、(もちろん伽藍諸堂を含んで)地元ならびに諸勢力全体をさしていたとしたら矛盾の整合は説明ができます。
比叡山延暦寺勢力の焼き討ち
と、説明したほうがよいような気がしないわけでもありません。
1439年
永享の乱
で、足利持氏が倒されました。
(ちなみに乱そのものは1438年から始まります。)
これまた、え?? どんな話??? と、なられる方も多いと思います。
4代将軍は、足利義持。位を息子の義量に譲りました。
しかし、この子はわずか19歳で死んでしまいます。
将軍空位のまま、幕府の政治は義持がとることになりました。
他の守護大名たちは、後継将軍を早くに決めたいところですが、義量には子どもはいない…
教科書や参考書などでの説明では、「義持は後継を決めずに死去した」と説明されていて、さらに「くじ引きで」、義持の弟(つまり義満の子)たちの中から選ばれることになった、と、なっています。
後継者は決めませんでしたが、後継者の選び方はちゃんと決めていました。それがくじ引きという方法です。
ただし、ここで誤解があるんですが、生徒たちに「くじ引きで決まったんだよ」と説明すると、たいていの子たちは、候補者が集まって「くじ引き」をやって、「あ、おれ当たり!」みたいになったと、まるで抽選やアミダくじや、商店街のガラガラみたいなもんで決めた、と、イメージしちゃうんですよね。
そんな方法ではありません。くじ引きは
籤(くじ)
で決める、という方法です。
神前にて、候補者の名が書かれた籤を引く、というもの。
守護大名や側近たちは、義持の生前に籤をおこなおうとしたのですが、義持は拒否します。
そこで、折衷案として、生前に籤をおこなうけれど開封は義持が死んでから、ということになりました。
義持の側近であった三法院満済の主催のもと、有力守護大名がうちそろった中で籤が行われ、義持の死後に開封されました。
その結果選ばれたのが、出家していて比叡山延暦寺の座主となっていた義円(義満の三男)でした。で、還俗して(僧をやめて)将軍となりました。これが第6代将軍
足利義教
です。
ところが、この後継に不満だったのが、関東公方の足利持氏でした。
なんでわざわざ出家しているヤツを将軍にするねんっ
おれこそ将軍にふさわしいやろっ
と、兵を挙げても幕府に抗議しようとしました。
しかし、関東管領の上杉憲実に諌止され、なんとか戦争にはなりませんでしたが、
もう京都の言うことはきかんっ
関東は関東でやっていくぞっ
と、ことごとく足利義教のやることに逆らいはじめます。
当時、関東は、いわば株式会社室町幕府の関東支社とでもいうべき鎌倉府が治めていたのですが、その支社長が足利持氏。
次期社長候補に選ばれなかったことに不満を持ち、本社の言うこときかずかに“独立”を画策した、みたいなもんですね。
持氏に、なんとか反乱を起こさせないように苦労していたのが関東公方を補佐していた関東管領の上杉憲実だったのですが、「おれの言うこときかないなら、まずおまえを倒すっ」と足利持氏は上杉憲実を討伐しようとしました。
足利義教は、これをもって幕府への反乱である、と、断定して兵をおくり、足利持氏を倒しました。
これが永享の乱です。
足利義教は、まさに“恐怖の大王”でした。
自分に逆らう(というより、気に入らない)者を次々に退けていく…
他有力守護大名の後継にも干渉していく…
結局、義教もその専制をおそれた赤松氏によって暗殺され(嘉吉の変)、以後、将軍の権威は低下していくことになります。
永享の乱
で、足利持氏が倒されました。
(ちなみに乱そのものは1438年から始まります。)
これまた、え?? どんな話??? と、なられる方も多いと思います。
4代将軍は、足利義持。位を息子の義量に譲りました。
しかし、この子はわずか19歳で死んでしまいます。
将軍空位のまま、幕府の政治は義持がとることになりました。
他の守護大名たちは、後継将軍を早くに決めたいところですが、義量には子どもはいない…
教科書や参考書などでの説明では、「義持は後継を決めずに死去した」と説明されていて、さらに「くじ引きで」、義持の弟(つまり義満の子)たちの中から選ばれることになった、と、なっています。
後継者は決めませんでしたが、後継者の選び方はちゃんと決めていました。それがくじ引きという方法です。
ただし、ここで誤解があるんですが、生徒たちに「くじ引きで決まったんだよ」と説明すると、たいていの子たちは、候補者が集まって「くじ引き」をやって、「あ、おれ当たり!」みたいになったと、まるで抽選やアミダくじや、商店街のガラガラみたいなもんで決めた、と、イメージしちゃうんですよね。
そんな方法ではありません。くじ引きは
籤(くじ)
で決める、という方法です。
神前にて、候補者の名が書かれた籤を引く、というもの。
守護大名や側近たちは、義持の生前に籤をおこなおうとしたのですが、義持は拒否します。
そこで、折衷案として、生前に籤をおこなうけれど開封は義持が死んでから、ということになりました。
義持の側近であった三法院満済の主催のもと、有力守護大名がうちそろった中で籤が行われ、義持の死後に開封されました。
その結果選ばれたのが、出家していて比叡山延暦寺の座主となっていた義円(義満の三男)でした。で、還俗して(僧をやめて)将軍となりました。これが第6代将軍
足利義教
です。
ところが、この後継に不満だったのが、関東公方の足利持氏でした。
なんでわざわざ出家しているヤツを将軍にするねんっ
おれこそ将軍にふさわしいやろっ
と、兵を挙げても幕府に抗議しようとしました。
しかし、関東管領の上杉憲実に諌止され、なんとか戦争にはなりませんでしたが、
もう京都の言うことはきかんっ
関東は関東でやっていくぞっ
と、ことごとく足利義教のやることに逆らいはじめます。
当時、関東は、いわば株式会社室町幕府の関東支社とでもいうべき鎌倉府が治めていたのですが、その支社長が足利持氏。
次期社長候補に選ばれなかったことに不満を持ち、本社の言うこときかずかに“独立”を画策した、みたいなもんですね。
持氏に、なんとか反乱を起こさせないように苦労していたのが関東公方を補佐していた関東管領の上杉憲実だったのですが、「おれの言うこときかないなら、まずおまえを倒すっ」と足利持氏は上杉憲実を討伐しようとしました。
足利義教は、これをもって幕府への反乱である、と、断定して兵をおくり、足利持氏を倒しました。
これが永享の乱です。
足利義教は、まさに“恐怖の大王”でした。
自分に逆らう(というより、気に入らない)者を次々に退けていく…
他有力守護大名の後継にも干渉していく…
結局、義教もその専制をおそれた赤松氏によって暗殺され(嘉吉の変)、以後、将軍の権威は低下していくことになります。
1391年
明徳の乱が起こりました。
めいとくのらん?? 何それ?
と思われる方もいるかと思います。1391年というと室町時代。
ときの将軍は、室町幕府の超有名人、
足利義満
です。
義満、といえば、小学校の教科書では「金閣」を建てた人物として大きくとりあげられています。
征夷大将軍に就任しただけでなく、太政大臣、さらには法王にまでなり、当時の“三建”
武家 公家 僧
のトップに立つことになります。
彼に関して高校・大学入試で必出の説明は、
室町に花の御所を建てた。
金閣を建てた。
南北朝を合体した。
日明貿易を始めた。
そして、「有力な守護大名の力を抑えた」ということなどがあげられます。
この有力な守護大名をおさえた事件の一つが、明徳の乱です。
室町幕府は、足利尊氏、義詮の二代を支えた有力守護大名による連合政権として発足しました。
尊氏、義詮の二代は、「幕府」権力は安定せず、南北朝の争乱のみならず、北朝側の内紛(観応の擾乱)と相まって、戦国時代の様相を呈していました。
そのような中、実にうまく立ち回って勢力を拡大したのが
山名時氏
です。
足利尊氏が、高氏という名のときから高氏に協力し、鎌倉幕府を倒すことに力をつくします。
そして尊氏が後醍醐天皇に反旗をひるがえしたときも尊氏に従う。
尊氏の執事高師直と、尊氏の弟直義が対立する観応の擾乱が始まると、高師直と対立して直義に味方します。
ところが直義が死ぬと、再び尊氏に協力して、南朝の後村上天皇と戦います。
すると今度は、佐々木道誉と対立し、なんと南朝に寝返る…
そして直義の子、直冬(実は尊氏の子)を奉じて京都に侵入します。
当時の将軍は二代足利義詮。
義詮をなやませていた二大反幕府勢力が、この山名氏と大内氏でした。
義詮は、戦いによる討伐よりも調略による二氏の“ひきぬき”をおこないます。
大内氏には周防・長門(現在の山口県)の2ヶ国、山名氏には丹後・丹波(京都府と兵庫県の一部)・因幡・伯耆(鳥取県)・美作(岡山県の一部)の5ヶ国を、
「それぞれ本領安堵するからこっちにもどってきて。」
と申し出ました。これでいっきに形勢逆転。
南朝方は主要な機動戦力を失い、以後、南朝方はまとまった戦闘ができなくなりました。
義詮は、とにかく争乱平定を優先したのだと思います。
ただ、このことは、幕府内に大きな力を持つ守護大名をかかえることになり、足利氏の権力を揺るがしかねない状況を作り出してしまいました。
とくに山名氏は、全国66ヶ国のうち、一族で11ヶ国を支配する大勢力となってしまったのです(ゆえに“六分の一殿”と呼ばれるようになる)。
この父の“負債”を完済すべく、三代義満は大内・山名両氏の抑制を狙っていました。
さて、その大きな勢力を持っていた山名氏もおとろえが見え始めました。
時氏には五人の息子がいました。
師義・時義・氏清・氏冬・義理
です。
後をついだのは長男の師義でしたが、なんと後を継いでからわずか5年で死去。
その子、義幸・氏之・満幸らはまだ幼い…
「では、その子たちが成長するまでわたしが惣領となろう。」
と、師義の弟、時義が惣領となりました。
そして師義は、山名本家の後継者を、病弱の長男の義幸ではなく、氏之に指名し、おまけに氏之を自分の養子にむかえました。
あきらかに、本家の領地の乗っ取り目的です。
なんでやねんっ!
と怒ったのが、満幸。
病弱な義幸の世話をし、実質、家政を実質とりしきっていたのは満幸だったからです。
そして、この満幸の妻の父が伯父の
山名氏清
でした。氏清も満幸を支援すれば、本家の領地の支配権を握ることができるわけですから満幸を応援します。
そのような中、師義が死去し、師義の息子と時煕と養子の氏之が師義の後を継ぐようになります。
こうして山名一族は、
山名氏清・山名満幸 VS 山名時煕・山名氏之
が対立する構図となりました。ま、簡単に言うと、氏之、満幸の兄弟ゲンカを利用して叔父(義父)や従兄が遺産相続の分け前にあずかろうと絡んできた、という話です。
ここに目をつけたのが、足利義満です。
教科書にはさらりと「山名氏を“挑発”して」と意味ありげな説明がなされているのですが、その挑発とはどんなことだったかと申しますと…
氏清と満幸の二人を呼んでこう言います。
「よっしゃよっしゃ、話は、よ~わかった。そら、時煕と氏煕が悪いよなぁ~ そんな悪いやつら、やっつけたったらええがな。え? だいじょうぶだいじょうぶ。あんたらが勝ったらあいつらの領地、あんたらのもんにしたらええがな。」
将軍の“お墨付き”が出ました。氏清と満幸は氏之と時煕を攻めて追放しました。
これって「挑発した」というより「そそのかした」ってことですよね…
ところがところが、義満は、今度は氏之と時煕を呼んでこう言います。
「かわいそうやったなぁ~ あいつら悪いよなあ~ よしよし、おまえら二人、ゆるしたるわ。」
と、氏之と時煕を赦してしまいました。
むろん、氏清と満幸は怒ります。
「話が違いますやん! どういうことです?!」
とねじこんできたところ、逆に
「そんなことより、おまえ、後円融上皇さまの荘園の土地、どさくさまぎれて横領したやろっ これはゆるされへんなぁ~ 追放やっ!」
と宣言しました。
「はぁ?! ふざけんなっ」
と満幸と氏清は怒ります。
「こうなったら戦争やっ!」
となりました。
これって「挑発した」というより「いいがかりをつけた」ってことですよね…
これが明徳の乱です。
教科書には、「足利義満が山名氏を挑発して…」と書かれていますが、みなさんはこれからこの「挑発」の部分を「そそのかされた後、いいかがりをつけられて…」と読み替えておぼえておいてほしいと思います。
明徳の乱が起こりました。
めいとくのらん?? 何それ?
と思われる方もいるかと思います。1391年というと室町時代。
ときの将軍は、室町幕府の超有名人、
足利義満
です。
義満、といえば、小学校の教科書では「金閣」を建てた人物として大きくとりあげられています。
征夷大将軍に就任しただけでなく、太政大臣、さらには法王にまでなり、当時の“三建”
武家 公家 僧
のトップに立つことになります。
彼に関して高校・大学入試で必出の説明は、
室町に花の御所を建てた。
金閣を建てた。
南北朝を合体した。
日明貿易を始めた。
そして、「有力な守護大名の力を抑えた」ということなどがあげられます。
この有力な守護大名をおさえた事件の一つが、明徳の乱です。
室町幕府は、足利尊氏、義詮の二代を支えた有力守護大名による連合政権として発足しました。
尊氏、義詮の二代は、「幕府」権力は安定せず、南北朝の争乱のみならず、北朝側の内紛(観応の擾乱)と相まって、戦国時代の様相を呈していました。
そのような中、実にうまく立ち回って勢力を拡大したのが
山名時氏
です。
足利尊氏が、高氏という名のときから高氏に協力し、鎌倉幕府を倒すことに力をつくします。
そして尊氏が後醍醐天皇に反旗をひるがえしたときも尊氏に従う。
尊氏の執事高師直と、尊氏の弟直義が対立する観応の擾乱が始まると、高師直と対立して直義に味方します。
ところが直義が死ぬと、再び尊氏に協力して、南朝の後村上天皇と戦います。
すると今度は、佐々木道誉と対立し、なんと南朝に寝返る…
そして直義の子、直冬(実は尊氏の子)を奉じて京都に侵入します。
当時の将軍は二代足利義詮。
義詮をなやませていた二大反幕府勢力が、この山名氏と大内氏でした。
義詮は、戦いによる討伐よりも調略による二氏の“ひきぬき”をおこないます。
大内氏には周防・長門(現在の山口県)の2ヶ国、山名氏には丹後・丹波(京都府と兵庫県の一部)・因幡・伯耆(鳥取県)・美作(岡山県の一部)の5ヶ国を、
「それぞれ本領安堵するからこっちにもどってきて。」
と申し出ました。これでいっきに形勢逆転。
南朝方は主要な機動戦力を失い、以後、南朝方はまとまった戦闘ができなくなりました。
義詮は、とにかく争乱平定を優先したのだと思います。
ただ、このことは、幕府内に大きな力を持つ守護大名をかかえることになり、足利氏の権力を揺るがしかねない状況を作り出してしまいました。
とくに山名氏は、全国66ヶ国のうち、一族で11ヶ国を支配する大勢力となってしまったのです(ゆえに“六分の一殿”と呼ばれるようになる)。
この父の“負債”を完済すべく、三代義満は大内・山名両氏の抑制を狙っていました。
さて、その大きな勢力を持っていた山名氏もおとろえが見え始めました。
時氏には五人の息子がいました。
師義・時義・氏清・氏冬・義理
です。
後をついだのは長男の師義でしたが、なんと後を継いでからわずか5年で死去。
その子、義幸・氏之・満幸らはまだ幼い…
「では、その子たちが成長するまでわたしが惣領となろう。」
と、師義の弟、時義が惣領となりました。
そして師義は、山名本家の後継者を、病弱の長男の義幸ではなく、氏之に指名し、おまけに氏之を自分の養子にむかえました。
あきらかに、本家の領地の乗っ取り目的です。
なんでやねんっ!
と怒ったのが、満幸。
病弱な義幸の世話をし、実質、家政を実質とりしきっていたのは満幸だったからです。
そして、この満幸の妻の父が伯父の
山名氏清
でした。氏清も満幸を支援すれば、本家の領地の支配権を握ることができるわけですから満幸を応援します。
そのような中、師義が死去し、師義の息子と時煕と養子の氏之が師義の後を継ぐようになります。
こうして山名一族は、
山名氏清・山名満幸 VS 山名時煕・山名氏之
が対立する構図となりました。ま、簡単に言うと、氏之、満幸の兄弟ゲンカを利用して叔父(義父)や従兄が遺産相続の分け前にあずかろうと絡んできた、という話です。
ここに目をつけたのが、足利義満です。
教科書にはさらりと「山名氏を“挑発”して」と意味ありげな説明がなされているのですが、その挑発とはどんなことだったかと申しますと…
氏清と満幸の二人を呼んでこう言います。
「よっしゃよっしゃ、話は、よ~わかった。そら、時煕と氏煕が悪いよなぁ~ そんな悪いやつら、やっつけたったらええがな。え? だいじょうぶだいじょうぶ。あんたらが勝ったらあいつらの領地、あんたらのもんにしたらええがな。」
将軍の“お墨付き”が出ました。氏清と満幸は氏之と時煕を攻めて追放しました。
これって「挑発した」というより「そそのかした」ってことですよね…
ところがところが、義満は、今度は氏之と時煕を呼んでこう言います。
「かわいそうやったなぁ~ あいつら悪いよなあ~ よしよし、おまえら二人、ゆるしたるわ。」
と、氏之と時煕を赦してしまいました。
むろん、氏清と満幸は怒ります。
「話が違いますやん! どういうことです?!」
とねじこんできたところ、逆に
「そんなことより、おまえ、後円融上皇さまの荘園の土地、どさくさまぎれて横領したやろっ これはゆるされへんなぁ~ 追放やっ!」
と宣言しました。
「はぁ?! ふざけんなっ」
と満幸と氏清は怒ります。
「こうなったら戦争やっ!」
となりました。
これって「挑発した」というより「いいがかりをつけた」ってことですよね…
これが明徳の乱です。
教科書には、「足利義満が山名氏を挑発して…」と書かれていますが、みなさんはこれからこの「挑発」の部分を「そそのかされた後、いいかがりをつけられて…」と読み替えておぼえておいてほしいと思います。
1331年
元弘の変が起こりました。
元弘の変。
中学入試や高校入試には出題されることはありませんが、大学入試ではよく出題されるものです。
鎌倉時代末期。後醍醐天皇の倒幕運動のきっかけとなった事件です。
もともと天皇家の相続問題から、持明院統と大覚寺統の二派が対立します。
その問題解決のために、幕府は
二つの統から交代に天皇出せばよいやんっ
と、しました。いわゆる「両統迭立」の原則です。
(このあたりの詳しい話は拙著『超軽っ日本史』をごらんください。)
後醍醐天皇は、幕府に対する諸勢力(地方の豪族・御家人・寺院)の不満をくみとり、そして自身の子どもを天皇にすることによって進行中の改革を続けていくために、幕府を倒そうと画策しました。
1324年に一度、倒幕計画を進めたのですが露見してしまい(正中の変)、天皇には罪が及びませんでしたが、側近が処罰されるなど、いったん倒幕運動は封じ込められました。
しかし、後醍醐天皇はあきらめません。
比叡山や南都(奈良)の諸寺院勢力、近畿地方の地方豪族(悪党)たちをまとめて、軍事行動を起こそうとしました。
ところが、あまりに過激な計画におそれをなした側近、吉田定房が、このことを幕府にチクってしまいます。
裏切り、というより、天皇に罪が及ぶという最悪の事態を回避したいとう思い(承久の乱の悪夢)からの、“もうひとつの忠心”ともいえました。
後醍醐天皇はなかなかの策士です。
比叡山にこもる、と、みせかけて自身の身代わりを比叡山に送り込み、みずからは奈良の諸寺院の後援を得るため、京都を出ました。
このとき後醍醐天皇は女装して脱出した、というからなかなかの行動派。天皇が女装して御所を出る、など平治の乱以来の出来事です。
幕府はまんまとだまされ、比叡山を攻めました。
そして後醍醐天皇は笠置山に入って兵をあげ、それと呼応するかのように、大和吉野で護良親王が、河内赤坂で楠木正成が挙兵しました。
不満という名の火薬が爆発するには、導火線と種火が必要です。
元弘の変はその導火線と種火となりました。
しかし… 導火線についた火は、いったん踏み消されてしまいます。
挙兵は失敗し、後醍醐天皇はとらえられて隠岐に流され、幕府は別の天皇(持明院統の光厳天皇)を立てました。
以下は余談ですが…
関西で「たかじんのそこまで言って委員会」というたいへんおもしろい番組があります。
当時、御健在だった政治評論家の三宅久之さんが番組の中で、
わたしの御先祖は、児島高徳だっ
知っているか?
天、勾践をむなしゅうするなかれ
時に范蠡、なきにもあらず
ってな。
多くの出演者が、はぁ?という顔をされていたのですが、わたしはテレビをみながら
ええ?? まじかっ!
と叫んでしまいました。
挙兵に失敗した後醍醐天皇は、隠岐まで連行されたのですが、実はこのとき、
“まぼろしの救出作戦”
が実行されようとしました。
京都から隠岐に流される後醍醐天皇一行を襲撃し、後醍醐天皇を奪還する、という作戦です。
これを企画したのが
児島高徳
なんです。
仲間をひきいて待ち伏せし、天皇を救出しようとしたのですが護送ルートを読み間違えて失敗、仲間たちは救出をあきらめて解散してしまいました。
しかし、児島高徳は一人あきらめません。隠岐までの途中ルートの休憩ポイントで夜を待ち、単身救出を試みようとしますが、あまりに厳重な警備に決行できず、無念の涙…
こっそり寝所の近くに忍び込み、庭の桜の木にの幹に、文字を刻んで退散します。
このとき、刻んだ文字が
天莫空勾践
時非無范蠡
中国の故事、越王勾践を助けた范蠡の話から引用したものです。
戦前の教科書には必ずとりあげられていた人物で、江戸時代から「忠臣」として顕彰されている人物です。
一時期、実在しないと言われていましたが、現在の研究では実在していたことがほぼ確認されています。
享保年間にとくに人気があり、多くの武士たちが、高徳にあやかろうと(住んでいる場所やゆかりの地が故郷の者たちは)「自身の御先祖である」と主張するようになり、系図を作成しました。
実際、児島高徳の子孫とよばれる人の姓には「三宅姓」が多く、児島高徳関連資料としては、『三宅家正伝』というものも存在しています。
「三宅」姓以外にも、今木・大富・和田、という姓を持つ武士たちの多くは児島高徳をご先祖さまとしている者が多くいました。
後醍醐天皇は、正中の変後、いろいろな勢力を味方につけていきますが、下級貴族や地方豪族、諸寺院の他に
修験道
の人々、いわゆる山伏の勢力も味方につけています。
児島高徳の出身地、岡山県の児島のあたりは、修験道がさかんな地。
児島高徳の太平記で登場する“活躍”をみると、偵察や諜報活動が多く、まぼろしに終わった後醍醐天皇救出作戦も、宿舎の庭にしのびこんで文字を刻んで帰ってくるなど、まるで忍者やスパイのような活躍です。
どうやら、児島高徳は、こういう役回りの存在だったような気がします。
ゆえに記録にはあまり残らず、その実在が疑われるようになった、と考えるとツジツマは合います。(「吉備地方史の研究」(藤井駿)・「津山市史(第2巻)」などより)
さて、元弘の変ですが…
児島高徳の行動にみられるように、踏み消された導火線の火は、完全に消えずにくすぶり続けていたのです。
楠木正成、護良親王、赤松円心らが次々に挙兵。
後醍醐天皇も名和長年に救出され、六波羅探題は足利高氏に攻略され、鎌倉幕府も新田義貞によって滅ぼされることになります。
以下は蛇足ですが…
明治時代に発行された「二円札」。
ここに描かれていた人物が、なんと
新田義貞と児島高徳
なんです。
桜の木に十文字を刻む児島高徳と、海に剣を奉ずる新田義貞の絵…
幕府滅亡は児島高徳に始まり新田義貞に終わる、という当時の史観が反映されているのかもしれません。
元弘の変が起こりました。
元弘の変。
中学入試や高校入試には出題されることはありませんが、大学入試ではよく出題されるものです。
鎌倉時代末期。後醍醐天皇の倒幕運動のきっかけとなった事件です。
もともと天皇家の相続問題から、持明院統と大覚寺統の二派が対立します。
その問題解決のために、幕府は
二つの統から交代に天皇出せばよいやんっ
と、しました。いわゆる「両統迭立」の原則です。
(このあたりの詳しい話は拙著『超軽っ日本史』をごらんください。)
後醍醐天皇は、幕府に対する諸勢力(地方の豪族・御家人・寺院)の不満をくみとり、そして自身の子どもを天皇にすることによって進行中の改革を続けていくために、幕府を倒そうと画策しました。
1324年に一度、倒幕計画を進めたのですが露見してしまい(正中の変)、天皇には罪が及びませんでしたが、側近が処罰されるなど、いったん倒幕運動は封じ込められました。
しかし、後醍醐天皇はあきらめません。
比叡山や南都(奈良)の諸寺院勢力、近畿地方の地方豪族(悪党)たちをまとめて、軍事行動を起こそうとしました。
ところが、あまりに過激な計画におそれをなした側近、吉田定房が、このことを幕府にチクってしまいます。
裏切り、というより、天皇に罪が及ぶという最悪の事態を回避したいとう思い(承久の乱の悪夢)からの、“もうひとつの忠心”ともいえました。
後醍醐天皇はなかなかの策士です。
比叡山にこもる、と、みせかけて自身の身代わりを比叡山に送り込み、みずからは奈良の諸寺院の後援を得るため、京都を出ました。
このとき後醍醐天皇は女装して脱出した、というからなかなかの行動派。天皇が女装して御所を出る、など平治の乱以来の出来事です。
幕府はまんまとだまされ、比叡山を攻めました。
そして後醍醐天皇は笠置山に入って兵をあげ、それと呼応するかのように、大和吉野で護良親王が、河内赤坂で楠木正成が挙兵しました。
不満という名の火薬が爆発するには、導火線と種火が必要です。
元弘の変はその導火線と種火となりました。
しかし… 導火線についた火は、いったん踏み消されてしまいます。
挙兵は失敗し、後醍醐天皇はとらえられて隠岐に流され、幕府は別の天皇(持明院統の光厳天皇)を立てました。
以下は余談ですが…
関西で「たかじんのそこまで言って委員会」というたいへんおもしろい番組があります。
当時、御健在だった政治評論家の三宅久之さんが番組の中で、
わたしの御先祖は、児島高徳だっ
知っているか?
天、勾践をむなしゅうするなかれ
時に范蠡、なきにもあらず
ってな。
多くの出演者が、はぁ?という顔をされていたのですが、わたしはテレビをみながら
ええ?? まじかっ!
と叫んでしまいました。
挙兵に失敗した後醍醐天皇は、隠岐まで連行されたのですが、実はこのとき、
“まぼろしの救出作戦”
が実行されようとしました。
京都から隠岐に流される後醍醐天皇一行を襲撃し、後醍醐天皇を奪還する、という作戦です。
これを企画したのが
児島高徳
なんです。
仲間をひきいて待ち伏せし、天皇を救出しようとしたのですが護送ルートを読み間違えて失敗、仲間たちは救出をあきらめて解散してしまいました。
しかし、児島高徳は一人あきらめません。隠岐までの途中ルートの休憩ポイントで夜を待ち、単身救出を試みようとしますが、あまりに厳重な警備に決行できず、無念の涙…
こっそり寝所の近くに忍び込み、庭の桜の木にの幹に、文字を刻んで退散します。
このとき、刻んだ文字が
天莫空勾践
時非無范蠡
中国の故事、越王勾践を助けた范蠡の話から引用したものです。
戦前の教科書には必ずとりあげられていた人物で、江戸時代から「忠臣」として顕彰されている人物です。
一時期、実在しないと言われていましたが、現在の研究では実在していたことがほぼ確認されています。
享保年間にとくに人気があり、多くの武士たちが、高徳にあやかろうと(住んでいる場所やゆかりの地が故郷の者たちは)「自身の御先祖である」と主張するようになり、系図を作成しました。
実際、児島高徳の子孫とよばれる人の姓には「三宅姓」が多く、児島高徳関連資料としては、『三宅家正伝』というものも存在しています。
「三宅」姓以外にも、今木・大富・和田、という姓を持つ武士たちの多くは児島高徳をご先祖さまとしている者が多くいました。
後醍醐天皇は、正中の変後、いろいろな勢力を味方につけていきますが、下級貴族や地方豪族、諸寺院の他に
修験道
の人々、いわゆる山伏の勢力も味方につけています。
児島高徳の出身地、岡山県の児島のあたりは、修験道がさかんな地。
児島高徳の太平記で登場する“活躍”をみると、偵察や諜報活動が多く、まぼろしに終わった後醍醐天皇救出作戦も、宿舎の庭にしのびこんで文字を刻んで帰ってくるなど、まるで忍者やスパイのような活躍です。
どうやら、児島高徳は、こういう役回りの存在だったような気がします。
ゆえに記録にはあまり残らず、その実在が疑われるようになった、と考えるとツジツマは合います。(「吉備地方史の研究」(藤井駿)・「津山市史(第2巻)」などより)
さて、元弘の変ですが…
児島高徳の行動にみられるように、踏み消された導火線の火は、完全に消えずにくすぶり続けていたのです。
楠木正成、護良親王、赤松円心らが次々に挙兵。
後醍醐天皇も名和長年に救出され、六波羅探題は足利高氏に攻略され、鎌倉幕府も新田義貞によって滅ぼされることになります。
以下は蛇足ですが…
明治時代に発行された「二円札」。
ここに描かれていた人物が、なんと
新田義貞と児島高徳
なんです。
桜の木に十文字を刻む児島高徳と、海に剣を奉ずる新田義貞の絵…
幕府滅亡は児島高徳に始まり新田義貞に終わる、という当時の史観が反映されているのかもしれません。