1439年
永享の乱
で、足利持氏が倒されました。
(ちなみに乱そのものは1438年から始まります。)
これまた、え?? どんな話??? と、なられる方も多いと思います。
4代将軍は、足利義持。位を息子の義量に譲りました。
しかし、この子はわずか19歳で死んでしまいます。
将軍空位のまま、幕府の政治は義持がとることになりました。
他の守護大名たちは、後継将軍を早くに決めたいところですが、義量には子どもはいない…
教科書や参考書などでの説明では、「義持は後継を決めずに死去した」と説明されていて、さらに「くじ引きで」、義持の弟(つまり義満の子)たちの中から選ばれることになった、と、なっています。
後継者は決めませんでしたが、後継者の選び方はちゃんと決めていました。それがくじ引きという方法です。
ただし、ここで誤解があるんですが、生徒たちに「くじ引きで決まったんだよ」と説明すると、たいていの子たちは、候補者が集まって「くじ引き」をやって、「あ、おれ当たり!」みたいになったと、まるで抽選やアミダくじや、商店街のガラガラみたいなもんで決めた、と、イメージしちゃうんですよね。
そんな方法ではありません。くじ引きは
籤(くじ)
で決める、という方法です。
神前にて、候補者の名が書かれた籤を引く、というもの。
守護大名や側近たちは、義持の生前に籤をおこなおうとしたのですが、義持は拒否します。
そこで、折衷案として、生前に籤をおこなうけれど開封は義持が死んでから、ということになりました。
義持の側近であった三法院満済の主催のもと、有力守護大名がうちそろった中で籤が行われ、義持の死後に開封されました。
その結果選ばれたのが、出家していて比叡山延暦寺の座主となっていた義円(義満の三男)でした。で、還俗して(僧をやめて)将軍となりました。これが第6代将軍
足利義教
です。
ところが、この後継に不満だったのが、関東公方の足利持氏でした。
なんでわざわざ出家しているヤツを将軍にするねんっ
おれこそ将軍にふさわしいやろっ
と、兵を挙げても幕府に抗議しようとしました。
しかし、関東管領の上杉憲実に諌止され、なんとか戦争にはなりませんでしたが、
もう京都の言うことはきかんっ
関東は関東でやっていくぞっ
と、ことごとく足利義教のやることに逆らいはじめます。
当時、関東は、いわば株式会社室町幕府の関東支社とでもいうべき鎌倉府が治めていたのですが、その支社長が足利持氏。
次期社長候補に選ばれなかったことに不満を持ち、本社の言うこときかずかに“独立”を画策した、みたいなもんですね。
持氏に、なんとか反乱を起こさせないように苦労していたのが関東公方を補佐していた関東管領の上杉憲実だったのですが、「おれの言うこときかないなら、まずおまえを倒すっ」と足利持氏は上杉憲実を討伐しようとしました。
足利義教は、これをもって幕府への反乱である、と、断定して兵をおくり、足利持氏を倒しました。
これが永享の乱です。
足利義教は、まさに“恐怖の大王”でした。
自分に逆らう(というより、気に入らない)者を次々に退けていく…
他有力守護大名の後継にも干渉していく…
結局、義教もその専制をおそれた赤松氏によって暗殺され(嘉吉の変)、以後、将軍の権威は低下していくことになります。