幕末史(1)序 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

40歳以上の方ですと、日本の近代史というのは「明治時代」から、という設定で教科書が書かれていた記憶があると思います。
現在では、近代は「開国」から、つまり江戸時代の終わり、幕末から近代が既に始まっていた、という考え方に立っています。

小説やドラマの影響もあり、江戸時代「暗黒」、明治時代「夜明け」というイメージが定着していた時期もあり、鎖国=時代遅れ、近代化の障害、という理解が長く続いていました。

鎖国のせいで近代化が遅れた、のではなく、鎖国のおかげで近代化が進んだ、というのが現在
の歴史認識です。

18~19世紀は、イギリスの産業革命に始まる世界の工業化の時代でした。

イギリスは、「世界の工場」と呼ばれましたが、これは単に工業が発達していた、という意味ではなく、もっと世界規模の大きな構造を示すものです。

多くの原材料がイギリスに運び込まれ、イギリスから多くの製品が供給される、ということです。

よってイギリスは、世界を「自分の都合」のようように変えていこうとしました。
アジア・アフリカ地域を「色分け」していったのです。

ここは原材料を獲得する地域にしよう。
ここは製品を売る地域にしよう。

ということです。
原材料の供給地は、効率的なほうがよいにきまっています。
ですから、

ここの地域は綿花担当、ここの地域はサトウキビ担当、ここの地域は天然ゴム担当…

というように、1地域1産品に「改造」していったのです。

これを地理などでは

“モノ・カルチュア”

と教えるところです。ですから、

「ここは熱帯だから、天然ゴム、育つだろう」

と考えて、「もともとその地域には無かった」農作物を持ってきて栽培させました。

これを地理などでは

“プランテーション”

といいます。生徒たちは地理で「ここは天然ゴムのプランテーションをしている」と習うと、なんだか熱帯でおこなわれている大規模農園、という程度にしか理解していませんが、プランテーションとはそういう意味なんです。

モノカルチュアやプランテーションとは、簡単に言うと文化の破壊ともいえました。
だって、もともと地元の人たちが生産している農産物を作らせず、本国が必要な農産物の生産だけをさせて、その地元の人たちをその農園で働かせる労働者にしていく、ということだからです。
ましてや、もともとそこには生えていない農産物を育てさせるわけですから、地域の伝統やそこから生まれている文化は消滅していって当然です。

軍事力で農民から土地を奪い、農民を労働者化し、地産品を破壊して、本国に必要な農産物のみを生産させる…

こうして安価に大量に単一の農産物が生産され、本国に運び込まれて、それを用いて製品を大量に作っていく…
イギリス本国自体の産業構造も変化させます。
一つは技術革新で、大量の原材料を大量に製品化するために、人の手による生産から、機械による生産へと生産工程が大きく変化することになりました。
資本家と労働者という階級が生まれ、資本家たちは政治への参加をもとめて選挙法の改正を要求します。
1830年代に選挙権を得た資本家たちは、自分たちの利益追求を政策に反映していきますから、イギリスの政策は外にあっては「植民地獲得」、内にあっては「自由な商取引の拡大」へと進んでいきました。

 自由競争・自由貿易

というと、何やら「自由」という言葉から何やら良いイメージを持ってしまう人もいますが、これは強者の論理です。

大量に生産された安価な製品。
同じ製品ならば安いモノが売れるのは当然です。
たちまちイギリス製品は世界の市場に広がっていきました…

と、説明すると、それは仕方がないでしょ、「競争」の結果なんだから…
と考えてしまう方もおられますが、イギリスは自国製品の言わば「押し売り」を展開したのです。

製品を買いなさい。買わないと軍事力にモノを言わせますよ。

という話なんです。

最初にイギリスは世界を色わけした、と言いました。

Aタイプ。
この地域は、遅れていて、うちの製品を買う金(購買力)がない。軍事力で制圧して植民地にしちゃって、原材料の供給地にしちゃえ。めだった農作物が無いなら地面掘り返して地下資源取り出せばよい。それも無ければ他の地域から農作物を持ってきて植えたらよいやん。

Bタイプ。
この地域は、ある程度進んでいて、住民は製品を買う金を持っている。製品を輸出してやろう。でも、外国とのつきあいをしないで貿易を拒否している(鎖国・保護貿易)。軍事力でおどして開国させたれ!

という「二色展開」したのです。

ギャラハーとロビンソンが提唱した「自由貿易帝国主義」というものです。
良い品質で、安いモノなら売れます。でも、当時イギリスがとった方法は、そんなものではありませんでした。

インドは綿花の産地です。ですから伝統的な質の高い綿製品も作られていました。
イギリスはインドを原料供給地にするため、インドの地元の綿製品産業を「破壊」したんですよ。
(綿製品職人を捕え、指を切り落とす、という暴挙に出た地域もあったんです。)

中国の場合は広州1港で貿易をする「鎖国」をしていました。
ですからなんとか開国させて、「自由貿易」をおこないたい…
対中国貿易の赤字を解消するため、イギリスはインドで生産したアヘン(麻薬)をなんと中国に「密輸」し、イギリス・中国・インドの三角貿易でトータルの貿易収支を黒字に転換する、ということをしたのです。

これに激怒した中国(当時は清)はイギリスとの貿易を停止、それをイギリスは「ぬれぎぬ」であると称して戦争を開始しました。これがアヘン戦争です。

軍事力で「開国」させる…
敗退した中国は開国をさせられ、「自由貿易」(関税自主権がない・治外法権を認める)をおしつけられることになりました。

イギリスだけではありません。
後発の先進国、フランスやアメリカ、ドイツなども同様に、世界の分割・再分割を進めていくようになりました。

そして日本です。

日本はBタイプに分類されました。

「住民に購買力はあるが極端な保護貿易(鎖国)している」国だったのです。

最初はちっぽけな、未発達の野蛮な島国、と理解していた国もあったと思います。
いや、かつてマルコ=ポーロが「ジパング(黄金の国)」と紹介したこともあり、「なんだか富がありそうな国」というイメージもあったかもしれません。

が、しかし、鎖国をしていた「おかげ」で、江戸時代を通じてすぐれた製品が生まれ、すぐれた文化が栄え、質の高い労働力(識字率が高いなど)が存在する国になっていたのです。

破壊して原料供給地にするのではなく、開国させて自由貿易をする、という「選択」を諸外国がしたのは「鎖国」をしていたからだったともいえるわけです。

実際、鎖国前、日本は生糸の輸入国ですが、開国後は生糸の輸出国になっていました。
鎖国という保護貿易を通じて「国際競争力」の高い製品を育成することに成功していたのです。

幕末の志士たち叫んでいた「鎖国を続けていると外国の植民地になってしまう」という危機感は、的外れなものだったことがわかります。

アヘン戦争で中国がイギリスに敗れたときから、幕府は鎖国政策に「調整」を開始しました。
それまでは接近する外国船を

 ためらうことなく(二念無く)打ち払え

と命じていたのに(外国船打払令・無二念打払令)、漂着した外国船には燃料と食料をわたして穏便に引き取ってもらう(薪水給与令)、という方針に転換しました。

鎖国中もつきあいのあったオランダは、日本に「開国のお勧め」をしてくれましたが、これはやんわりと拒否し、鎖国を続けていくことを表明していましたが、世界の「空気」に幕府が鈍感だったわけではありません。

こうした時期に接触してきたのが

 アメリカ

だったのです。

(次回に続く)