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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

大阪市仏教会公演記録(1)

12月8日は、実は「成道会」と言いまして、おシャカさまがなんと悟りを開いた日なんです。
その記念すべき日に、大阪市仏教会は毎年講演をいろいろな方に依頼されているようで、なんと、今回、こはにわ先生こと、わたしく浮世博史がお招きにあずかり、

 「ここまでわかった戦国時代」

という演題で講演させていただきました。以下、そのときのお話しを起こしたものを掲載していきたいと思います。

~講演記録~ はじめに

べつに、お坊さまの集まりだからといって、こういう話をするんではありませんよ。
ほんとに、こういう機会を得たときにいつも最初にわたしはこんな話から入るんです。

わたしの好きなブッダの言葉は二つあります。一つは

 張り過ぎた弦はならない
 緩み過ぎた弦もならない

過去の話は、ときに極端に説明されがちです。
21世紀に入って、突然いろいろな歴史の見直しがおこなわれるようになり、それまでの定説がくつがえされてきました。
というか、実は、けっこう昔からわかっていたんですが、表に出てくるようになったのは最近になってからなんです。

一例をあげると、みなさんはドキドキしちゃうかもしれませんが

 「聖徳太子はいなかった、架空の人物だ」

なんて話が話題になりました。

でも、みなさん安心してください。
実は「聖徳太子はいなかった」なんていう歴史家はほんのひとにぎりなんですよ。
極端な説、というのはどこかやっぱりおかしいんですよ。

まちがいなく聖徳太子はいてはりました。

ところが、「聖徳太子はいなかった」という本の題名にするとウケちゃうんですよ。
え? ほんとなの? となって本が売れる。

それらの本、一度読んでみてください。聖徳太子はいない、なんてほとんど書いてないんですよ。
ただ、信仰の対象としての聖徳太子と、実在した政治家としての厩戸王を分けて考えよう、ということになっただけなんです。

わたしなんか、ずっと生徒たちに「聖徳太子はいなかった」という話は違うんだよ、そういう言葉が一人歩きしちゃっているけれど、実際はこういうことなんだよ、と、いっょうけんめい説明しています。

いろいろな学説、というのは、振り子のようなものです。
右にゆれたり左にゆれたり…

極端の排除、というブッダの教えは歴史を見つめる姿勢でも大切なことなんです。
歴史の説も、振り子のように左右にゆれます。
左にゆれれば右にもどってとどまるところを知らない…
今は「聖徳太子はやっぱりいてます」というように揺り戻しが来ているんですよね。

みなさんにこんな話をするのは、まさにシャカに説法なんですが、「張り過ぎた弦はならない、緩み過ぎた弦もならない」というのは、だったら真ん中がよいのだ、というのではない、というのがおわかりだと思います。
ちょうどよい場所、というのは真ん中ではなく、緊張感のある、どちらかによっている、という場所ですね。
中をとって平均、なんてのがブッダのおっしゃる中道では断じてないのです。
これからお話しする戦国時代の話も、単に定説をくつがえすおもしろ話ではなく、定説にもとづきながらも実像はこうだったよ、という話、最新の研究ではこうなったよ、という話だと思ってください。

さて、もう一つの私の好きな言葉は、

 見よ
 車輪が回る 車輪が回る
 しかし見よ
 車軸は動かない

これ、よい言葉ですよね。
大きくいろいろなことは回転し、諸行は無常である…
しかし、変わらない部分は必ずある、回転の中心、軸はかならずある、ということです。
諸行は無常ではあるが、ブッダの教えの真理は変わらない。
軸をしっかり見れば変化にまどわされない、ということです。

歴史もまたそうです。
その時代の軸はいったい何だったのか?
日本史でいえば、まあ、どうなんでしょう、ひとつには皇室なんかは日本の軸だったともいえますよね。
信長などは一見、むちゃくちゃ破天荒な動きをしているようにみえますが、彼は軸がブレたことはない。
なんのことはない、天下を統一することにかかわった、信長・秀吉・家康は、みんな大きな変化をしていますが、動かない軸をちゃんと持っていた。

変わろうとする者は変わらない何かを持っている。
変わりたければ変わらない何かをしっかりと持つ。

というのは歴史の真実、成功者の真実です。

戦国時代は、大きな変化の時代でしたが、その中の軸となったできごとを、わたしの話から感じ取っていたたければ幸いです。

では、前置きはそれくらいにして、本題に入りたいと思います。

(次回に続く)

以前、アイドルグループの“セクシー・ゾーン”のメンバーのお一人、中島健人さんと番組でごいっしょさせていただきましたが、今回もまたまた“セクシー・ゾーン”のメンバーのお一人、佐藤勝利さんとごいっしょさせていただきました。
番組内での“からみ”はありませんでしたが、素直で明るいよい人でした。
やはりジャニーズのアイドル、というのは、なんかみなさん“持っているもの”がありますよね。

たまたま、帰りのエレベーターで、佐藤勝利さんとご一緒することになりました。
有名なアイドルと、ほんの数十センチの距離にいることだけでもドキドキなのに、ちょっぴりお話しもしてしまいました。

高校三年生、ということでしたので、わたしも教師のはしくれですから、

 高校三年生なんですよね~

と話しかけると。

「はい」と明るく笑顔でお返事いただけました。

 勉強してる? あ、大学受験とかするの?

と問いかけると

「はい、いちおうそのつもりなんです」

とまたまた回答いただけました。
以前にAKBの入山杏奈さんとごいっしょしたときも、「はい、勉強しています」とおっしゃっていましたが、アイドルのみなさんはけっしてチャラチャラしているところはなく、しっかりとお勉強の大切さを意識しておられて、ついつい感心しました。

「あ、そうなんや~ 勉強は大切だよ。しっかり勉強してね。」

と、ついつい“教師臭い”陳腐な声かけをしてしまいましたが、佐藤勝利さんはまたまた笑顔で、「はい」と明るくお返事してくれました。

なんと、わたくし、ドあつかましく

 「あ、これ、わたしの書いた本です。よかったら読んでください。」

と渡してしまいました。(拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』)

「ありがとうございます!」と実に素直に笑顔で受け取ってもらえて、ほんとにカンドーしました。

さてさて、その日の収録は、今までのように日本史だけではなく、世界史のお話しも紹介されていました。
お話しを担当されたのが、ジャーナリストで元世界史講師の増田ユリヤさん。
この方も、よくいろいろ出演なさって池上彰さんとお話しをされている方です。ごいっしょさせていただき光栄でした。

そのお話しの中で、ナポレオンの実像、というような話が出てきました。

有名なナポレオンの“アルプス越え”の肖像画ですが、実はあれは完全な、“フィクション”の想像画なんです。

というか、番組内でも紹介しましたように、ナポレオンが自分の“雄姿”を画家(ダヴィット)に描かせて「プロパガンダ」に利用したものでした。

コヤブ歴史堂をご視聴していただいていた方ならおわかりかと思うのですが、実はナポレオンは

 桃尻男

だったんです。

 え? 「桃尻」って何???

と、なった方のために申しますと、「桃尻」とは馬に乗るのが下手でよく落馬する人のことなんです。(桃って、下がとがっていて、置いてもコロコロと転がるでしょ? すわりが悪い、という意味の言葉です。平安時代の文献で「桃尻」って言葉が出てきたら色気のあるプリプリしたヒップという意味ではないのであしからず。)

ナポレオンは実は騎馬がへたくそで、ふだんはラバに騎乗していて、実際アルプス越えのときはラバを使用していました。

ラバというのは、馬と違い重量物の運搬に適しています。

実はナポレオンは、砲兵出身で、大砲などの運搬には当時ラバを使用していました。
ですから馬よりラバを愛してその使い方も巧みだったといいます。

当時の“イメージ戦略”として馬に騎乗した姿が描かれた、というわけです。

砲兵出身だったナポレオンは、騎兵を組み合わせた効果的な戦術をあみだし、後の戦闘の基本となる作戦をつくりだしたと言われています。

大砲による斉射で敵陣をかくらんし、多数の騎兵を左右から迂回させて敵を分断、撃破する、というものです。
もし、ナポレオンが騎兵出身だったなら、従来の戦い方に固執してしまい、砲と組み合わせた新しい戦術は生まれなかったことでしょう。

その道の専門家というのは従来の方法にしがみつくために、どうしても新しい使い方にふみこめないものです。
上杉謙信や明智光秀は鉄砲にたいへんくわしく、その取扱いには習熟していたといいますが、足軽に大量に所持させて一斉射撃する、という使い方に思いがいたらなかったんですよね…

蛇足ながら、日本の武将にも馬に乗れなかった人物がいます。
有名なところでは、今川義元。

かれは馬に乗らず輿に乗って移動していました。
桶狭間の戦いのとき、混戦の中でもし、馬に飛び乗って退却していたら、敗戦はしても彼が討たれることはなかったかもしれません。

え? なぜ、彼は馬に乗れなかったのかって?
記録によると、彼はめちゃくちゃ短足で、鞍にまたがってもあぶみに足が届かなかったそうです。
(ひょっとするとナポレオンも実は超短足だったりして。)


ナポレオンにせよ今川義元にせよ、もしさっそうと馬に乗れていたなら歴史は変わってしまっていたかもしれない、というお話しです。

12月1日、Qさま特別編「今と昔でこんなに変わった!?学校タイムトラベルSP」に出演させていただき、みなさんおなじみ河合先生とまたご一緒できて、楽しい歴史の話をさせていただきました。
ご視聴いただいたみなさま、ありがとうございました。
今回は世界史の話もちらっとさせていただいたのですが…

 「万里の長城」

言うまでもなく世界遺産で、宇宙から見ても見ることができる、といわれた「城壁」です。


秦の始皇帝が作った、ということは間違いではありませんが、「創った」わけではありません。

一般に遊牧民族の侵入にそなえるためだ、と、考えられていますし、学校でもそのように教えますが(これは間違いではありません)、秦による中国統一以前より、各国が築城しており、しかも遊牧民族からの防御だけでなく、隣国の備えとしても作られていたものです。

現在、みなさんがよくご存知の長城は、

 明帝国

の時代に修築されたもので、だいたい16世紀のものですから、秦の時代から2000年近く経って作られたものです。

当時のものは、「城」というより土手のようなもので(河川の堤防を想像していただければだいたい当てはまります)、一部「土壁」のように造られてはいましたが、ようするに「馬」による攻撃を阻止できればよい、という考え方でつくられました。

中国には、華夷思想、というのがあり、戦国時代の一つ前の時代、春秋時代では

 「尊王攘夷」

という考え方がありました。

あれ?? そんのうじょうい?? それ、幕末の日本の思想では??

と、思われた日本史ファン、幕末ファンの方もおられると思いますが、もともと中国の春秋時代の考え方です。

周王室をまもって、蛮夷をしりぞけるのだ、という考え方ですね。

共通の敵ができると団結できるの法則です。
力は失ったものの、周王室は権威が残っていて、それを中心に本来なら対立しているはずの諸侯が、共通の敵、遊牧民族に対抗してまとまろうという時代でした。

中国側の記録だけみると、どうしても周辺民族は野蛮で遅れていて、文明からほど遠いものとして描かれていますが、実際には何度も侵略を受けて、何度も敗退している、というのが常態でした。
そもそもほんとに中国が強ければ「長城」は不要ですよね。侵入をふせぐ、というのは「受け」の姿勢です。

秦は西方では遊牧民の侵入を受け、東方では戦国6ヶ国に対峙していて、よって富国強兵を図らねば存続できない状態にありました。
こうして他国にはない合理的で実践的な思想が生まれ、独裁的な王の強権的・軍事的組織ができあがります。

蒙恬、という有能な将軍が出現して匈奴(当時の強力な遊牧民族。ただし、実際は匈奴以外の民族もいましたが、当時は中国側はみな匈奴と称していたようです。)を退け、再度の侵入に栓をするように長城を築城しました。

やはり秦も、匈奴には苦戦していたようです。
やや話を先に進めると、匈奴防衛のための長城建築と辺境防備に、始皇帝の長子の扶蘇と蒙恬が就いているスキに、始皇帝が死去したことをいいことに、末子の胡亥を立てる側近グループが宮廷クーデターを起こす、ということになり、内紛でいっきに秦の国力が低下してしまいます。

占い師が始皇帝に

 秦を滅ぼすのは「胡」なり

という予言をしたことがあります。
始皇帝は「胡」を「えびす」すなわち周辺民族と理解して匈奴征伐に力を入れたのですが、実際は息子の「胡亥」の無能から滅びることになり

「胡とは胡亥のことだったか!」

というオチとなりました。

さて、この万里の長城ですが、以後、何度も時の政権によって修築されていきます。

ところが、最近の研究では、「これ、ほんとに遊牧民に備えたの??」という考え方が主流になってきました。
そもそもの秦にしても、遊牧民族に備えたことは間違いないのですが、どうも、人民を労役させる、という新しい税システムの稼働のために建設が進められたのではないか、という考え方が出てきました。

秦は道路の整備、陵の建造などなど、土木事業を大々的に進めていきます。山をも切り開いて平地にした、といいますからすさまじいものです。
当時の税は、ヒトにかかるものとモノにかかるものの二種類がありました。

人を働かせる… じゃあ何に使うのか… 土木事業をしよう、というわけです。

歴史では、いろいろな事象に関して「目的と効果」を分けて説明しなくてはいけません。

秦の時代の長城の目的は「匈奴対策」、そして効果として中央集権システムを稼働して体制の強化を図る、というものでした。
しかし、それ以後、目的そのものが後者にうつったとしか思えないようになります。

万里の長城を訪れた方は

 え? こんな山の中に長城つくる意味ある?

と、思わなかったでしょうか? どう考えても遊牧民族が馬にのってやってこられるような場所ではないところまで、長城は連なっていきます。

長城はいつしか「象徴」となっていきました。

 「華」と「夷」の境界

中央集権体制の保持のための巨大な装置として…

対外政策は内政の反映である場合が多い… 目的から生まれた効果がやがて、目的そのものに変わっていく…
歴史の中では、けっこうよくある話です。
高校2年生のみなさんにとって、理系か文系かの選択も決まり、さらにはセンター試験で、社会の選択をどれにするかが確定し、さぁ、これから「社会」もがんばるぞ、という時期になりました。

もちろん、高校3年生のみなさんにとっては(浪人生のみなさんにとっては)、この一ヶ月は社会などの暗記モノの学習では、ツメの段階に入り、問題演習などをどんどん行い始めているときだと思います。

高校2年生のみなさんにとっては、「あと一年ある」とか思っているかもしれませんが…

たとえば、高校3年になって、日本史や世界史の授業が週4あるいは週5あったとしても、学校の授業だけでは、ひょっとしたらすべての範囲を終わらない、というところも案外と多いのも確かです。

「学校の授業がまず大切だ!」

というのはあたりまえのことです。でも、だから学校まかせ、先生まかせで受験の歴史を終わらせてしまおう、というのは、ちょっと“積極性”に欠ける姿勢です。

一歩前に出ましょう。

4月、新年度が始まったから、夏休みが終わるまでに「教科書」はすべて読んでしまっておく、ということです。

①「教科書読書」をしよう。

まずは、通しで読んでおく。
生徒たちは、教科書などを持ってきて「どこが大切ですか?」という質問をしますが、教科書に書いてあることで大切でないものはありません。
ここは絶対におさえておいてほしいところです。

本を読むのと同じ気持ちで教科書を読み進めておく、ということをしましょう。

中学入試や高校入試を経験してきた生徒たちは、塾で“能率的な”学習をしてきました。
よって、「ここが出る」「ここがねらわれる」「ここがポイント」「これさえやればOK」という言葉が大好きで、プリントや教材を持ってきては

 「どこが出ますか?」「どこが大切ですか?」

とすぐに聞きます。
テストを受けても自分の知らないことが出てくると、「こんなん習っていない」「こんなんプリントにのっていない」と文句をよく言います。

おもしろいですよね。大学入試でも同じことを言うつもりでしょうか… 入試が終わってから大学に「こんなんどこにのってますか?」「こんな問題プリントに書いてないんですけど」って文句を言いに行くつもりでしょうか…

よく、最小努力の最大効果、ということをめざす受験生がいますが、大学入試は「最大努力」をするものです。この積極的な姿勢を忘れないようにしてください。

効果と努力の関係について言えることがあるとすれば、

 「結果が出ない努力はするな」

ということだけです。

「教科書読書」は結果が出る努力の一つです。

では、どの教科書を読めばよいのか…

②「教科書二刀流」で学習しよう。

もし、高校2年生の方でしたら、自分の学校で使っている教科書以外の別の教科書を一冊、来年四月まで読書しておく、というのもよいかもしれません。

日本史でも世界史でも「山川出版」のものが有名ですが、それならもう一冊は「東京書籍」のものをお薦めします。
とくに世界史は「東京書籍」のものがなかなかおもしろい。

教科書は“二刀流”がおおすすめです。

もちろん、これは問題集でも同じことです。

問題集は、ざっくり二種類で、テーマ別にまとめられているものと、通史でまとめられているものがあります。

時間制限をして、とにかく解いていく、というものは「通史」や「過去問」で、じっくり考え、応えを調べながら解いていくのは「テーマ別」というように「使い分けた」問題演習も有効です。

(次回に続く)
先週一週間、更新ができずにおりました。
いろいろな学校業務に専念いたしておりました。

さてさて、中学2年の授業で、現在は鎌倉時代が終わろうとしています。幕府の滅亡後、南北朝時代の話から室町時代へ、となるのですが、その前に、一つの時代の「文化史」の講義をします。

これはたいていの教科書の構成がそうで、一つの時代が終わると、その時代の文化史の授業をします。飛鳥時代が終わると、飛鳥文化と白鳳文化の単元があり、奈良時代が終わると、天平文化の単元がある… というように進んでいきます。

以前に、「教科書から消えたもの」の話をさせていただいたときに、「~文化の建物」として授業でいろいろなものを取り上げるときに、ちょっと注意が必要である、という話をしました。

たとえば、「金閣」は昭和の時代に焼失して再建されましたから(よって現在、金閣は国宝ではありません。上の乗っかっている焼失をまぬがれた鳳凰のみ国宝。)、あの建物は断じて「現代」のものです。
北山文化風の建物ではありますが、室町時代の建築物として「金閣」を紹介するのは、厳密にはおかしい、ということになってしまいます。

これは案外と入試にも反映されていて、中学受験くらいですと金閣は頻出ですが、大学入試では、文化史の中で金閣が取り上げられることが格段に減少しました。

鎌倉時代の建物などもそうだ、という話をしました。

 円覚寺舎利殿

は、実は室町時代の建物なので、鎌倉時代の文化の建築物としては紹介しなくなりつつあります。
実際、小学校の教科書からは、東大寺南大門は明記されていますが円覚寺舎利殿は消えてしまい、大学入試でもことさら「鎌倉時代の建物」として出題はされなくなっています。

さてさて、学校の授業で、鎌倉時代の文化を紹介するときは、

 「コト」と「モノ」

に分けて紹介します。「コト」とは精神文化といいましょうか、文学の話。

そして「モノ」の話では彫刻・建築物を紹介します。
むろん建築様式としての、「大仏様」「禅宗様」の例として、東大寺南大門と円覚寺舎利殿を紹介しますが、円覚寺舎利殿を鎌倉時代の建物、と、紹介するのは正直抵抗があります。

で、彫刻なのですが、これはほとんど仏像の話です。

鎌倉時代は、一言で申し上げると文化史的には

 「再構築」

の時代でした。

治承・寿永の乱の結果、奈良の多くの寺院が被害を受け、とくに東大寺の焼失というのは、大きな文化的損失でした。

が、しかし、「破壊」があるからこそ「創造」があります。
東大寺の関係者の方々には怒られちゃうかもしれませんが、あの“破壊”がなければ、東大寺はとっくに廃れて、現在に残る世界的な美術品は生まれなかった、と、思うんですよ。

重源の努力については、また別の機会に詳しく説明しますから割愛させていただきますが、鎌倉時代に、奈良は大きく復興にむけて(文芸復興)動き出します。

ですから、鎌倉時代の文化の代表的なものは、

 東大寺と興福寺

に集中しています。

その興福寺の国宝の中に、

 天燈鬼・龍燈鬼

というものがあります。
生徒たちに、写真でこれらを見せますと、「あ~ かわいい!」という反応が出てきます。

 え? か、かわいい??

おそろしげな表情で、色彩もけっしてパステルカラーのふわふわ系でもないのに、女子生徒たちの目から「かわいい」らしいのです。(女子中学生くらいの“かわいい”の価値基準は、なかなかおっさんたちには理解不能です。)

この二つの彫刻、わたしは学生時代から大好きで、小さなレプリカも買って持っています。

鎌倉時代、日本のミケランジェロとでもいうべき天才彫刻家およびその集団が出現したことも鎌倉ルネサンスを助長しました。

 運慶・快慶

ならびにその弟子(子どもも含む)たちの活躍です。東大寺南大門の金剛力士像はもちろん、興福寺の仏像群に彼らは大きくかかわっています。

興福寺によりますと、西金堂が焼失したとき、天燈鬼・龍燈鬼の二像は火災からは免れたものの、どうやら壊れて分解してしまったそうです。そのとき“胎内”から、

 法橋康弁

と記された書付が出て来たようで、これが天才彫刻家の一人、康弁の作品であることがわかった、というのです。
西金堂の消失は1717年ですから江戸時代。徳川8代将軍吉宗の時代、ということになります。

さて、バラバラになってしまった、この二つの像、いったいどうなったのか?

なんと明治時代まで、そのままバラバラのまま保管されていたようで、いや、それどころか、明治時代に、仏像修理のための「古材」として、宮大工さんや彫刻家に提供されていたんです。

な、なんと、康弁の天下の名品が、それがいったい何なのか不明なまま、あやうく失われてしまうところだったのです。

下げ渡された職人さんのお一人が、

 え… これ、組み立てたら、何かできるんじゃないか?

と気づかれて(お~ よくぞ気づいてくれました!)、組み立ててみたら、なんとあの二つの像ができあがった、というわけなんです。
この組み立てた人が

 森川杜園

という方です。

森川さんは、だんだん形ができあがっていく中で“何か”をかついでいる像ができあがっていくことに気づきました。

 あれま… いったい何をかついていたのやら…

古材をあさってみても、かついていたものがみつからない… どうしよう…

で、「灯籠」を持たせよう、と、灯籠をつくってのせたところ、「おお、なかなかええもんができたぞ!」となって現在の天燈鬼・龍燈鬼になりました。

 え… あれ? もともと灯籠をかついでいたのではないの??

はい。
あの二基の灯籠は森川さんのアイデアでくつつけられたもので、実際、もともと何をかついでいたか、何を頭にのせていたかわからないもんなんです。

天燈鬼・龍燈鬼は、1215年(建保三年)に康弁がつくったものです。
これは間違いありません。
しかし、1717年(享保二年)にいったん失われ、森川杜園によって再生されて灯籠をかつぐことになりました。

彫刻・仏像・建築物…
教科書に紹介されるときの説明をよくごらんください。
「~時代につくられた」ということは正しくても、「今のものが」「それ」とは限らない、ということなんです。