二日目から三日目にかけて長崎に参りました。
長崎での平和教育に関しては、後に詳細にお話しさせていただくとして…
長崎は、江戸時代を通じて、海外に開かれていた日本の「窓口」の一つでした。
もともと、出島はポルトガル人を居住させる空間として構想されていたものなのですが、ポルトガル船の来航が禁止されて以降、平戸にあったオランダの商館をこの地にうつすことになりました。
今回の修学旅行では残念ながら出島には参りませんでした。
バスで前を通っただけ。
出島は長崎港に文字通り飛び出たように扇形に造成された島なのですが、現在では埋め立てられて街中にあり、とても島のようには見えません。
どれくらいの広さであったかというと、約1.2haほど。
生徒たちには、
うちの学校(四天王寺高校・中学校)の敷地とほぼ同じ広さだよ。
と説明します。
さて、長崎ですが、これまたいろいろな発祥地としても有名です。
西洋の文化・文明というと、明治維新に広がった、と、思いがちですが、実は江戸時代からすでに、
え? そんなもの、もうあったの?
というものがあるんです。
まず、鉄道の発祥地は長崎です。
というと、いやいや、教科書には、「日本で最初の鉄道が1872年に新橋-横浜間に開通した」と書いてあるやんっ というするどいツッコミが入りそうです。
そもそも蒸気機関車を初めて日本人が目にしたのは、ペリーと日米和親条約を結んだ1854年のことでした。
蒸気機関車の模型(遊園地のお猿の汽車ポッポ並)を実際に走らせて日本人にペリーが見せました。
教科書にもその絵が掲載されているものがあります。
ところが、これとて、実は長崎が先でした。
ロシア使節プゥチャーチンが長崎に1853年に来航し、長崎港に停泊している軍艦を公開したときに、その艦上で、蒸気機関車の模型を走らせて日本人に見せています。
で、日本最初の鉄道はこれだ、な~んてことを言うつもりはありません。
グラバー園で有名な、グラバーさんが、1865年、長崎の街中に600mほどのレールを敷き、ここに実際の蒸気機関車を走らせ、ちゃんとお客さんをのせて運行してみせたんですよ。
1865年、といえば、当然大政奉還前の江戸時代。
1872年の新橋-横浜間の鉄道は、「営業運転」として日本最初のもので、実際の鉄道は江戸時代の長崎に走っています。
これまた、前をバスで通っただけなのですが、
「鉄道発祥の地」
の碑がちゃんと立っています。
なんだか、しりとり話のようですが、グラバー邸へは、生徒たちを引率して行って参りました。
そこには、園内に
「洋食発祥の地」
の看板も掲げられています。
1863年といいますから、まさに江戸時代。鉄道開通前に日本最初のレストラン、良林亭も開業していて、薩摩藩の藩士たちがよく食事をしていたそうです。
さらにさらに、
「ボウリング発祥の地」
まで長崎なんです。
そしてこれもまた江戸時代、1861年に長崎にボウリング場が開かれています。
ボウリングの歴史は世界的には古く、なんと古代エジプトですでに始められていたようです。
そもそもボウリングってなんだったんだ? ということになるのですが、もともとは、悪魔や怪物の小さい人形を並べ、それに何か転がるような石などをぶつけて倒す、つまり、やっつける、という邪気払いのようなものでした。
そして意外や意外、現在のボウリングのルールの原型をつくったのは、宗教改革で有名な
マルテイン=ルター
でした。
彼は、ピンの数を9つと設定し、スコアなどをつけるルールをつくったそうです。
明治維新による文明開化、なんて説明してしまいますが、開国以後、すでに文明開化は進行していたのが実際でした。
長崎でのボウリング場で、坂本龍馬や大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允らが集まって、ボウリングをしてピンを倒しながら「幕府を倒す」話をしていたらものすごくおもしろいところですが、残念ながら、そのような記録はありません。
タテイワノタツノミコト、という神様がおられました。
大陥没し、九州の真ん中にできた巨大なカルデラにはなみなみと水が満たされていたのですが、これをみたタテイワノタツノミコトさまは、
この水を抜いて農地にすれば、豊かに稲が実るに違いない、と考えられて、堤防のように水をせき止めていた外側の山々の一角を取り崩そうと考えました。
で、思いっきりキック!
しかし、外輪山は二重になっていて、キック一発では崩れない…
もう一発キック!!
すると、あら見事、外輪山の一角が崩れて、なみなみと溢れていたカルデラの水がすべて抜け出て広大な平地ができて農業ができるようになりました、という話です。
この話にはオチがあります。
ところが、タテイワノタツノミコトさまはこのときのキックで腰を痛め(ようするにぎっくり腰)その場に倒れて起き上がれなくなりました。
そして一言。
た、た、立てぬ…
立てぬ→立野
現在、外輪山の一角が崩れて山を越えずにカルデラ内に入れる地域の地名、「立野」の由来となりました。
ダジャレかよ!!
神話の半分は、由来話…
ところで、阿蘇カルデラ内には古い火口がいくつかあり、その一つに
米塚
と呼ばれる小高い丘があります。
実に美しい形をした山。
これ、神話では、タテイワノタツノミコトさまがカルデラ内で収穫した米を山のように積み上げられたものだとされています。
火→水→治水→収穫
という、自然からの恵みを得るには、ひと手間かかる(人為が必要)という教訓でもありますが、この米塚のてっぺん、は、火口ですから窪んでおります。
この窪みは、貧しい人々に収穫された米の一部をタテイワノタツノミコトさまが救いとっておめぐみになった、という神話も加味されています。
神話は由来話と申しました。
この米塚を、分けとる話から、
「山分け」
という表現も生まれたそうです…
収穫された一部は貧しい人々へ…
税と福祉をなすのは公の使命、という考え方は、弥生時代からあったこともうかがえます。
大陥没し、九州の真ん中にできた巨大なカルデラにはなみなみと水が満たされていたのですが、これをみたタテイワノタツノミコトさまは、
この水を抜いて農地にすれば、豊かに稲が実るに違いない、と考えられて、堤防のように水をせき止めていた外側の山々の一角を取り崩そうと考えました。
で、思いっきりキック!
しかし、外輪山は二重になっていて、キック一発では崩れない…
もう一発キック!!
すると、あら見事、外輪山の一角が崩れて、なみなみと溢れていたカルデラの水がすべて抜け出て広大な平地ができて農業ができるようになりました、という話です。
この話にはオチがあります。
ところが、タテイワノタツノミコトさまはこのときのキックで腰を痛め(ようするにぎっくり腰)その場に倒れて起き上がれなくなりました。
そして一言。
た、た、立てぬ…
立てぬ→立野
現在、外輪山の一角が崩れて山を越えずにカルデラ内に入れる地域の地名、「立野」の由来となりました。
ダジャレかよ!!
神話の半分は、由来話…
ところで、阿蘇カルデラ内には古い火口がいくつかあり、その一つに
米塚
と呼ばれる小高い丘があります。
実に美しい形をした山。
これ、神話では、タテイワノタツノミコトさまがカルデラ内で収穫した米を山のように積み上げられたものだとされています。
火→水→治水→収穫
という、自然からの恵みを得るには、ひと手間かかる(人為が必要)という教訓でもありますが、この米塚のてっぺん、は、火口ですから窪んでおります。
この窪みは、貧しい人々に収穫された米の一部をタテイワノタツノミコトさまが救いとっておめぐみになった、という神話も加味されています。
神話は由来話と申しました。
この米塚を、分けとる話から、
「山分け」
という表現も生まれたそうです…
収穫された一部は貧しい人々へ…
税と福祉をなすのは公の使命、という考え方は、弥生時代からあったこともうかがえます。
日本で最も大きい島はなんですか?
と、子どもたちに質問すると、かえって深く考えてしまい、淡路島、とか佐渡島、いやいや北方領土だ、とか言うてしまう子どももいますが、正解は
本州
です。
あ、そりゃそうだね、となりますでしょ。
二番目が北海道、三番目が九州となります。
地質学的な古~い話をいたしますと、九州は実は昔は南北二つの島に分かれており、真ん中は、
「阿蘇水道」
とい呼称される水域がありました。
つまり、熊本県と大分県はなかったということになります。
この、水域の真ん中で海底火山が噴火し、大量の溶岩を吐き出しながら、阿蘇水道を埋めつくし、さらには巨大な火山を形成したのですが、溶岩を吐き出しすぎて、火山内に巨大な空洞をつくってしまいました。
そしてそれが大陥没!
こうして巨大なカルデラができました。
これが阿蘇山全形、ということになります。
さて、ここからは、突如、神話の力を借りて説明させていただきますが…
(次回に続く)
と、子どもたちに質問すると、かえって深く考えてしまい、淡路島、とか佐渡島、いやいや北方領土だ、とか言うてしまう子どももいますが、正解は
本州
です。
あ、そりゃそうだね、となりますでしょ。
二番目が北海道、三番目が九州となります。
地質学的な古~い話をいたしますと、九州は実は昔は南北二つの島に分かれており、真ん中は、
「阿蘇水道」
とい呼称される水域がありました。
つまり、熊本県と大分県はなかったということになります。
この、水域の真ん中で海底火山が噴火し、大量の溶岩を吐き出しながら、阿蘇水道を埋めつくし、さらには巨大な火山を形成したのですが、溶岩を吐き出しすぎて、火山内に巨大な空洞をつくってしまいました。
そしてそれが大陥没!
こうして巨大なカルデラができました。
これが阿蘇山全形、ということになります。
さて、ここからは、突如、神話の力を借りて説明させていただきますが…
(次回に続く)
なんと、修学旅行の引率で九州に来ております。
九州での、地誌、歴史などお話ししたいと思っております。
『大・平家物語』は、今週は金曜日にお届けします。
初日は、阿蘇山と草千里。
あいにく阿蘇は活動中で、レベル2。
近くには行けませんでした。
実は阿蘇山は、九州をつくった火山であり、そしてまた神話もたくさんあるところ。
まずは、阿蘇の話からしてみたいと思います。
(次回に続く)
九州での、地誌、歴史などお話ししたいと思っております。
『大・平家物語』は、今週は金曜日にお届けします。
初日は、阿蘇山と草千里。
あいにく阿蘇は活動中で、レベル2。
近くには行けませんでした。
実は阿蘇山は、九州をつくった火山であり、そしてまた神話もたくさんあるところ。
まずは、阿蘇の話からしてみたいと思います。
(次回に続く)
戦国時代の妻には、“行方不明”者がけっこう多いんです。
たとえば、柴田勝家の“妻”。
え? いやいや、柴田勝家の妻は「お市の方」でしょ?
というツッコミがすぐに入りそうです。
柴田勝家が織田信長の妹、お市を正室に迎えたのは彼が60歳のとき。
(大永二年生まれという説にのれば、という話ですが…)
それまでに、彼には“妻”がいなかったのか?
柴田勝家には、勝政・勝豊という二人の“子”がいますが、いずれも実子ではなく養子です。
前にも申しましたように、正室であっても男子がいない母は、この時代、けっこう行方不明になるんです。
いやいや、柴田勝家ほどの有名人に、もし“妻”がいたら、何か記録に残ったりしているはずだ。だからお市さんが妻になるまで、独身だった可能性もある、ということをおっしゃられる方もいますが、柴田家の「家政」そのものの記録がほとんど無いんです。
もともと、夫は軍事・政治、妻は家政・経済、という役割分担ができていたのが戦国時代より以前のことです。
家政そのものは、「奥向き」のことであって、あんまり“記録”としては残りません。
有名か無名かにかかわらず、「家」の内側の記録が残っているほうがむしろ稀なんです。
織田信長、豊臣秀吉、というレベルになって、ようやく物語などに取り上げられるものとして妻たちが登場しますが、それとて、「表向き」の政治・軍事の話をおもしろく脚色するために利用されていて、実像を正しくは伝えていません。
正室の北政所と、秀吉の愛人淀殿は対立していた。
関ヶ原の戦いで、北政所が家康に味方した。
東軍に秀吉の家臣の大名が多く参加した裏には北政所が動いていた。
などなど、これらは史実ではありません。(ほんとうにそうだった、と、思われている方がいまでもたくさんおられると思います。)
もし、秀吉が信長の家臣時代、上京するまでの間で戦死でもしていたら、秀吉の“妻”すら「行方不明」となっていたはずです。記録には残らない…
柴田勝家には妻がいた、しかし、後継ぎがいなかった、どこかで離縁されているか、病死していた、となってもおかしいことではなく、むしろそうであった可能性のほうがはるかに高い…
信長という“有名人”の周辺にいた大名であっても、その“妻”が「外交上」の「婚姻関係」として「表向き」に出て来た場合のみ、記録に残り、そうでない場合、記録が残っているほうが少ないのです。
たとえば、織田家の重臣、林秀貞。(この人は、かつて林通勝と呼ばれていましたが、現在では通勝という表記は誤りとなっています。有名人ですら名前も正しく伝わらない場合があるのが実際なんです。妻妾のことが詳細にわかるのはかなり珍しい。)
信長が発給してきた文書で、この人の連署がないものがほとんどないくらい、織田家の政治上、重要な役割をしている人ですが、“妻”のことは不明です。母すらわかっていません。
滝川一益の“妻”も不明です。
柴田勝家・林秀貞・滝川一益
みな、妻が行方不明です。
いや、それを言うなら、織田信長すら、正室は“行方不明”。
いやいやいや、濃姫さんでしょ! 斎藤道三の娘の!
という鋭いツッコミが入ってきますが、これとて先に示した「表向き」の外交上の婚姻関係で明らかになっているから記録に残っているだけで、実子の無い母、というのは、本来その存在は消えていくものでした。
実際、斎藤道三死後、織田信長上京後の、濃姫の動向は不明なことが多い…
そもそも、「濃姫」は名前ではありません。
「知っているよ、美濃からきた姫だから濃姫って呼ばれているだけで、ほんとは帰蝶なんでしょ?」
と、言われる方もおられるかもですが、これ、実は江戸時代に書かれた本に見られる記録で、実際の彼女の名前は「不明」なんです。
話をすっ飛ばしますが、あの、源頼朝の妻、「北条政子」すら、本名はわかっていません。
「政子」の名前は、頼朝の死後、高位についたときに父の名、時政の「政」の一字を受けて
“政子”
とされたので、ドラマや小説のように頼朝が妻に「政子」と呼びかけたことなど絶対にありません。
秀吉の妻も、同じリクツで、彼女の名前は、「豊臣吉子」。秀吉の「吉」の一字を受けています。
でも、こんな名前で呼ぶ人、いませんでしょ。
とにかく、戦国女性の名前は“不明”なことが多い…
さて、話を「濃姫」さんにもどしますと…
当時の習慣から言うと、美濃の稲葉山城から来た嫁なので、「稲葉山殿」と呼ばれていた、と言いたいところですが、実は当時、稲葉山城は「稲葉山城」とは呼ばれていないんです。
「井口城」という名前でしたから、
“井口殿”
と呼ばれていた可能性があります。
それから、濃姫というと、本能寺の変で信長と一緒に死去した、という“演出”がドラマや小説ではみられますが、近年の研究や最近発見の史料などから、江戸時代初期まで生存していた、という可能性が高くなっています。
男子を生んでいないので、途中で離縁されたか、別居されていたか、はたまた信長の数多い妻妾ならびにその子たちを「家政の長」としてとりまとめていたものの「奥向き」のことゆえ記録には残らなかったのか…
男子の無き母は、夫の死後は、「表向き」のところから離れて、ひっそりと暮らす…
こういうことも考えられていて、政治・外交の局外にいる… よって命を長らえる、ということもあります。(その点、北政所の秀吉死後の境遇に似いているかも。)
むろん“行方不明”であるということと、実在しない、という話は別ですし、だからその間、何の役割も果たしていなかった、というわけではありません。
目に見える歴史の背景には目に見えない歴史が並走しています。
たとえば、ピアノの名曲。
私たちが耳にするのは“右手”の世界のメロディーライン。
でも、“左手”の世界の伴奏が無ければ、その曲には奥行が感じられません。
あたかも通奏低音のように、ずっと淡々と続く(それだけ聞いたら何かわからない、何もかわらない)動きがあればこそ「一曲」が完成しています。
目に見えない、けれど何かあった、というのが戦国大名の妻たちともいえます。
たとえば、柴田勝家の“妻”。
え? いやいや、柴田勝家の妻は「お市の方」でしょ?
というツッコミがすぐに入りそうです。
柴田勝家が織田信長の妹、お市を正室に迎えたのは彼が60歳のとき。
(大永二年生まれという説にのれば、という話ですが…)
それまでに、彼には“妻”がいなかったのか?
柴田勝家には、勝政・勝豊という二人の“子”がいますが、いずれも実子ではなく養子です。
前にも申しましたように、正室であっても男子がいない母は、この時代、けっこう行方不明になるんです。
いやいや、柴田勝家ほどの有名人に、もし“妻”がいたら、何か記録に残ったりしているはずだ。だからお市さんが妻になるまで、独身だった可能性もある、ということをおっしゃられる方もいますが、柴田家の「家政」そのものの記録がほとんど無いんです。
もともと、夫は軍事・政治、妻は家政・経済、という役割分担ができていたのが戦国時代より以前のことです。
家政そのものは、「奥向き」のことであって、あんまり“記録”としては残りません。
有名か無名かにかかわらず、「家」の内側の記録が残っているほうがむしろ稀なんです。
織田信長、豊臣秀吉、というレベルになって、ようやく物語などに取り上げられるものとして妻たちが登場しますが、それとて、「表向き」の政治・軍事の話をおもしろく脚色するために利用されていて、実像を正しくは伝えていません。
正室の北政所と、秀吉の愛人淀殿は対立していた。
関ヶ原の戦いで、北政所が家康に味方した。
東軍に秀吉の家臣の大名が多く参加した裏には北政所が動いていた。
などなど、これらは史実ではありません。(ほんとうにそうだった、と、思われている方がいまでもたくさんおられると思います。)
もし、秀吉が信長の家臣時代、上京するまでの間で戦死でもしていたら、秀吉の“妻”すら「行方不明」となっていたはずです。記録には残らない…
柴田勝家には妻がいた、しかし、後継ぎがいなかった、どこかで離縁されているか、病死していた、となってもおかしいことではなく、むしろそうであった可能性のほうがはるかに高い…
信長という“有名人”の周辺にいた大名であっても、その“妻”が「外交上」の「婚姻関係」として「表向き」に出て来た場合のみ、記録に残り、そうでない場合、記録が残っているほうが少ないのです。
たとえば、織田家の重臣、林秀貞。(この人は、かつて林通勝と呼ばれていましたが、現在では通勝という表記は誤りとなっています。有名人ですら名前も正しく伝わらない場合があるのが実際なんです。妻妾のことが詳細にわかるのはかなり珍しい。)
信長が発給してきた文書で、この人の連署がないものがほとんどないくらい、織田家の政治上、重要な役割をしている人ですが、“妻”のことは不明です。母すらわかっていません。
滝川一益の“妻”も不明です。
柴田勝家・林秀貞・滝川一益
みな、妻が行方不明です。
いや、それを言うなら、織田信長すら、正室は“行方不明”。
いやいやいや、濃姫さんでしょ! 斎藤道三の娘の!
という鋭いツッコミが入ってきますが、これとて先に示した「表向き」の外交上の婚姻関係で明らかになっているから記録に残っているだけで、実子の無い母、というのは、本来その存在は消えていくものでした。
実際、斎藤道三死後、織田信長上京後の、濃姫の動向は不明なことが多い…
そもそも、「濃姫」は名前ではありません。
「知っているよ、美濃からきた姫だから濃姫って呼ばれているだけで、ほんとは帰蝶なんでしょ?」
と、言われる方もおられるかもですが、これ、実は江戸時代に書かれた本に見られる記録で、実際の彼女の名前は「不明」なんです。
話をすっ飛ばしますが、あの、源頼朝の妻、「北条政子」すら、本名はわかっていません。
「政子」の名前は、頼朝の死後、高位についたときに父の名、時政の「政」の一字を受けて
“政子”
とされたので、ドラマや小説のように頼朝が妻に「政子」と呼びかけたことなど絶対にありません。
秀吉の妻も、同じリクツで、彼女の名前は、「豊臣吉子」。秀吉の「吉」の一字を受けています。
でも、こんな名前で呼ぶ人、いませんでしょ。
とにかく、戦国女性の名前は“不明”なことが多い…
さて、話を「濃姫」さんにもどしますと…
当時の習慣から言うと、美濃の稲葉山城から来た嫁なので、「稲葉山殿」と呼ばれていた、と言いたいところですが、実は当時、稲葉山城は「稲葉山城」とは呼ばれていないんです。
「井口城」という名前でしたから、
“井口殿”
と呼ばれていた可能性があります。
それから、濃姫というと、本能寺の変で信長と一緒に死去した、という“演出”がドラマや小説ではみられますが、近年の研究や最近発見の史料などから、江戸時代初期まで生存していた、という可能性が高くなっています。
男子を生んでいないので、途中で離縁されたか、別居されていたか、はたまた信長の数多い妻妾ならびにその子たちを「家政の長」としてとりまとめていたものの「奥向き」のことゆえ記録には残らなかったのか…
男子の無き母は、夫の死後は、「表向き」のところから離れて、ひっそりと暮らす…
こういうことも考えられていて、政治・外交の局外にいる… よって命を長らえる、ということもあります。(その点、北政所の秀吉死後の境遇に似いているかも。)
むろん“行方不明”であるということと、実在しない、という話は別ですし、だからその間、何の役割も果たしていなかった、というわけではありません。
目に見える歴史の背景には目に見えない歴史が並走しています。
たとえば、ピアノの名曲。
私たちが耳にするのは“右手”の世界のメロディーライン。
でも、“左手”の世界の伴奏が無ければ、その曲には奥行が感じられません。
あたかも通奏低音のように、ずっと淡々と続く(それだけ聞いたら何かわからない、何もかわらない)動きがあればこそ「一曲」が完成しています。
目に見えない、けれど何かあった、というのが戦国大名の妻たちともいえます。