239年
みなさんが学生時代、
「239(ふみく)るよ、邪馬台国の卑弥呼から」
というゴロ合わせで年号をおぼえたことはありませんでしたか?
重要史料、『魏志』倭人伝の中に記されている記述によりますと、邪馬台国の女王卑弥呼が、使いを三国時代の「魏」に使いを送り(ちなみにこのときも生口を贈っています)、「親魏倭王」の称号と銅鏡を卑弥呼が与えられた、ということがわかっています。
ちなみに、このときの魏の皇帝は明帝。
『三国志』が好きな人ならご存知の曹丕の息子、曹叡という人物です。
107年
日本は当時、文字を持っていませんでした。
よって当時の様子は、日本側に「記録」はありません。
当時の日本の様子は中国の歴史書に記されているものから読み取る、ということをしています。
107年は未年。
『後漢書』東夷伝の中で、倭国の帥升、という王が後漢の皇帝、安帝に使いを送った、ということがわかります。
“贈り物”は
生口
え? なまくち?? ではなく、「せいこう」と読みます。
口、とは、人口の“口”からわかるように、また、慣用的に「口減らし」という表現があるように、人間のことをさします。
生きた人、つまりここでは、奴隷を贈った、ということになると考えられています。
この50年前、奴国の王が後漢の光武帝に使いを送り、金印を授かった、という記述が『後漢書』東夷伝に記されていますが、この話は有名で、それには「漢委奴国王」と記されていました。
『後漢書』東夷伝の金印をもらった話と奴隷を贈った話。
いずれも入試にはよく出るものです。
日本は当時、文字を持っていませんでした。
よって当時の様子は、日本側に「記録」はありません。
当時の日本の様子は中国の歴史書に記されているものから読み取る、ということをしています。
107年は未年。
『後漢書』東夷伝の中で、倭国の帥升、という王が後漢の皇帝、安帝に使いを送った、ということがわかります。
“贈り物”は
生口
え? なまくち?? ではなく、「せいこう」と読みます。
口、とは、人口の“口”からわかるように、また、慣用的に「口減らし」という表現があるように、人間のことをさします。
生きた人、つまりここでは、奴隷を贈った、ということになると考えられています。
この50年前、奴国の王が後漢の光武帝に使いを送り、金印を授かった、という記述が『後漢書』東夷伝に記されていますが、この話は有名で、それには「漢委奴国王」と記されていました。
『後漢書』東夷伝の金印をもらった話と奴隷を贈った話。
いずれも入試にはよく出るものです。
新年あけましておめでうこざいます。
今年もよろしくお願いいたします。
今年もよろしくお願いいたします。
~謙信と信玄は川中島の戦いで一騎打ちをしていない~
さて、戦国時代の有名な武将といえば、上杉謙信と武田信玄をあげられる方も多いと思います。
とくに「川中島の戦い」は、頼山陽の『日本外史』での名場面をはじめ、講談や小説では必ずといってもとりあげられるところです。
川中島の戦いそのものは細かく数えれば7回(ふつうは5回とカウントしていますが)あり、もっとも有名なのが第4回目(数え方によってもちろん変わりますが)です。
ところで、史料的な話を申しますと、武田信玄は上杉謙信のことを“謙信”はともかく「上杉」と呼んだことは一回もありません。
あくまでも、「長尾」の姓で対戦相手を呼称していました。
そもそも当時、「上杉謙信」という名称が広く知られていたかは不明なのです。
物語やドラマでみられるように、川中島の戦いで武田信玄が
「おのれうえすぎぃ~」
とか
「謙信めっ おぼえておれ!」
と叫んでいたかというと、ちょっとあやしいところです。
あやしいどころか、「謙信」と号したのが1570年ですから、1550年代~60年代におこなわれた川中島の戦いでは「上杉謙信」は存在していないわけです。
さて、第4回川中島の戦いは武田信玄と上杉謙信の激闘でとくに有名で、武田信玄が
きつつきの戦法
なるものを用いて上杉謙信を倒そうと計画しました。
この作戦を立てたのが信玄の軍師
山本勘助
といわれています。
山本勘助も、一時期、フィクションで実在しない、と考えられていましたが、当時の史料上でこの名が発見され、実在が確認されつつある人物です。
申しましたように、歴史の評価は振り子のように右へ左へ…
ただ、作戦参謀としての“軍師”ではなく、足軽大将くらいの存在であったと考えられています。
きつつきの戦法、とは、どのようなものかと言うと、
武田軍を二手に分ける
一隊は妻女山に立てこもる上杉軍の背後を攻撃する別動隊
もう一隊は奇襲を受けて妻女山を下りてきた上杉軍を待ちぶせして叩く本隊
とんとん、と木を叩いて虫をおびきだしてつまみ食いするというきつつきを模してこの名がつけられた、と、言われています。
さて、その作戦が実行される夜。
上杉謙信は、妻女山にて、酒を飲み、得意の鼓をうって無聊をなぐさめていました。
と、突然、部下たちを集め宣言します。
今夜、敵の夜襲がある。
敵は軍を二手に分けてわれらを攻撃するつもりだ。
我らはひそかに山をおり、下で待ち受ける武田軍を攻撃するのだ!
見事な戦術眼というか、なんというか、なんでわかんねんっ と、言うところですが、そこは天才上杉謙信。部下たちも彼の言葉は絶対で、逆奇襲を武田本隊にしかけるべく、夜陰にまぎれて下山し、千曲川を渡ります。
鞭聲粛々夜過河
の、名場面がこれですね。
武田信玄は驚きました。
現在でいうところの朝の8時ごろ、霧が晴れると妻女山にいるはずの上杉軍が、なんと目の前にいる!
かくして武田・上杉の大激戦が始まりました。
この混戦の中で、有名な
「武田信玄、上杉謙信の一騎打ち」
が、おこなわれた、といいます。
単騎、上杉謙信が武田の本陣に踊り込み、床几に座る武田信玄に太刀をあびせかけたものの、信玄はこれを軍配で受けて退け、謙信は信玄を打ちそこねましたぁ~
というお話しです。
ところがここまでの一連の「第四回川中島の戦い」の話は江戸時代に書かれた軍記物、講談などで再構成されたほぼフィクションであると考えられています。
まず、この川中島の戦いが激戦であったことは間違いありません。当時の史料や武田、上杉両陣営で発給された文書などから、武田軍にかなりの被害が出たこともわかっています。
ただ、きつつきの戦法だの、鶴翼の陣だの、車がかりの戦法だの、特殊な戦術タームで語られるような戦いは江戸時代の「軍学者」たちの創作なんです。
わたしも実際に川中島に行ったことがあるんですが、妻女山にも行きました。
あれ、でも、ほんとに裏から別動隊がひそかに登って反対側に布陣する上杉軍を攻撃できるような感じではないんですよ…
最近発見された史料や研究では、シンプルながらも、激しい戦いであったことがわかっています。
現在わかっている限りの第四回川中島の戦いの実相はこうです。
妻女山に布陣した上杉軍は、武田軍に包囲されてしまう。
やがて食料も尽き、上杉軍は軍を一点に集中し、下山して強行突破を図る。
その集中して突破しようとしたところに、たまたま武田軍の本陣があった。
こうして混戦、激戦となった。
というストーリーです。
たしかにこの話をベースにすると、おもしろおかしく、きつつきの戦法なるフィクションが生み出せそうです。
わたしは、戦国時代のいろいろな話は“江戸フィルター”によって歪められている、と、思っているんです。
江戸時代の講談や軍記物によって、どんどん伝言ゲームのように書き換えられていく…
徳川家の旗本衆や譜代の家来にも、もともと武田氏に仕えた者や北条氏に仕えていた者が多い。御先祖様が仕えた武田信玄や、御先祖様が戦った上杉謙信を持ち上げて自慢したい…
そうしてどんどん武田信玄や上杉謙信が“レジェンド武将”に仕立てられていく…
まったくのフィクションはありません。もとの話は必ずあって、それがどんどん変化していく…
戦国時代の話はそういうのが多いのですよね。
(次回に続く)
さて、戦国時代の有名な武将といえば、上杉謙信と武田信玄をあげられる方も多いと思います。
とくに「川中島の戦い」は、頼山陽の『日本外史』での名場面をはじめ、講談や小説では必ずといってもとりあげられるところです。
川中島の戦いそのものは細かく数えれば7回(ふつうは5回とカウントしていますが)あり、もっとも有名なのが第4回目(数え方によってもちろん変わりますが)です。
ところで、史料的な話を申しますと、武田信玄は上杉謙信のことを“謙信”はともかく「上杉」と呼んだことは一回もありません。
あくまでも、「長尾」の姓で対戦相手を呼称していました。
そもそも当時、「上杉謙信」という名称が広く知られていたかは不明なのです。
物語やドラマでみられるように、川中島の戦いで武田信玄が
「おのれうえすぎぃ~」
とか
「謙信めっ おぼえておれ!」
と叫んでいたかというと、ちょっとあやしいところです。
あやしいどころか、「謙信」と号したのが1570年ですから、1550年代~60年代におこなわれた川中島の戦いでは「上杉謙信」は存在していないわけです。
さて、第4回川中島の戦いは武田信玄と上杉謙信の激闘でとくに有名で、武田信玄が
きつつきの戦法
なるものを用いて上杉謙信を倒そうと計画しました。
この作戦を立てたのが信玄の軍師
山本勘助
といわれています。
山本勘助も、一時期、フィクションで実在しない、と考えられていましたが、当時の史料上でこの名が発見され、実在が確認されつつある人物です。
申しましたように、歴史の評価は振り子のように右へ左へ…
ただ、作戦参謀としての“軍師”ではなく、足軽大将くらいの存在であったと考えられています。
きつつきの戦法、とは、どのようなものかと言うと、
武田軍を二手に分ける
一隊は妻女山に立てこもる上杉軍の背後を攻撃する別動隊
もう一隊は奇襲を受けて妻女山を下りてきた上杉軍を待ちぶせして叩く本隊
とんとん、と木を叩いて虫をおびきだしてつまみ食いするというきつつきを模してこの名がつけられた、と、言われています。
さて、その作戦が実行される夜。
上杉謙信は、妻女山にて、酒を飲み、得意の鼓をうって無聊をなぐさめていました。
と、突然、部下たちを集め宣言します。
今夜、敵の夜襲がある。
敵は軍を二手に分けてわれらを攻撃するつもりだ。
我らはひそかに山をおり、下で待ち受ける武田軍を攻撃するのだ!
見事な戦術眼というか、なんというか、なんでわかんねんっ と、言うところですが、そこは天才上杉謙信。部下たちも彼の言葉は絶対で、逆奇襲を武田本隊にしかけるべく、夜陰にまぎれて下山し、千曲川を渡ります。
鞭聲粛々夜過河
の、名場面がこれですね。
武田信玄は驚きました。
現在でいうところの朝の8時ごろ、霧が晴れると妻女山にいるはずの上杉軍が、なんと目の前にいる!
かくして武田・上杉の大激戦が始まりました。
この混戦の中で、有名な
「武田信玄、上杉謙信の一騎打ち」
が、おこなわれた、といいます。
単騎、上杉謙信が武田の本陣に踊り込み、床几に座る武田信玄に太刀をあびせかけたものの、信玄はこれを軍配で受けて退け、謙信は信玄を打ちそこねましたぁ~
というお話しです。
ところがここまでの一連の「第四回川中島の戦い」の話は江戸時代に書かれた軍記物、講談などで再構成されたほぼフィクションであると考えられています。
まず、この川中島の戦いが激戦であったことは間違いありません。当時の史料や武田、上杉両陣営で発給された文書などから、武田軍にかなりの被害が出たこともわかっています。
ただ、きつつきの戦法だの、鶴翼の陣だの、車がかりの戦法だの、特殊な戦術タームで語られるような戦いは江戸時代の「軍学者」たちの創作なんです。
わたしも実際に川中島に行ったことがあるんですが、妻女山にも行きました。
あれ、でも、ほんとに裏から別動隊がひそかに登って反対側に布陣する上杉軍を攻撃できるような感じではないんですよ…
最近発見された史料や研究では、シンプルながらも、激しい戦いであったことがわかっています。
現在わかっている限りの第四回川中島の戦いの実相はこうです。
妻女山に布陣した上杉軍は、武田軍に包囲されてしまう。
やがて食料も尽き、上杉軍は軍を一点に集中し、下山して強行突破を図る。
その集中して突破しようとしたところに、たまたま武田軍の本陣があった。
こうして混戦、激戦となった。
というストーリーです。
たしかにこの話をベースにすると、おもしろおかしく、きつつきの戦法なるフィクションが生み出せそうです。
わたしは、戦国時代のいろいろな話は“江戸フィルター”によって歪められている、と、思っているんです。
江戸時代の講談や軍記物によって、どんどん伝言ゲームのように書き換えられていく…
徳川家の旗本衆や譜代の家来にも、もともと武田氏に仕えた者や北条氏に仕えていた者が多い。御先祖様が仕えた武田信玄や、御先祖様が戦った上杉謙信を持ち上げて自慢したい…
そうしてどんどん武田信玄や上杉謙信が“レジェンド武将”に仕立てられていく…
まったくのフィクションはありません。もとの話は必ずあって、それがどんどん変化していく…
戦国時代の話はそういうのが多いのですよね。
(次回に続く)
~斎藤道三は二人いた~
何からお話ししようか、いろいろ迷うところですが、やはり皆さんご存知の有名な戦国大名の話からするのがよいと思います。
戦国大名、の、第一号とでも言うべき人物としては、どうでしょう、北条早雲か斎藤道三の二人をあげるのが妥当なところではないでしょうか。
さて、その斎藤道三。実は二人いた、というのはご存知だったでしょうか?
斎藤道三は、小説家の司馬遼太郎さんの『国盗り物語』がベストセラーとなり、大河ドラマなどにもとりあげられて一躍有名になりました。
わたしも学生時代、この本をよんで斎藤道三の魅力にとりつかれました。
でも、あるとき、ふと思ったんですよね。
よくみなさん、歴史上の人物で、徳川家康が好きだ、とか、宮本武蔵が好きだ、とか、織田信長が好きだ、とか言っちゃいますけど、よくよく考えたらそれは徳川家康が好きなのではなくて「山岡荘八が描いた徳川家康」が好き、「吉川英治が描いた宮本武蔵」が好き、「司馬遼太郎が描いた織田信長」が好き、というだけで、作家○○の描いた××が好き、ということに他ならないんですよね…
誰も実際の徳川家康、宮本武蔵、斎藤道三を知らないんですよ。
司馬遼太郎さんの『国盗り物語』は三部作で、斎藤道三・織田信長・明智光秀の三人を描いたものです。多くの人たちが、司馬遼太郎ワールドの三人を、歴史上の斎藤道三、織田信長、明智光秀と思っています。
ざっと小説の世界の中での斎藤道三を説明しますと…
京都の寺の僧であったが、商人となって財をなす。
みずからの富と、僧時代のツテをつかって美濃にわたって武士となり、美濃の守護大名土岐頼芸の家臣の一人となる。やがて出世をしてとうとう主の土岐頼芸を追放して美濃一国の国主となる…
僧から新左衛門となる。
武士として「西村」姓を名乗る。
やがて出世して「長井」姓を名乗る。
左近大夫の称号を得る。
土岐頼芸を討って「斎藤」姓を名乗る。
という流れとなります。
ところが、20世紀末から岐阜県の歴史編纂が進み、その過程でおどろくべき手紙が発見されました。近江の六角氏が美濃国の事情を説明した手紙が発見されたのです。
そこにはっきりとこう記されていました。
斎藤義龍の祖父、新左衛門は京都妙覚寺の僧だった。
やがて彼は西村の姓を名乗る。
それから長井と名前を変える。
その子、左近大夫のときに土岐氏を討ち、斎藤を名乗る。
つまり、僧から身を起こして商人となり、武士となった人物と、土岐頼芸を追放して斎藤を名乗った人物は、別人(親子)だったことがわかりました。
親子二代の「国盗り物語」だった、というわけです。
(このあたりの詳しい話は拙著『8割の日本人が知らなかったほんとうの日本史』に書いています。是非、ご一読ください。)
(次回に続く)
何からお話ししようか、いろいろ迷うところですが、やはり皆さんご存知の有名な戦国大名の話からするのがよいと思います。
戦国大名、の、第一号とでも言うべき人物としては、どうでしょう、北条早雲か斎藤道三の二人をあげるのが妥当なところではないでしょうか。
さて、その斎藤道三。実は二人いた、というのはご存知だったでしょうか?
斎藤道三は、小説家の司馬遼太郎さんの『国盗り物語』がベストセラーとなり、大河ドラマなどにもとりあげられて一躍有名になりました。
わたしも学生時代、この本をよんで斎藤道三の魅力にとりつかれました。
でも、あるとき、ふと思ったんですよね。
よくみなさん、歴史上の人物で、徳川家康が好きだ、とか、宮本武蔵が好きだ、とか、織田信長が好きだ、とか言っちゃいますけど、よくよく考えたらそれは徳川家康が好きなのではなくて「山岡荘八が描いた徳川家康」が好き、「吉川英治が描いた宮本武蔵」が好き、「司馬遼太郎が描いた織田信長」が好き、というだけで、作家○○の描いた××が好き、ということに他ならないんですよね…
誰も実際の徳川家康、宮本武蔵、斎藤道三を知らないんですよ。
司馬遼太郎さんの『国盗り物語』は三部作で、斎藤道三・織田信長・明智光秀の三人を描いたものです。多くの人たちが、司馬遼太郎ワールドの三人を、歴史上の斎藤道三、織田信長、明智光秀と思っています。
ざっと小説の世界の中での斎藤道三を説明しますと…
京都の寺の僧であったが、商人となって財をなす。
みずからの富と、僧時代のツテをつかって美濃にわたって武士となり、美濃の守護大名土岐頼芸の家臣の一人となる。やがて出世をしてとうとう主の土岐頼芸を追放して美濃一国の国主となる…
僧から新左衛門となる。
武士として「西村」姓を名乗る。
やがて出世して「長井」姓を名乗る。
左近大夫の称号を得る。
土岐頼芸を討って「斎藤」姓を名乗る。
という流れとなります。
ところが、20世紀末から岐阜県の歴史編纂が進み、その過程でおどろくべき手紙が発見されました。近江の六角氏が美濃国の事情を説明した手紙が発見されたのです。
そこにはっきりとこう記されていました。
斎藤義龍の祖父、新左衛門は京都妙覚寺の僧だった。
やがて彼は西村の姓を名乗る。
それから長井と名前を変える。
その子、左近大夫のときに土岐氏を討ち、斎藤を名乗る。
つまり、僧から身を起こして商人となり、武士となった人物と、土岐頼芸を追放して斎藤を名乗った人物は、別人(親子)だったことがわかりました。
親子二代の「国盗り物語」だった、というわけです。
(このあたりの詳しい話は拙著『8割の日本人が知らなかったほんとうの日本史』に書いています。是非、ご一読ください。)
(次回に続く)