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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

1271年

モンゴル帝国のハン、フビライが国号を元と定めました。
いわゆる元帝国の成立した年、といってもよいと思います。

もともとフビライは、4代ハンのモンゲの下、朝鮮半島や南宋攻略の指揮官として対南政策をまかされていました。
ところが、作戦のあり方をめぐってモンゲと対立し、指揮権を停止されてしまいます。
別の人物に担当させましたが、うまくいかず、モンゲは自ら指揮して中国征服に乗り出しました。

ところが、遠征途上、モンゲは病死してしまい、遠征軍は撤収を始めます。
敵前からの撤退、というのは至難の業で、本軍の撤退後、前線に取り残された部隊もたくさんありました。
南宋軍の追撃を受けて、さまよう軍も多かったようです。
それをまとめて態勢を整えたのがフビライでした。とくにオゴタイ・ハンの時代から仕えていた名将ウリヤンカダイを救援したことは、彼と彼の幕僚たちの支持を得ることになり、前線の将兵にモンゴル貴族の子弟も多くいたことから、フビライは彼らの支持と信頼を得ることになります。

一方、モンゲの留守をまかされて首都カラコルムにいたのはアリグプカ。
当時首都をまかされる、というのは後継者指名に近い意味がありましたから、モンゲ・ハンの後継者をめぐって、アリグプカとフビライが対立、それぞれクリルタイ(後継者選出会議)を開いて。それぞれがハンの名乗りをあげました。

結局、この後継者争いに勝利したフビライがハンとなるのですが、以後、モンゴル帝国は、ゆるやかな連邦国家とでもいうべき集合体へと移行していきます。

で、華北部に勢力をもったフビライは、大都(現在の北京)を首都に定め、そうして1271年、国号を

 元

と定めました。

さて、1271年、というと、モンゴルへの服属を要求する五度目の使者が日本を訪れた年でもあります。
元の襲来が近い… と、判断した当時の執権北条時宗は、襲来にそなえて異国警固番役を九州の御家人に課すことにしました。
これは役所の名称ではなく、軍役の名称です。
この役を命ぜられた御家人は、鎌倉役や京都大番役は免除されました。

ちなみに、福岡市中央区に「警固(けご)」という地名がありますが、この異国警固番役に由来した地名なんですよ。

さてさて、

「モンゴルから日本の服属を求めた使者が日本に来ました。この時の執権は誰ですか?」

という問題があったとすると、多くの受験生は

 北条時宗

と答えてしまいそうですが、実は厳密には間違いです。
第一回目の使者が来たとき(1268年)の執権は、第7代、北条政村でした。
この使者を受けて、幕府内の団結と政治支配の強化を図るため、政村は時宗に執権の位を譲り、体制を整えることになったのです。

ところで。

1271年、ちょっとした“事件”も起こっています。

他仏教の宗派を誹謗・中傷した、ということで日蓮が捕えられ、処刑されそうになりました。
ところが、

 江ノ島の方より月のごとく光たる物まりのようにて
 辰巳の方より戌亥の方へ光渡

 太刀取
 目くらみ倒れ臥し
 兵共おぢ怖れる

と日蓮自身がそのときの事件を記しています。

隕石の落下… でしょうか…

結果、日蓮は処刑を免れ、佐渡へ流罪となりました。
1019年

藤原頼通が関白となりました。

前にも申しましたように、父の藤原道長は関白にはなっていません。それに対して頼通は、関白にもなり、摂政にもなりましたから、言葉のみにこだわるならば、「摂関政治の全盛期」は頼通の時代、といってもよいと思います。

弁証法的に説明しますと、全盛期はすなわち、頂点ということで、この後は衰えていく、ということです。
満月は、あとは欠けてゆくだけ…

全盛期にこそ、衰退の原因が同時進行している、というわけです。

かつて教科書では、摂関政治の説明があってから武士の台頭を説明していたものだから、藤原道長と頼通の話をしてから、平将門の乱や藤原純友の乱を説明してしまっていました。
年代をちゃんと表記しているものの、子どもたちに、摂関政治の後、武士の反乱があった、という印象をあたえてしまっていたことがあります(現在の教科書では是正されています)。

また、「同時進行」というのは、教科書ではなかなかまとめにくく、藤原頼通の時代に

 刀伊の入寇
 平忠常の乱
 前九年の役

などが起こっています。
貴族の政治、というと華やかなイメージが先行しがちですが、地方はかなり乱れていました。
藤原氏の全盛、とは、すなわち政治の要職を藤原氏が占めている、というだけで、政治の安定とは無関係な説明であることを忘れてはいけません。

生徒たちに、よくこういうことを言います。

 少しくらい欠点があっても気にしてはいけない。
 欠点や弱点で滅びることは無いんだよ。
 滅び、とは、長所や強みを失ったときに起こるんだ。

藤原氏が栄えた理由とは、

・自分の娘を天皇と結婚させて生まれた子を天皇とする(天皇の外戚となる)。
・寄進によって荘園が集中した。
・他の貴族を退けた(他氏の排斥)。

の三つにまとめられます。
これを裏返せば、そのまま藤原氏の衰退の原因を説明できるんですよね。

藤原頼通は、天皇の外戚となることはできず、藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位しました。
後三条天皇は、荘園整理令を出し、藤原氏に集中した荘園にメスを入れます。
藤原氏によって排斥された他の貴族や寺院たちは、後に上皇と結んで院政を支えます。

さて、受験生のみなさん。
不得意な教科や苦手な分野で苦しんでいませんか?
安心してください。
実際の入試で、不得意教科や苦手分野で不合格になることはあまりないんですよね。
むしろ、なんとか落ちない点数にまとめられている場合が多い。

不合格になるときは、たいてい自分の得意な教科や分野を、入試の本番で失敗してしまったときなんです。

この教科は得意だから、この分野はもうできているから、と、苦手や不得意な教科ばかりを勉強してしまい、かんじんのできている教科を疎かにしてしまって、本番、点数とれるばすの教科で大きく失点してしまう…

 欠点や弱点では滅びない。
 長所を失ったときに滅びてしまう。

藤原氏の政治から学んでください。
935年

平将門の乱が起こりました…

と、言いたいところなのですが…
20年ほどの前の教科書などでは、この年を平将門の乱の始まりの年にしていましたが、近年ではこの考え方は変わるようになっています。

別の表現もあります。「承平・天慶の乱」という言い方です。
こちらは承平から天慶年間にかけておこった地方の騒乱を一括りにしたもので、西の藤原純友の乱と東の平将門の乱、その他地方の乱(中部や東北での乱)を大きくとらえて表現しています。
せまい意味では、承平・天慶の乱は藤原純友の乱と平将門の乱の二つを示し、高校入試などではこの考え方でいっこうにさしつかえはありません。

平将門の乱は、大きく二つの局面からとらえられています。

第一の局面 一族の紛争
第二の局面 朝廷に対する反抗

諸説あって定まらぬところですが、この時期、所領や一族のリーダーの継承に関しては、父子による相続よりも兄弟による相続のほうが根強く残っている時期で、平将門の父の死後、その所領が将門からみての伯父たちに分割された可能性があり、それに対する将門の不満などから、伯父・甥の争いが起こった、というのが第一の局面です。

将門が伯父の国香を倒す…

これが935年なのです。
実際、朝廷の側でも、この段階では政府に対する反乱、という認識はまったくなく、地方における“私闘”と理解していました。
よって、現在ではこの段階を朝廷に対する反乱としての「平将門の乱」とは理解しておらず、935年をもって平将門の乱の始まり、とは説明しなくなりました。

現在では、第二の局面、すなわち国府を襲撃して「新皇」を名乗った(とされる)年。すなわち939年をもって平将門の乱の始まり、とするようになっています。

第一の局面は承平年間、第二の局面は天慶年間…
承平・天慶の乱、と説明するのはともかく、平将門の乱に関しては、承平の乱、と表現することはふさわしくはないわけです。

以下は蛇足ですが…

学校教育の場(小・中学校まで)では、ひとつの表記上の“お約束”(暗黙の了解)があり…

 ○○○○の乱

と表現した場合、その○○○○に人名が入った場合は、乱を起こしてしかも負けた人物の名前を当てるようにしています。

 平将門の乱・藤原純友の乱・シャクシャインの乱・大塩平八郎の乱

などなど…

蛇足ついでに…

高校になりますと、それまで習っていた乱の表現が変わることになります。

平将門の乱・藤原純友の乱 → 承平・天慶の乱
源平の合戦        → 治承・寿永の乱

そして応仁の乱も、高校の教科書では、応仁・文明の乱、というように開始年から終了年までを表記するようになっています。
887年

藤原基経が「関白」となりました。

藤原氏の「摂関政治」というと、小学校の教科書では、

 この世をば
 わが世とぞ思ふ
 望月の欠けたることもなしと思へば

という歌で有名な藤原道長と、

 平等院鳳凰堂

の建立で有名な藤原頼通がよく知られるところです。
しかし、摂関政治を始めたのはこの二人ではありません。しかも藤原道長にいたっては“御堂関白”の異名をもちながら関白にはなっていません。

摂関政治の始まりは、

藤原良房と基経の父子(基経は良房の養子ですが…)のときからです。

良房が摂政、基経が関白。その基経が関白となったのが887年でした。

もともと「関白」という仕事は律令制度にはありませんでした。ですから

 令外(りょうげ)の官

といいます。
ちなみに、征夷大将軍や中納言、後の蔵人や検非違使も令外の官となります。

自らを天皇に推してくれた基経に全幅の信頼を置いていた光孝天皇は

 政事 万機巨細 基経関白
(まつりごと ばんきこさい もとつねにあずかりもうす)

と宣言しました。政治のことはなんでもかんでも大きなことから小さなことまで基経に

 関(あずか)り白(もう)す

としたことから、この表現がそのまま役職名となりました。

藤原氏による「摂関政治」はまさにこの年から始まった、と、言ってもよいかもしれません。
743年

743年には、入試でよく出題されるできごとが二つありました。

天平十五年五月と十月。

まず五月に「墾田永年私財法」が出されました。
発令した天皇は

聖武天皇

です。
さて、奈良時代の政治方針は、基本的に唐の政治制度を模倣するところからスタートし、やがて日本の現状に合わせて改造されていく、ということになります。

一定の年齢になると(日本の場合は6歳以上の男女)口分田があたえられ、死後はその口分田は回収される…
これが班田収授。

しかし720年くらいからこの口分田が不足してくる。おまけに税負担に苦しむ農民たちが逃亡して浮浪する、戸籍を偽る、許可なく僧となるなど、税収が大きく落ち込むようになりました。
新しく土地を切り開く計画が立てられ(百万町歩開墾計画)、723年には「三世一身の法」が出されます。
この法令は、新しく土地を切り開いた者には(ただしもともとある施設を利用した場合は別)、子-孫-曾孫の三代まで私有をみとめる、というものでした。
しかし、三代目になると、土地を返さなくてはならなくなる。

そこで、743年に墾田永年私財法を出し、新しく土地を切り開いた者にはその土地の私有をみとめることにしたのです。
教科書的には、「これによって公地公民の制度がくずれた」「貴族や大寺院は土地を切り開いて荘園を増やしていった」と説明されるところです。

でも…
貴族や大寺院たちは、その開墾を逃亡し浮浪していた農民たちを雇って耕すことになったので、困窮していた農民救済に役立ったことはまちがいありません。
こういう部分はあまり学校教育では説明されないところですが、もう少し強調してもよいポイントだと思います。

さてさて、もう一つは十月に出されました。それが

 「大仏造立の詔」

です。

聖武天皇といえば、「奈良の大仏を建てた」、ということをまっさきに思い出される方も多いと思います。

実際、建築は二年後にはじまり、しかも最初は紫香楽に造立される予定で「奈良の大仏」ではなくなっていた可能性もありました。
この詔自体も平城京ではなく紫香楽宮で出されています。

 天下の富と勢いを持つ者はわたしである。
 この富と勢いをもってすれば大仏をつくることなどたやすいことだ。

という言葉が記されています。
教科書や子どもが使う史料集にもこの言葉「だけ」が取り上げられている場合があり、おまけに、

「600万人の農民からしぼりとった税と、多くの農民を奴隷のようにこきつかって造らせたのだ。」

なんてヘーキでウソを教える教師も昔はいました。

ぜんぜんちがいます!

まず、聖武天皇「天下の富と勢いを持つ者はわたし」発言は、大仏造立の発言の一部を切り取ったもので、ほんとはこの後に言葉が続いているんです。

 天下の富と勢いを持つ者はわたしである。
 この富と勢いをもってすれば大仏をつくることはたやすいことだ。

 でもね! そんなことして大仏つくっても意味が無いんだよ。

と、述べられています。

多くの人々の力を合わせてつくらないと意味がない、民たちが自発的に土などをもってきて造ることに協力したいというなら受け入れるんだ、と、発言されているんです。

実際、地方の役人に対して「大仏造りを名目に農民に新しい税を負荷してはいけない」という法令をわざわざ発しています。
そして貴族たちや大寺院に大仏造立を手伝わせています(資材と労働力の提供)。

え? そんな財源、貴族たちや大寺院にあるの?

そうなんですよ。
墾田永年私財法によってかれらに土地の私有をみとめ、開墾に浮浪農民たちを集めさせる。
余剰の富と労働力が貴族と大寺院に集積させているんですよ。

このタイミングで大仏造立の詔を出して、「律令制度の枠外」で大仏造りに協力させる…

墾田永年私財法と大仏造立の詔は、思わぬところで「つながっている」と考えてみるとおもしろいとおもいます。