未年に何が起こったか?(8) | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

1331年

元弘の変が起こりました。

元弘の変。
中学入試や高校入試には出題されることはありませんが、大学入試ではよく出題されるものです。

鎌倉時代末期。後醍醐天皇の倒幕運動のきっかけとなった事件です。

もともと天皇家の相続問題から、持明院統と大覚寺統の二派が対立します。
その問題解決のために、幕府は

 二つの統から交代に天皇出せばよいやんっ

と、しました。いわゆる「両統迭立」の原則です。
(このあたりの詳しい話は拙著『超軽っ日本史』をごらんください。)

後醍醐天皇は、幕府に対する諸勢力(地方の豪族・御家人・寺院)の不満をくみとり、そして自身の子どもを天皇にすることによって進行中の改革を続けていくために、幕府を倒そうと画策しました。

1324年に一度、倒幕計画を進めたのですが露見してしまい(正中の変)、天皇には罪が及びませんでしたが、側近が処罰されるなど、いったん倒幕運動は封じ込められました。

しかし、後醍醐天皇はあきらめません。
比叡山や南都(奈良)の諸寺院勢力、近畿地方の地方豪族(悪党)たちをまとめて、軍事行動を起こそうとしました。

ところが、あまりに過激な計画におそれをなした側近、吉田定房が、このことを幕府にチクってしまいます。
裏切り、というより、天皇に罪が及ぶという最悪の事態を回避したいとう思い(承久の乱の悪夢)からの、“もうひとつの忠心”ともいえました。

後醍醐天皇はなかなかの策士です。
比叡山にこもる、と、みせかけて自身の身代わりを比叡山に送り込み、みずからは奈良の諸寺院の後援を得るため、京都を出ました。

このとき後醍醐天皇は女装して脱出した、というからなかなかの行動派。天皇が女装して御所を出る、など平治の乱以来の出来事です。

幕府はまんまとだまされ、比叡山を攻めました。

そして後醍醐天皇は笠置山に入って兵をあげ、それと呼応するかのように、大和吉野で護良親王が、河内赤坂で楠木正成が挙兵しました。

不満という名の火薬が爆発するには、導火線と種火が必要です。
元弘の変はその導火線と種火となりました。

しかし… 導火線についた火は、いったん踏み消されてしまいます。
挙兵は失敗し、後醍醐天皇はとらえられて隠岐に流され、幕府は別の天皇(持明院統の光厳天皇)を立てました。

以下は余談ですが…

関西で「たかじんのそこまで言って委員会」というたいへんおもしろい番組があります。
当時、御健在だった政治評論家の三宅久之さんが番組の中で、

 わたしの御先祖は、児島高徳だっ
 知っているか? 
 天、勾践をむなしゅうするなかれ
 時に范蠡、なきにもあらず
 ってな。

多くの出演者が、はぁ?という顔をされていたのですが、わたしはテレビをみながら

 ええ?? まじかっ!

と叫んでしまいました。

挙兵に失敗した後醍醐天皇は、隠岐まで連行されたのですが、実はこのとき、

“まぼろしの救出作戦”

が実行されようとしました。

京都から隠岐に流される後醍醐天皇一行を襲撃し、後醍醐天皇を奪還する、という作戦です。
これを企画したのが

 児島高徳

なんです。
仲間をひきいて待ち伏せし、天皇を救出しようとしたのですが護送ルートを読み間違えて失敗、仲間たちは救出をあきらめて解散してしまいました。

しかし、児島高徳は一人あきらめません。隠岐までの途中ルートの休憩ポイントで夜を待ち、単身救出を試みようとしますが、あまりに厳重な警備に決行できず、無念の涙…

こっそり寝所の近くに忍び込み、庭の桜の木にの幹に、文字を刻んで退散します。
このとき、刻んだ文字が

 天莫空勾践
 時非無范蠡

中国の故事、越王勾践を助けた范蠡の話から引用したものです。

戦前の教科書には必ずとりあげられていた人物で、江戸時代から「忠臣」として顕彰されている人物です。
一時期、実在しないと言われていましたが、現在の研究では実在していたことがほぼ確認されています。

享保年間にとくに人気があり、多くの武士たちが、高徳にあやかろうと(住んでいる場所やゆかりの地が故郷の者たちは)「自身の御先祖である」と主張するようになり、系図を作成しました。

実際、児島高徳の子孫とよばれる人の姓には「三宅姓」が多く、児島高徳関連資料としては、『三宅家正伝』というものも存在しています。
「三宅」姓以外にも、今木・大富・和田、という姓を持つ武士たちの多くは児島高徳をご先祖さまとしている者が多くいました。

後醍醐天皇は、正中の変後、いろいろな勢力を味方につけていきますが、下級貴族や地方豪族、諸寺院の他に

 修験道

の人々、いわゆる山伏の勢力も味方につけています。

児島高徳の出身地、岡山県の児島のあたりは、修験道がさかんな地。
児島高徳の太平記で登場する“活躍”をみると、偵察や諜報活動が多く、まぼろしに終わった後醍醐天皇救出作戦も、宿舎の庭にしのびこんで文字を刻んで帰ってくるなど、まるで忍者やスパイのような活躍です。
どうやら、児島高徳は、こういう役回りの存在だったような気がします。
ゆえに記録にはあまり残らず、その実在が疑われるようになった、と考えるとツジツマは合います。(「吉備地方史の研究」(藤井駿)・「津山市史(第2巻)」などより)

さて、元弘の変ですが…

児島高徳の行動にみられるように、踏み消された導火線の火は、完全に消えずにくすぶり続けていたのです。
楠木正成、護良親王、赤松円心らが次々に挙兵。
後醍醐天皇も名和長年に救出され、六波羅探題は足利高氏に攻略され、鎌倉幕府も新田義貞によって滅ぼされることになります。

以下は蛇足ですが…

明治時代に発行された「二円札」。
ここに描かれていた人物が、なんと

 新田義貞と児島高徳

なんです。

桜の木に十文字を刻む児島高徳と、海に剣を奉ずる新田義貞の絵…

幕府滅亡は児島高徳に始まり新田義貞に終わる、という当時の史観が反映されているのかもしれません。