887年
藤原基経が「関白」となりました。
藤原氏の「摂関政治」というと、小学校の教科書では、
この世をば
わが世とぞ思ふ
望月の欠けたることもなしと思へば
という歌で有名な藤原道長と、
平等院鳳凰堂
の建立で有名な藤原頼通がよく知られるところです。
しかし、摂関政治を始めたのはこの二人ではありません。しかも藤原道長にいたっては“御堂関白”の異名をもちながら関白にはなっていません。
摂関政治の始まりは、
藤原良房と基経の父子(基経は良房の養子ですが…)のときからです。
良房が摂政、基経が関白。その基経が関白となったのが887年でした。
もともと「関白」という仕事は律令制度にはありませんでした。ですから
令外(りょうげ)の官
といいます。
ちなみに、征夷大将軍や中納言、後の蔵人や検非違使も令外の官となります。
自らを天皇に推してくれた基経に全幅の信頼を置いていた光孝天皇は
政事 万機巨細 基経関白
(まつりごと ばんきこさい もとつねにあずかりもうす)
と宣言しました。政治のことはなんでもかんでも大きなことから小さなことまで基経に
関(あずか)り白(もう)す
としたことから、この表現がそのまま役職名となりました。
藤原氏による「摂関政治」はまさにこの年から始まった、と、言ってもよいかもしれません。