こはにわ歴史堂のブログ -57ページ目

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

安政の大獄…

当時、幕府の政治の潮流は二つありました。

まずは、開国以来の混乱に、挙国一致でのぞむ、という流れ。
老中阿部正弘がやろうとしたように、朝廷も含めて、外様・譜代の枠を越えて危機をのりきろう、というもの。

もう一つは、逆に、もともとの幕府の力(政治力も権威も)を回復し、幕府の再建を図ろうとする考え方で、譜代や旗本・御家人たちの力を再結集する、というもの。

大老の井伊直弼は後者の潮流の代表でした。
ものすごくおもしろいことを言うと、井伊直弼は「尊王攘夷」派だったともいえるんですよ。
もともと井伊直弼は、孝明天皇の許可無く通商条約を結ぶことには反対していました。

むちゃをしていたのはこの時期の朝廷の方(下級貴族たち)だともいえました。
関白を辞任に追い込んだり水戸藩に勅をくだしたり(戊午の密勅)、当時の政治秩序を大きく逸脱した行為で(将軍をさしおいて臣下に勅を下すというのはかなりおかしなこと)、これはさすがに幕府も黙視することができないものでした。

井伊直弼にすれば、孝明天皇を「まきこんで」危険な政治遊戯を楽しんでいるとしか見えなかったことだと思います。

企業なんかでも実はよくあるんですね…
何か経営危機となる…
若手の中間管理職くらいは、自分の新しい企画が通らないのは、頭の固い部長や役員のせいだ、と考えてしまう…
あいつらは会社の発展ではなく自分の地位の保全を考えている…
それまでの会社の慣習や手続きを無視して、社長を動かそうとしてしまう。
社長も何か新しいことをしなければ、と、思っているからついついそういう若手の起用を考えてしまって話に乗ってしまうときもある…

井伊直弼にすれば、彼らの「尊王攘夷」はまず「尊王」ではない、天皇をまきこんでその地位を危うくするものではないか… さらに「攘夷」なんか唱えて外国の反発と侵略をまねけば、国体そのものに危害がおよぶ… と考えていたはずです。

「安政の大獄」は、天皇をかついで朝廷の存続の危機をまねきかねないグループを一挙に排除しようというものでした。

しかし、アクションは必ずリアクションを生みます。
圧が高ければ反発もまた大きい…

水戸藩の志士らが中心となって1860年、江戸城に向かう井伊直弼を桜田門外にて襲撃し、殺害するという事件が起こりました(桜田門外の変)。

やや余談ながら、わたしの勤務する学校の校門前に、大きな石柱があり、そこには「高橋多一郎」という人物の名が刻まれています。
生徒たちは、「なんだろこれ?」と思っていたり、お寺に寄付をたくさんした人かな? くらいにしか思っていなかったり、果てはそんもんあったっけ? と思っている子たちもいるとは思うのですが、この人物こそ水戸藩士で、桜田門外の変の首謀者の一人なんです。

水戸藩に下された密勅の写しを江戸から水戸へ届けたのも高橋多一郎ですし、土佐藩や長州藩との連携を画策したのもこの人物でした。そして大老の暗殺計画を進める…
幕府がこのことを察知すると、ただちに脱藩。大坂にむかいました。
彼の計画では、江戸で大老井伊直弼が暗殺されると、薩摩藩が兵を率いて大坂に上陸。大坂から京都に入って朝廷を守護し、その威力をもって幕府に政治を改革させよう、というものでした。
その薩摩藩兵の先導をすべく大坂に潜伏していました。

井伊直弼は暗殺されましたが薩摩は兵を動かさず、高橋多一郎は大坂の潜伏地(夕陽丘に当時あった料亭)にて幕府の役人に捕縛されかけました。
高橋は逃げます。役人においかけられ、逃げ込んだのが四天王寺。もはやこれまでと、寺役人の小川欣司兵衛の邸宅の一室を借り、そこで息子の庄左衛門とともに切腹して果てました。
その場所が、なんと現在の四天王寺高校・中学の校門のあたり、というわけです。

明治時代になって、彼らは維新の功労者として顕彰されるようになり、正四位を贈与され、その石碑が境内に建てられた(墓も四天王寺にあります)、というわけです。

さて、桜田門外の変の後、老中として幕政を担ったのが安藤信正です。

公武合体、とは朝廷(公)と幕府(武)の協力関係を築く、という政策です。
ある意味挙国一致体制、という政治潮流への方向転換ともいえますが、このときの「公武合体」は、実際は幕府強化・再建策の延長で、むしろ朝廷を取り込み、従来のように「政治はあくまでも幕府。朝廷は君臨すれども統治せず。」の再編だったというべきでしょう。

具体的には政略結婚です。

孝明天皇の妹和宮と将軍徳川家茂を結婚させる…

尊王攘夷論者たちからは、「幕府による朝廷とりこみ政策」だと考えられ、大きな反発を生むことになりました。

そしてこのことは、また、ある一つの悲劇をともなっていました。

実は和宮にはすでにこのとき婚約者がいたのです。兄の孝明天皇自らが両者を説得して、それこそ生木を裂くようにして別れさせて、将軍家茂のもとに嫁がせたのでした。(このことは後に悲しい恋の物語として、いくつかの誇張も含みながら世に広がることになります。)
そしてこの婚約相手が、有栖川宮熾仁親王でした。

 有栖川宮熾仁親王

後に明治政府の総裁となり、戊辰戦争が勃発すると、熾仁親王は自ら志願して官軍の司令官ともいうべき東征大総督となることを申し出て明治天皇の勅許を得ます。(かつての婚約者との仲を裂いた幕府を滅ぼすという復讐を誓った、とは考えすぎかもしれませんが、宮さまの胸中はいかばかりであったのか、と、ついつい想像をたくましくしてしまう後の歴史の展開です。)

話が先に進みすぎました。

この公武合体を進めていた老中安藤信正が尊王攘夷派(水戸藩士ら)に襲撃される事件が起こります。

 坂下門外の変

です。安藤は殺害されませんでしたが、負傷し、結局老中を罷免させられることになりました。

こうして幕府の政治の潮流はまた動きます。

譜代・旗本中心の幕府再編・強化と朝廷取り込みという「公武合体」から、朝廷やそれまで政治に参加することができなかった外様など雄藩主導で幕府を改革していく「公武合体」へと流れが変わっていくようになります。

その中心となったのが、薩摩藩でした。

この時期の薩摩藩は(あるいは島津家自体はその後も)、幕府を倒す、という考え方はまったく持っておらず、あくまでも幕府の枠組みで薩摩藩が参加して政治をする、ということを考えていました。(実際、島津久光は倒幕後、大久保利通に、わたしはいったい、いつ老中になるのだ、と問うたという“伝説”があるくらいです。)

藩主島津忠義の父、島津久光は江戸に下り、幕府に対して政治改革をせまります。

この結果、松平慶永が政治総裁職、徳川慶喜が将軍後見職、京都守護職に松平容保が任命されることになり、「井伊直弼体制」で弾圧・排除された人々がいっきに政権の座についた、ということになります。
このとき、西洋式軍制が採用され、参勤交代の緩和(外様大名の政治参加の可能性も開く)なども実施されました(文久の改革)。

ところが、長州藩は薩摩藩とは違った動きを京都で展開していきます…

(次回に続く)

日米和親条約にもとづいて、1856年に下田駐在の初代アメリカ総領事が来日しました。

 タウンゼント=ハリス

です。
ハリスは、幕府に対して通商を強く強く求めました。
交渉にあたった幕府の老中が

 堀田正睦

です。

この時代、ちょっとした歴史認識の“誤解”がありました。

「鎖国」というのを開始したのが、幕府である、ということを知っている人物が、けっこう政治の上層部にもいなかった、ということなんです。
そもそも孝明天皇ご自身、

 鎖国は日本建国以来の“祖法”である。

と思われていました。
孝明天皇が「開国」を拒み、朝廷に攘夷を求める“空気”が強かったのは、ここにも一因がありました。

現在、義務教育年限において、「日本の歴史」をざっくり学習するわけですが、こんなに詳しく日本の歴史を知っている人は、当時あんのりいなかったんです。
高校生くらいで歴史が好き、という生徒が江戸時代にいけば、もう歴史の大学者になっちゃうレベルです。

鎖国が幕府が開始した政策である、ということが知られるにつれ、開国することは反幕府に通じる、という意識の転換になり、「攘夷と倒幕」を提唱する人々に、いろいろな思想の方向性が出てくるようになります。開国することと攘夷・倒幕に矛盾が無くなるわけです。

1856年、中国で大きな事件が起こりました。

 アロー戦争

です。
アヘン戦争後、中国はその前近代性をさらしてしまい、イギリスやフランスは、さらなる利権の拡大をめざしていました。

そんなとき、アロー号事件が起こります。

イギリス船籍を称する(実際はイギリス船籍は期限切れになっていた)中国の船アロー号が「海賊」行為ならびに密輸に関連しているとした清政府が、アロー号を臨検(立ち入り調査)し、乗組員を捕縛しました。

この事件をイギリスは、ただちに“拡大”して利用します。
(このときのイギリス領事がパークスで、後に駐日公使となり、薩摩を後援して倒幕運動を進めさせます。)

実際にはイギリス船籍では無くなっていたにもかかわらず、イギリスの船を臨検したのは違法である、また、そのときに国旗を燃やされた(実際には国旗は掲げられておらず、当然燃やされたりもしていないのにもかかわらず)として、これを口実に軍を動かしました。
宣教師を逮捕されて殺されていたフランスも誘い、清と開戦します。

言いがかりをつけて、それを口実に戦争を開始する…
帝国主義諸国の常套手段です。

こうして清を破り、1858年、アヘン戦争で結んだ南京条約よりもさらに有利な天津条約を結び(後にさらに有利な北京条約を結ぶ)ことになりました。

アメリカは、中国で起こったこの事件を、日本を脅す材料としました。

ハリスはイギリスとフランスの脅威を説き、戦争となればいっそう不利な条約をおしつけられてしまう、と迫って通商条約を日本に結ばせようとしました。

このころ、幕府では内政上の諸問題をかかえていました。
堀田正睦は、通商条約を結ぼうとしましたが朝廷の許可を得られず、通商条約の締結は頓挫していました。
さらに13代将軍徳川家定に子がなく、後継問題が浮上していたのです。

越前藩主松平慶永、薩摩藩主島津斉彬らは一橋家の一橋慶喜を推していました。
彦根藩主井伊直弼ら譜代大名たちは紀伊藩主の徳川慶福を推していました。

1858年には彦根藩主井伊直弼が大老に就任し、内外の問題を一気に解決しようと動き出しました。

朝廷の許可を得ることを断念してハリスと通商条約を調印し、徳川慶福を将軍後継に決定しました(14代徳川家茂となる)。

孝明天皇は怒り、さらに一橋慶喜を推していた諸大名や尊王攘夷を唱える諸藩士たちは、井伊直弼に強く反発するようになりました。
井伊直弼は、これらを強硬におさえつけます。

「安政の大獄」と呼ばれる反対派の諸大名の弾圧を展開しました(徳川斉昭・一橋慶喜・松平慶永らの蟄居・謹慎、越前藩士橋本佐内、長州藩士吉田松陰を処刑)。

さて、井伊直弼が調印した条約なのですが…
これが

 日米修好通商条約

です。

(1)神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、江戸・大阪の開市
(2)自由貿易の開始
(3)開港場に外国人居留地を設ける

ということに加え、中学受験や高校受験でおなじみの「不平等条約」としての項目

(4)治外法権を認める
(5)関税自主権がない

ということを日本に認めさせました。

かつて高校入試でおもしろい問題が出題されたことがあります。
(   )に漢字5文字を入れよ、というものだったのですが…

・日本には関税自主権が無く、(   )を認めた。

あれ?? 「治外法権」だから漢字4文字では?? と受験生から質問が殺到したそうです。

実は正確には「治外法権」ではなく「領事裁判権」なんですよね。

(4)日本に滞在するアメリカ人への領事裁判権を認める

というのがより正確な表現です。アメリカ人が日本で犯罪を犯した場合、アメリカの法律に基づいて、アメリカの領事が裁判をする、ということです。

同様に、条文には「日本に関税自主権が無い」とは一行も書いていません。

ちょっとイジワルな問題を出してみますね。次の(   )にあてはまる語句を入れてみてください。

・日本は(  5字  )を認めて、さらに(  4字  )を認めた。

え??? 5字はさっきの「領事裁判権」だけれど… 4字ではなく5字の「関税自主権」でしかも「認めた」ではなく「認めなかった」の間違いではないの??

となりそうです。

(5)関税については日本に税率の決定権がなく、相互で協定して決める「協定関税」を認めた

というのが正確な表現なんです。協定関税を認めていた、という部分を「関税自主権が無い」と表現するんですよね。

この通商条約と同様のものを、オランダ、イギリス、フランス、ロシアとも調印しました。
よって総称して「安政の五ヶ国条約」とも呼ばれています。

和親条約はアメリカ・オランダ・イギリス・ロシアの4ヶ国とまず結びました。
通商条約はアメリカ・オランダ・イギリス・フランス・ロシアの5ヶ国とまず結びました。
(塾講師をしていた時代、塾生たちにはそれぞれ「アオイロ」と「アオイフロ」だとおぼえなさい、と、説明した記憶があります。)

さて、日米修好通商条約にも、ちょっとした誤解があります。
5港が開港された、と、いわれますが、実は締結直後からそれらの港で貿易が開始されたのではありません。

1859年、横浜(神奈川)・長崎・箱館の3港でまず、開始されました。
(ほんとは、前回の和親条約のときら説明するべきでしたが、「函館」は当時「箱館」と表記されていました。)
他の2港の開港は、さらに後で1860年が新潟、1863年が神戸と定められました。

この通商条約の「不平等性」は、政治的なものだけではなく、経済的なもののほうが重大でした。

諸外国との取引、つまり貿易をするときにまず決めなくてはならないことがあります。
それは為替レートです。
「1ドル=360円」というように、日本の貨幣とアメリカの貨幣をどういうように交換するか、ということを決めておかないと貿易できません。

条約には、同じ量・質の「銀」を用いることが定められていました。

ハリスは、天秤をわざわざ持ち込み、幕府の役人の前でパフォーマンスしてみせました。

アメリカの「1ドル銀貨」を天秤の一方に載せます。あたりまえですが、大きく傾きました。
日本にも銀貨があるでしょう、載せてみてください、と言います。
日本には「1分銀」という銀貨があります。
一つ載せても釣り合わない、二つ載せると傾きましたがまだ釣り合わない…
ところが三つ載せると、ピッタリと釣り合ったのです。

 1ドル=3分

と定められました。何も問題は無さそうですよね…

「では、1ドル=3分ということで…」と交換レートが定められてしまったのですが、ここに大きな落とし穴がありました。

日本の国内での「両替」なのですが、

 1両=4分

で交換されていました。1両は、金貨つまり小判1枚ということになります。
1分銀を4枚持って両替商に行くと小判1枚(1両)に替えてもらえる、というわけです。

さて、日本の金貨は人気が高く(というか海外では金の価値が日本よりも高く、銀と金の交換率の差が日本よりも大きかった)ホンコンでは

 1両=4ドル

で交換されていたんです。

ん??? つまりどういうこと??? と、この事態がわからない人はハリスにだまされてしまいましたよ。

 1ドル=3分
 4分=1両

そしてホンコンでは

 1両=4ドル

わかりやすく説明しましょう。

4ドル持って日本に入ります。
すいませ~ん、日本の銀貨に替えてくださ~い、と言います。
すると1ドル=3分ですから、12分になります。

で、その12分を持って両替商に行きます。
すいませ~ん、小判に替えてくださ~い、と言います。
すると4分=1両ですから、小判3枚つまり3両になります。

で、その3両を持って日本を出て、ホンコンに行きます。
すいませ~ん、ドルに替えてくださ~い、と言います。
すると1両=4ドルですから、12ドルになります。

わかりましたか?
4ドルを日本で両替して小判に替えてホンコンに持ち出せば12ドル、つまり3倍になっちゃうんですよ! 両替するだけで3倍の儲けが出る…

教科書ではサラリと「日本と外国との金銀比価が違ったため、多量の金貨が海外に流出した」と書かれていますが、つまりこういうことだったんです。

幕府はあわてて金貨の品質を下げてこの流失をくいとめようとしました。
そうして小判を新しく改鋳した(万延小判の発行)のですが、10万両以上の金貨が海外に消えてしまうことになったのです。
むろん貨幣の質を下げると物価が上がります。いわゆるインフレが引き起こされました。

もちろん、貿易は日本の産業にも大きな変化をもたらしました。
日本は、鎖国をしていた「おかげ」で国際競争力の高い製品がたくさんあり、外国に多くのものが輸出され、飛ぶように売れました。
アメリカは関税自主権を日本に認めず、貿易して大きく儲けようとしたのに、フタを開けてみれば大きな貿易赤字(つまり日本の貿易黒字)となってしまいました。

アメリカで南北戦争が始まると、アメリカとの貿易量は格段に減り、横浜での最大貿易相手国はイギリスとなります。

ここでも生糸や茶が大量に輸出され、国内からこれらの日用品と呼べる産品が消え、品薄状態が起こりました。これが貨幣の質が下げられたことと相まって、爆発的なインフレを引き起こすことになり、米などの食品、その他日用品の価格が2~7倍にまで高騰します。
一方、機械織りされた外国の綿織物が大量に輸入された結果、河内や尾張で発達していた綿織物業は大きな打撃を受け、綿花畑がどんどん消えていくことになります。

幕府は物価の統制(インフレにブレーキをかける)ために1860年、雑穀・水油・ロウ・呉服・生糸の5品は、必ず江戸の問屋を経て輸出することにしました(五品江戸廻送令)。

これら内外の問題から庶民の生活は圧迫され、貿易に反対する機運が高まり、それらが政治的問題と絡まって尊王攘夷運動を後おのすることになったことは言うまでもありません。

(次回に続く)

 




日本に来日して貿易を求めた最初のアメリカ人は誰ですか?

という問いをしますと、中学入試のお勉強をしてきた小学生や、高校入試のお勉強をしている中学生たちは、

 ペリー

と、解答してくれるかもしれません。
しかし、これは実は間違いなんです。

知っているよ! ビッドルでしょ! と、歴史に詳しい人は言うかもしれません。
この人物は、アメリカ東インド艦隊司令官で、後のペリーと同様、1846年、浦賀に来航して通商を要求しました。
だから、ペリーではなくビッドルだ! と、なりそうなのですが、実はこの人でもありません。

え?? そんなん、他に誰かおった???

と、なりそうなのですが…

実は18世紀末(1791年)に和歌山の紀伊大島に、毛皮を売りにやってきた人物がいたんですよ。それが

 ジョン=ケンドリック

です。(和歌山県串本町では超有名人なんですよ。)

彼は嵐を避けて大島に来た、という口実で日本では「違法になると知りながら」毛皮を売買しようとしたと言われています。(おもしろいことに、翌日、ほんとに嵐にあって遭難し、交易には失敗して帰ることになるのですが…)

ここで注目すべきことは、こういう貿易商人のレベルでも、当時、日本が「鎖国」をしていて、日本での通商は「違法」である、ということを知っていた、ということなんです。
18世紀の段階で、世界の通商システムの中で日本という存在が知られていて、ヨーロッパとの(オランダとの)交易は長崎のみでおこなわれていた、ということが認知されている、ということなんですよね。
けっして日本は世界経済から「隔絶」された存在ではなかった、ということなんです。

ケンドリックは、中国・マカオでの交易をおこない、ここで得た商品(主として毛皮)を売ろうとしたわけで、中国・東南アジアとの中継貿易地点としての日本の地の利を理解していた、ともいえます。

これは実は、アメリカの太平洋側の商人たちにはある程度知られた認識で、後に日本の開国目的の一つにもなる考え方となります。

さてさて、小学校でも習うペリーさんの話です。
ペリーに関する誤解をいくつか紹介しますと…

ペリーは太平洋を横断して日本に来たのではありません。
ついついアメリカから来た、と、説明すると、日本を中心に描かれた世界地図をイメージてし、太平洋を横断してやってきた、と、思ってしまうんですよね…
出航したのはバージニア州ノーフォークですから東海岸です。大西洋をわたってアフリカ南端ケープタウンにむかい、モーリシャス諸島、セイロン(現在のスリランカ)、そしてシンガポール、マカオ、ホンコン、シャンハイと来て、沖縄にやってきました。
めっちゃ東に向かって日本をめざしたことになります。

ペリーの艦隊の蒸気船は4隻ではありません。
20歳以上の方ですと…

 泰平の
 眠りをさます
 上喜撰
 たった四杯で
 夜もねむれず

という狂歌を小学校や中学校の教科書で見られたことがあるかもしれません。

「泰平の眠り」とは鎖国状態のこと。
「上喜撰」とは上等のお茶(玉露の銘)のことで、むろん蒸気船とひっかけたものです。

鎖国が4隻の蒸気船の来航で破られた、ということを表現したもので有名なのですが、現在の教科書の多くからこの狂歌は消えつつあります。
というのも、ペリーは4隻の軍艦を率いて浦賀に来航したことは確かですが、蒸気船は2隻だったからです。(来航した蒸気船が4隻だったという誤解を与えるからでしょうか。)
サスケハナ号とミシシッピ号のみ。のこりのプリマス号とサラトガ号は帆船で、サスケハナ、ミシシッピが排水量3000トンをこえる軍艦だったのに対して、プリマス、サラトガは1000トン無い船でした。
おもしろいですよね。当時の人々の目には蒸気船が4隻やってきた、という印象だったわけですから、やはり驚きや怖れから記憶に混乱が生じているというか、伝聞によってまちがった情報が流布していたというか…
当時の混乱ぶりもわかります。

ペリーは「提督」ではありません。
え? 「ペリー提督」って習ったよ?? と思った人は30才以上の方かもしれません。
実は、当時、アメリカ海軍に「提督」という地位はありませんでした。(正確には地位はあったのですが1862年までその地位に誰も就いていないんです。)
これはアメリカ海軍の“事情”で、まだ常設の艦隊が無く、軍艦は個々の艦長の運用に任されていたのですが、艦隊行動をする場合は、そのうちの一人を臨時の全体の将に任命して艦隊を運用させていたのです。
よって、ペリーもその任にあり、「提督」ではあれませんでした。

ペリーは開国交渉の際、アメリカに帰国していません。
1853年6月に浦賀に来航したペリーは、フィルモア大統領の国書を幕府に渡して開国をせまります。幕府は翌年に回答を約束してペリーにひきとってもらいました。
で、翌年再び来た、と説明してしまうと、ペリーさんはアメリカに帰ったのかな? と思う生徒もいるんですが、実際は沖縄(当時は琉球)にもどり、翌年1854年1月、今度は7隻の軍艦を率いて条約の締結をせまるんですよね。

こうして幕府はペリーと条約を結ぶことになります。

日本の老中首座は阿部正弘。
ドラマや小説を読むと、「老中」という地位にあったことから、なんだか中年、あるいは初老の政治家のイメージを持っている人がいるかもしれませんが、彼が老中となったのはなんと25歳!

島津斉彬や水戸斉昭など広く意見を集め、下級武士から幕吏を登用して新しい政治を始めていくんですよね。
そして条約締結時には35才…(後に通商条約が結ばれる前年、39才で死んでしまい下ます。)

蛇足ながら…
たしかNHKの大河ドラマ「篤姫」では、阿部正弘役を俳優の草刈正雄さんが演じておられて、いやいや、ちょっと年齢が違うやろっ!とツッコミを入れてしまった記憶があります。
(NHKの大河ドラマは、年齢設定にいつも無理があるんですよね。「龍馬伝」でも山内容堂役を俳優の近藤正臣さんが演じられていたのですが、まるで老人… 容堂は大政奉還のときは40才なんですから「龍馬伝」での時期は30才代なんですよ。)

さて、条約ですが…

(1)アメリカ船に燃料・食料を供給すること。
(2)難破船や乗組員を救助すること。
(3)下田・箱館の2港を開港すること。

ということが主な内容となります。

中学受験を経験した生徒たちに、ちょっとイジワルな質問をしたことがあります。

 日米和親条約は不平等条約である。
 その「不平等」の内容を説明せよ。

え? 関税自主権が無い、とか、治外法権を認める、とか??
いやいや、それは日米修好通商条約ちゃうん?!
あれ? 日米和親条約って不平等条約やっけ?

と、やや混乱してしまったようでした。

実は、日米和親条約も不平等条約なんです。4項目目に

(4)アメリカに一方的な最恵国待遇を認める。

というのがあるんです。

最恵国待遇とは、他国と条約を結んだとき、日本がアメリカに与えたよりも有利な条約を認めた場合はアメリカにも自動的にその条約が付与される、というものです。
「一方的な」とあるのは、アメリカが他国と条約を結んでも、日本には適用されない、ということなんですよね…
「片務的最恵国待遇」というのが日米和親条約における不平等性なんです。

(実際、ロシアと日露和親条約を結んだとき、開港地が下田・箱館。長崎の3港と定められたのですが、片務的最恵国待遇にもとづき、アメリカにも長崎が開港されることになりました。)

開国後、「安政の改革」を主導したのも老中阿部正弘でした。

ペリーの来航と開国要求が、「国難」であると判断した彼は、朝廷へもこの事態を報告、さらには諸大名にも意見をもとめて「挙国一致体制」をつくろうとします。
越前藩主松平慶平、薩摩藩主島津斉彬、宇和島藩主伊達宗城らの協力をとりつけ、前水戸藩主徳川斉昭を幕府の政治に参加させます。
海防の充実を図り、江戸に台場(大砲を設置するための砲台)を築き、鎖国令にあった「大船建造の禁」を解く、ということをしています。

洋学の研究教育機関として蕃書調所を設置。
海軍士官養成機関として海軍伝習所を設置。
武芸訓練機関として講武所を設置。

阿部正弘は「人材育成」、“人の改革”に力を入れた人物ともいえます。

しかし一方で、朝廷の権威を高め、諸大名の発言力を強めてしまうことになり、尊王攘夷運動や雄藩の台頭・改革の前提をつくったともいえるんです。

(次回に続く)







40歳以上の方ですと、日本の近代史というのは「明治時代」から、という設定で教科書が書かれていた記憶があると思います。
現在では、近代は「開国」から、つまり江戸時代の終わり、幕末から近代が既に始まっていた、という考え方に立っています。

小説やドラマの影響もあり、江戸時代「暗黒」、明治時代「夜明け」というイメージが定着していた時期もあり、鎖国=時代遅れ、近代化の障害、という理解が長く続いていました。

鎖国のせいで近代化が遅れた、のではなく、鎖国のおかげで近代化が進んだ、というのが現在
の歴史認識です。

18~19世紀は、イギリスの産業革命に始まる世界の工業化の時代でした。

イギリスは、「世界の工場」と呼ばれましたが、これは単に工業が発達していた、という意味ではなく、もっと世界規模の大きな構造を示すものです。

多くの原材料がイギリスに運び込まれ、イギリスから多くの製品が供給される、ということです。

よってイギリスは、世界を「自分の都合」のようように変えていこうとしました。
アジア・アフリカ地域を「色分け」していったのです。

ここは原材料を獲得する地域にしよう。
ここは製品を売る地域にしよう。

ということです。
原材料の供給地は、効率的なほうがよいにきまっています。
ですから、

ここの地域は綿花担当、ここの地域はサトウキビ担当、ここの地域は天然ゴム担当…

というように、1地域1産品に「改造」していったのです。

これを地理などでは

“モノ・カルチュア”

と教えるところです。ですから、

「ここは熱帯だから、天然ゴム、育つだろう」

と考えて、「もともとその地域には無かった」農作物を持ってきて栽培させました。

これを地理などでは

“プランテーション”

といいます。生徒たちは地理で「ここは天然ゴムのプランテーションをしている」と習うと、なんだか熱帯でおこなわれている大規模農園、という程度にしか理解していませんが、プランテーションとはそういう意味なんです。

モノカルチュアやプランテーションとは、簡単に言うと文化の破壊ともいえました。
だって、もともと地元の人たちが生産している農産物を作らせず、本国が必要な農産物の生産だけをさせて、その地元の人たちをその農園で働かせる労働者にしていく、ということだからです。
ましてや、もともとそこには生えていない農産物を育てさせるわけですから、地域の伝統やそこから生まれている文化は消滅していって当然です。

軍事力で農民から土地を奪い、農民を労働者化し、地産品を破壊して、本国に必要な農産物のみを生産させる…

こうして安価に大量に単一の農産物が生産され、本国に運び込まれて、それを用いて製品を大量に作っていく…
イギリス本国自体の産業構造も変化させます。
一つは技術革新で、大量の原材料を大量に製品化するために、人の手による生産から、機械による生産へと生産工程が大きく変化することになりました。
資本家と労働者という階級が生まれ、資本家たちは政治への参加をもとめて選挙法の改正を要求します。
1830年代に選挙権を得た資本家たちは、自分たちの利益追求を政策に反映していきますから、イギリスの政策は外にあっては「植民地獲得」、内にあっては「自由な商取引の拡大」へと進んでいきました。

 自由競争・自由貿易

というと、何やら「自由」という言葉から何やら良いイメージを持ってしまう人もいますが、これは強者の論理です。

大量に生産された安価な製品。
同じ製品ならば安いモノが売れるのは当然です。
たちまちイギリス製品は世界の市場に広がっていきました…

と、説明すると、それは仕方がないでしょ、「競争」の結果なんだから…
と考えてしまう方もおられますが、イギリスは自国製品の言わば「押し売り」を展開したのです。

製品を買いなさい。買わないと軍事力にモノを言わせますよ。

という話なんです。

最初にイギリスは世界を色わけした、と言いました。

Aタイプ。
この地域は、遅れていて、うちの製品を買う金(購買力)がない。軍事力で制圧して植民地にしちゃって、原材料の供給地にしちゃえ。めだった農作物が無いなら地面掘り返して地下資源取り出せばよい。それも無ければ他の地域から農作物を持ってきて植えたらよいやん。

Bタイプ。
この地域は、ある程度進んでいて、住民は製品を買う金を持っている。製品を輸出してやろう。でも、外国とのつきあいをしないで貿易を拒否している(鎖国・保護貿易)。軍事力でおどして開国させたれ!

という「二色展開」したのです。

ギャラハーとロビンソンが提唱した「自由貿易帝国主義」というものです。
良い品質で、安いモノなら売れます。でも、当時イギリスがとった方法は、そんなものではありませんでした。

インドは綿花の産地です。ですから伝統的な質の高い綿製品も作られていました。
イギリスはインドを原料供給地にするため、インドの地元の綿製品産業を「破壊」したんですよ。
(綿製品職人を捕え、指を切り落とす、という暴挙に出た地域もあったんです。)

中国の場合は広州1港で貿易をする「鎖国」をしていました。
ですからなんとか開国させて、「自由貿易」をおこないたい…
対中国貿易の赤字を解消するため、イギリスはインドで生産したアヘン(麻薬)をなんと中国に「密輸」し、イギリス・中国・インドの三角貿易でトータルの貿易収支を黒字に転換する、ということをしたのです。

これに激怒した中国(当時は清)はイギリスとの貿易を停止、それをイギリスは「ぬれぎぬ」であると称して戦争を開始しました。これがアヘン戦争です。

軍事力で「開国」させる…
敗退した中国は開国をさせられ、「自由貿易」(関税自主権がない・治外法権を認める)をおしつけられることになりました。

イギリスだけではありません。
後発の先進国、フランスやアメリカ、ドイツなども同様に、世界の分割・再分割を進めていくようになりました。

そして日本です。

日本はBタイプに分類されました。

「住民に購買力はあるが極端な保護貿易(鎖国)している」国だったのです。

最初はちっぽけな、未発達の野蛮な島国、と理解していた国もあったと思います。
いや、かつてマルコ=ポーロが「ジパング(黄金の国)」と紹介したこともあり、「なんだか富がありそうな国」というイメージもあったかもしれません。

が、しかし、鎖国をしていた「おかげ」で、江戸時代を通じてすぐれた製品が生まれ、すぐれた文化が栄え、質の高い労働力(識字率が高いなど)が存在する国になっていたのです。

破壊して原料供給地にするのではなく、開国させて自由貿易をする、という「選択」を諸外国がしたのは「鎖国」をしていたからだったともいえるわけです。

実際、鎖国前、日本は生糸の輸入国ですが、開国後は生糸の輸出国になっていました。
鎖国という保護貿易を通じて「国際競争力」の高い製品を育成することに成功していたのです。

幕末の志士たち叫んでいた「鎖国を続けていると外国の植民地になってしまう」という危機感は、的外れなものだったことがわかります。

アヘン戦争で中国がイギリスに敗れたときから、幕府は鎖国政策に「調整」を開始しました。
それまでは接近する外国船を

 ためらうことなく(二念無く)打ち払え

と命じていたのに(外国船打払令・無二念打払令)、漂着した外国船には燃料と食料をわたして穏便に引き取ってもらう(薪水給与令)、という方針に転換しました。

鎖国中もつきあいのあったオランダは、日本に「開国のお勧め」をしてくれましたが、これはやんわりと拒否し、鎖国を続けていくことを表明していましたが、世界の「空気」に幕府が鈍感だったわけではありません。

こうした時期に接触してきたのが

 アメリカ

だったのです。

(次回に続く)
1月24日の読売新聞朝刊の「編集手帳」を読み、ああ、これはそのとおりだ、と思いました。

冒頭、「孤掌鳴り難し」という話から入ります。
なんのことかといえば、横綱白鵬が33回優勝の偉業を成し遂げた、という出来事をうけてのお話しでした。

塾で講師をしていたとき、私はじつは社会の講師だけではなく国語の講師もしていたんですよ。
(もっとも国語の講師のほうは当時先輩の国語の講師の先生にえらくお世話になってご指導いただいたからなんとかやっていけたんですが…)

そのとき、新聞のコラムを用いてよく問題をつくりました。
朝日新聞の“天声人語”や読売新聞の“編集手帳”にはよくお世話になりました。
そんなもんで現在でも、ついつい新聞のコラムは読んでしまいます。

余計な話はさておいて…

今回の編集手帳では、横綱白鵬は一人勝ちで、他にライバルというのがいない。
昔、大鵬という大横綱がいたが、それは柏戸というもう一人の大横綱がいたから相撲もおもしろく、また大鵬自身の“力”も十分に発揮できた、というような話でした。

で、「これはそのとおりだ」と思ったわけですが、歴史上の人物についてもこのようにいえると思うんですよね…

戦国大名で有名な人で、いろいろなエピソードが語られる人物って、ライバルというか、“もう一人”の存在が常にあって「有名」になっています。

 上杉謙信と武田信玄

なんかは、まさに“孤掌鳴り難し”。どちらのエピソードも業績も、一方抜きではありえません。

中国地方で一人勝ち、に見える毛利元就も、山陰地方に尼子氏がいたからこそ、成長発展したといえます。

一人の人物に注目するよりも、その周辺の人との関わりを詳しく見ると、もっともっとその人物がおもしろく理解できます。

織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康…
常にライバルを設定して、次々と挑んでいく…
急成長、というのは、かならず何かとの“衝突”でもあります。

成長は衝突を回避できない…
衝突なき成長は成功にはならない…

歴史上の人物のあり方からはそんな側面も見えてきます。