1571年
織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしました。
これは小学校の教科書にも「信長の統一への道」を記した年表にしっかりと記載されています。
“古きを挫き、新しきを築く”
信長像は、教科書がよく描くところです。
・今川義元を桶狭間の戦いに破る
・美濃を平定して「天下布武」の印を使用する
・比叡山延暦寺を焼き討ちする
・長篠の戦いで武田の騎馬隊を大量の鉄砲を使用して退ける
ここに「楽市」や関所の廃止の話がくっついて、信長が旧世界から新世界へと導く旗手であるかのように描かれていきます。
別にこの視点は誤り、というわけではありません。
古きを挫く、という一つの象徴として比叡山延暦寺の焼き討ちがよく語られるところです。
宗教や古い権威をおそれぬ信長、という“像”を示すには
信仰の対象である寺院の破壊
というのはもっともてっとりばやい説明にもなります。同時に苛烈な信長の性格も描けるところ…
ただ、比叡山の焼き討ち、にはいくつかの誤解もあります。
まず、“焼き討ち”の第一号は信長ではありません。
前回紹介した“くじ引き将軍”足利義教も「比叡山の焼き討ち」をおこなっています… と、言いたいところですが、彼は寺院そのものを攻撃した、というより、坂本や比叡山のふもとなどを攻撃して延暦寺を威圧し、それに抗議した僧たちが、「自ら根本中堂に火を放った」というのが実相でした。
それから、「比叡山」というと、伽藍諸堂を持つ一個の山、というより、その周辺ならびにその勢力全体をぼんやりと示す言葉として当時は使用していたようなのです。
それと関係して、実は
延暦寺
という一個の寺は存在しません。さまざまな伽藍諸堂の総体を「延暦寺」と称しているんです。
本格的にこれらを破却したのは、応仁の乱後、1499年の
細川政元
による比叡山延暦寺の焼き討ち、というのが最初でしょう。
当時の将軍(足利義材)を追放し、新しい政権をつくったところで、それに反対する勢力が細川政元を包囲します。追放された将軍が政権を奪還しようと北陸から京都に迫る… 比叡山延暦寺勢力もこれに味方しようとする。
政元はその出鼻をくじくため、延暦寺を焼き討ちし、伽藍諸堂をことごとく灰にしました。
で、織田信長の焼き討ちの話です。
信長が伽藍諸堂をことごとく灰にし、女や子どもなども虐殺した、という説明がよくされますし、当時の記録(『信長公記』や貴族たちの日記)にも記されていますが…
滋賀県教育委員会の比叡山の発掘調査や、英俊という名の僧が、1570年に延暦寺の様子を記した文献をみると、信長が焼き討ちしたときには、細川政元による焼き討ちや、足利義教の攻撃によって、伽藍諸堂そのものはすでに多くは失われていて、「信長の破壊」はそれほどではないことがわかりつつあります。
考古学的調査と史料的な記録がなかなか整合しない…
一つは、さきほど説明した「信長のイメージ」に添った形で、焼き討ちが「誇張」され、破壊の様子が増幅された、ともいえるのですが、いくら「直接見たわけではない」としても、当時の人々の記録による虐殺・破壊がなかった、小規模だった、と、考えるのもちょっと無理がある…
わたしは思うのですが、先ほど申しましたように、当時の
「比叡山」
そして「延暦寺」という言葉が、一個の山、個別の諸伽藍を指す言葉にとどまっていなかった、と、考えるべきだと思うんですよ。
比叡山を焼き討ちした
と言った場合は、その周辺地域、延暦寺に味方して協力するその地域の諸勢力の総体をぼんやりと説明したものではなかったか、ということです。
実際、足利義教の攻撃なども、「比叡山を焼き討ちにせよ」と指示しているにもかかわらず、伽藍諸堂は攻撃していません。
細川政元は、伽藍の破却をさせましたが、同時に追放した将軍に味方する地元の豪族を攻めたり調略したりしています。
織田信長のおこなった「比叡山の焼き討ち」も、(もちろん伽藍諸堂を含んで)地元ならびに諸勢力全体をさしていたとしたら矛盾の整合は説明ができます。
比叡山延暦寺勢力の焼き討ち
と、説明したほうがよいような気がしないわけでもありません。