未年に何が起こったか?(9) | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

1391年

明徳の乱が起こりました。

 めいとくのらん?? 何それ?

と思われる方もいるかと思います。1391年というと室町時代。
ときの将軍は、室町幕府の超有名人、

 足利義満

です。

義満、といえば、小学校の教科書では「金閣」を建てた人物として大きくとりあげられています。
征夷大将軍に就任しただけでなく、太政大臣、さらには法王にまでなり、当時の“三建”

 武家 公家 僧

のトップに立つことになります。

彼に関して高校・大学入試で必出の説明は、

 室町に花の御所を建てた。
 金閣を建てた。
 南北朝を合体した。
 日明貿易を始めた。
 
そして、「有力な守護大名の力を抑えた」ということなどがあげられます。

この有力な守護大名をおさえた事件の一つが、明徳の乱です。

室町幕府は、足利尊氏、義詮の二代を支えた有力守護大名による連合政権として発足しました。

尊氏、義詮の二代は、「幕府」権力は安定せず、南北朝の争乱のみならず、北朝側の内紛(観応の擾乱)と相まって、戦国時代の様相を呈していました。

そのような中、実にうまく立ち回って勢力を拡大したのが

 山名時氏

です。
足利尊氏が、高氏という名のときから高氏に協力し、鎌倉幕府を倒すことに力をつくします。
そして尊氏が後醍醐天皇に反旗をひるがえしたときも尊氏に従う。
尊氏の執事高師直と、尊氏の弟直義が対立する観応の擾乱が始まると、高師直と対立して直義に味方します。
ところが直義が死ぬと、再び尊氏に協力して、南朝の後村上天皇と戦います。
すると今度は、佐々木道誉と対立し、なんと南朝に寝返る… 
そして直義の子、直冬(実は尊氏の子)を奉じて京都に侵入します。

当時の将軍は二代足利義詮。
義詮をなやませていた二大反幕府勢力が、この山名氏と大内氏でした。
義詮は、戦いによる討伐よりも調略による二氏の“ひきぬき”をおこないます。

大内氏には周防・長門(現在の山口県)の2ヶ国、山名氏には丹後・丹波(京都府と兵庫県の一部)・因幡・伯耆(鳥取県)・美作(岡山県の一部)の5ヶ国を、

 「それぞれ本領安堵するからこっちにもどってきて。」

と申し出ました。これでいっきに形勢逆転。
南朝方は主要な機動戦力を失い、以後、南朝方はまとまった戦闘ができなくなりました。

義詮は、とにかく争乱平定を優先したのだと思います。
ただ、このことは、幕府内に大きな力を持つ守護大名をかかえることになり、足利氏の権力を揺るがしかねない状況を作り出してしまいました。
とくに山名氏は、全国66ヶ国のうち、一族で11ヶ国を支配する大勢力となってしまったのです(ゆえに“六分の一殿”と呼ばれるようになる)。

この父の“負債”を完済すべく、三代義満は大内・山名両氏の抑制を狙っていました。

さて、その大きな勢力を持っていた山名氏もおとろえが見え始めました。
時氏には五人の息子がいました。

師義・時義・氏清・氏冬・義理

です。

後をついだのは長男の師義でしたが、なんと後を継いでからわずか5年で死去。
その子、義幸・氏之・満幸らはまだ幼い…

 「では、その子たちが成長するまでわたしが惣領となろう。」

と、師義の弟、時義が惣領となりました。
そして師義は、山名本家の後継者を、病弱の長男の義幸ではなく、氏之に指名し、おまけに氏之を自分の養子にむかえました。
あきらかに、本家の領地の乗っ取り目的です。

 なんでやねんっ!

と怒ったのが、満幸。
病弱な義幸の世話をし、実質、家政を実質とりしきっていたのは満幸だったからです。
そして、この満幸の妻の父が伯父の

 山名氏清

でした。氏清も満幸を支援すれば、本家の領地の支配権を握ることができるわけですから満幸を応援します。

そのような中、師義が死去し、師義の息子と時煕と養子の氏之が師義の後を継ぐようになります。
こうして山名一族は、

 山名氏清・山名満幸 VS 山名時煕・山名氏之

が対立する構図となりました。ま、簡単に言うと、氏之、満幸の兄弟ゲンカを利用して叔父(義父)や従兄が遺産相続の分け前にあずかろうと絡んできた、という話です。

ここに目をつけたのが、足利義満です。

教科書にはさらりと「山名氏を“挑発”して」と意味ありげな説明がなされているのですが、その挑発とはどんなことだったかと申しますと…

氏清と満幸の二人を呼んでこう言います。

「よっしゃよっしゃ、話は、よ~わかった。そら、時煕と氏煕が悪いよなぁ~ そんな悪いやつら、やっつけたったらええがな。え? だいじょうぶだいじょうぶ。あんたらが勝ったらあいつらの領地、あんたらのもんにしたらええがな。」

将軍の“お墨付き”が出ました。氏清と満幸は氏之と時煕を攻めて追放しました。

これって「挑発した」というより「そそのかした」ってことですよね…

ところがところが、義満は、今度は氏之と時煕を呼んでこう言います。

「かわいそうやったなぁ~ あいつら悪いよなあ~ よしよし、おまえら二人、ゆるしたるわ。」

と、氏之と時煕を赦してしまいました。

むろん、氏清と満幸は怒ります。

「話が違いますやん! どういうことです?!」
とねじこんできたところ、逆に

「そんなことより、おまえ、後円融上皇さまの荘園の土地、どさくさまぎれて横領したやろっ これはゆるされへんなぁ~ 追放やっ!」

と宣言しました。

「はぁ?! ふざけんなっ」

と満幸と氏清は怒ります。

「こうなったら戦争やっ!」

となりました。

これって「挑発した」というより「いいがかりをつけた」ってことですよね…

これが明徳の乱です。

教科書には、「足利義満が山名氏を挑発して…」と書かれていますが、みなさんはこれからこの「挑発」の部分を「そそのかされた後、いいかがりをつけられて…」と読み替えておぼえておいてほしいと思います。