禁門の変で長州藩が敗退すると、幕府はただちに諸藩を動員、「長州征伐」を実行します。
さて、現在、中学生や高校生のみなさんのお父さんやお母さんの世代ですと、「長州征伐」と習ったことだと思いますが、現在、教科書では
長州征討
と記されるようになりました。
1864年は長州にとってはさんざんな一年となります。
池田屋事件、禁門の変、そして長州征討… イギリス・フランス・オランダ・イギリスの4ヶ国による長州攻撃がおこなわれました(四国連合艦隊下関砲撃事件)。
この事件、従来は1863年の長州藩による外国船砲撃の“報復”と説明されていたのですが、実際の経緯にズレがあるので細かく説明しておきますと…
1863年に長州藩が、アメリカやフランスの商船を攻撃した事件に対してはすでに述べたように“報復”はおこなわれています。
アメリカの軍艦によって長州艦隊は壊滅的打撃を受け、さらにフランスの陸戦隊は砲台を占領、破壊しました。
ですから、単純に、63年の報復が四ヶ国の連合艦隊による攻撃、と、説明してしまうと、ちょっと実際は違う、ということなんですよね。
教科書は「四国艦隊下関砲撃事件」を
「貿易のさまたげになる攘夷派に一撃を加える機会をねらっていた列国は、イギリスを中心にフランス・アメリカ・オランダ四国の連合艦隊を編成して下関砲台を攻撃した。」
と説明しています。
実は63年の下関事件は同年のうちに報復されていたのですが、長州藩はそれにちっとも懲りず、いっそう攘夷の意識を高め、その後も馬関海峡の“閉鎖”をずっと続けていたのです。
瀬戸内海に通じる、また日本海側と太平洋側を結ぶ海上ルートの閉鎖、それによる迂回は貿易の利益を大きく損なうものでした。
イギリスは、横浜での貿易量を順調に進めていたので、当初は長州による海峡封鎖を深刻には考えていなかったのですが、中国との交易や長崎での貿易量を拡大したいイギリス商人たちの要求と議会の圧力から、“危険な海峡”の安全確保、シーレーン防衛のために長州藩を無力化する必要が出てきました。
63年事件の“報復”が四国連合艦隊下関砲撃事件、と、安易に説明してはいけない、ということです。
さて、64年の下関事件ですが…
四ヶ国の連合艦隊は17隻、そう兵力は5000。イギリス艦が9隻でしたから主力はイギリスであったことがわかります。(ちなみにフランスが3、オランダが4、アメリカが1)
7月27日に横浜を出た艦隊が長州に着いたのが8月4日。
これはヤバいぞ…
と、さすがにこの時期、長州藩も考えるようになりました(いやいや、ちょっと遅いでっせ~)。
ただちに海峡封鎖を解くことを決定し、“交渉”に入ることになりました。
この交渉に派遣されたのが伊藤俊輔と井上聞多(後の伊藤博文と井上馨)です。
実は、彼らはイギリスに留学していたのですが、四ヶ国の連合艦隊が長州を攻撃する、という情報を得て「これはマズいぞ!」と留学を停止し、大急ぎで6月に横浜に帰ってきました。
イギリス公使のオールコックに面会、
「われわれが必ず藩を説得するから攻撃を待ってほしい!」
と懇願しました。
オールコックはこれを認め、わざわざイギリスの軍艦を手配して二人を乗せ、豊後国(大分県)まで送り届けて藩を説得させました。
しかし、オールコックはすでに本国に長州を攻撃することを書簡で通告しており、帝国主義諸国お得意の“二枚舌”外交をおこなっていたことがわかります。
そして幕府に対してもオールコックは“おことわり”を入れており、海峡封鎖が解かれなければ長州を攻撃することを通達していました。
一方、フランスは“独自外交”を幕府と展開していて、幕府の「3ヶ月の猶予をほしい、そうすれば海峡封鎖を解かせるので。」という申し入れを受け入れていたのです。
オールコックは、フランスがひょっとすると参加しないのではないか、と、考えて、横浜にさらに軍艦1隻と1200人以上の兵を配備しました。(けっきょくフランスは参加することになります。)
表面的には協力するも、水面下では激しい外交戦が展開される…
帝国主義諸国のしたたかさに比べ、当時の日本はなんと単純なことだったか… 外交に関しては赤子の手をねじるようなもんだったと思います。
さて、伊藤俊輔は、漁船をチャーターして艦隊を説得に行きますが、あっけなく拒否されてしまいます。
「いや、われわれは海峡封鎖を解くし、戦うつもりもない。おのおの方が長州を攻撃する理由は無いはずだっ」と力説しますが受け入れられませんでした。
6月5日、艦隊の砲門が一斉に火を吹き、わずか1日で長州の砲120門のうち60門が奪われて無力化され、8日は残り全ての砲台が破壊されました。
陸戦隊も上陸し、長州藩は迎撃しましたが、旧式銃と弓矢でしか抗戦できず、新型ライフルを装備した外国兵の敵ではありませんでした。
さて、ドラマなどでは、刀や槍を手にした長州兵がいどみかかる、という映像が使用されますが、これはちょっと間違いです。
イギリス側にはこのときの戦いの記録や医師による治療の記録が残っていて、イギリス側の兵士たちの傷はすべて鉄砲と弓矢の傷で、刀や槍を用いた白兵戦ではなかったことがわかります。
テレビや映画の演出としては、「近代的な外国軍」「時代遅れの長州兵」というイメージをつくりたいので、刀を抜いて突撃する場面となる所ところですが、装備が旧式なだけで、長州も西洋式の戦い方をしていたようです。
長州征討、四国連合艦隊下関砲撃事件を受けて長州藩は、藩内の尊王攘夷派を処罰し(三人の家老の切腹)、幕府に対して徹底的な恭順の意をあらわしました。
けっきょく、このことが「功を奏して」、幕府は長州征討の軍は送ったものの戦闘せずに引き上げることになりました。
64年から65年にかけての長州藩では、短期間にいっきょに体質改善が図られます。
尊王攘夷派政権→(禁門の変・下関戦争・長州征討)→保守派政権
そしてさらに64年12月。
幕府に恭順し、尊王攘夷派を弾圧していた保守派政権は、わずか1ヶ月で転覆させられます。
高杉晋作が有志を率いてクーデターを起こしたのです(功山寺挙兵)。
挙兵はわずか伊藤俊輔ら80数人。
大部分の諸隊は動かず…
山県狂介(後の山県有朋)にいたっては、高杉晋作に挙兵を思い止まるように説得した上、完全に日和見状態を保ちました。
“革命”というのは、圧倒的少数による起爆で起こるのが常です。
保守派政権に不満を持っていても、実際、いざ行動となると色々リクツをつけて動かないのが人というもの…
(ピューリタン革命のアイアンサイドも、アメリカ独立のパトリオットも、ロシア革命のボリシェヴィキも、すべて少数派で、あの時に「多数決」をとっていたならすべて否決された軍事行動ばかりだったと思います。)
高杉晋作は“革命家”としての資質にすぐれた人物だったのでしょう。
わずか少数の挙兵が、怠慢な多数派を動かしました。
井上聞多、品川弥二郎らが次々合流、山県狂介もようやく重い腰をあげました。
こうして保守派政権が倒され、長州藩の藩論は倒幕に統一され、近代化による攘夷、という「現実的尊王攘夷」に体質改善されました。
さて、諸外国です。
四国連合艦隊による下関攻撃を成功させると、当然、長州藩に賠償金を要求しました。
しかし、ここは長州藩は巧みな外交を展開します(ちなみにこの外交交渉を担当したのも高杉晋作です)。
攘夷は幕府の命令によるものである。
なるほど確かに… 1863年5月10日を期日にして諸藩に攘夷を命じたのは幕府です。
“契約”や“法の論理”を重視する欧米では、こういうリクツはわかりやすいものです。
諸外国は幕府に賠償金を要求することにしました。
もちろん、これは「次」のための「たてまえ」です。
わざと肩をぶつけて相手を怒らせ、なぐりかかってきたところで圧倒的な力でその腕をねじあげて屈服させる…
帝国主義諸国の常套手段です。
1865年、幕府に賠償金を求める、という形で艦隊を派遣、朝廷にも圧力をかける意味もあって艦隊は兵庫沖に停泊させました。
威力をおそれた朝廷は、ただちに通商条約に“勅許”を与えることになり、さらに翌年、幕府は、
「改税約書」
に調印させられ、約20%であった関税率を、大幅に引き下げられ(5%)、自由貿易をさらに進めることを認めることになったのです。
日本の「第二の開国」でした。
イギリス公使パークスは、このころから幕府の無能を認識するようになり、天皇と薩摩藩などの近代的諸侯による近代国家の建設を考えるようになりました。
薩摩藩では、薩英戦争後にイギリスとの友好関係を深め、西郷隆盛・大久保利通ら下級武士の改革派が主導権を握り、公武合体から倒幕へと堅実な路線転換を図ろうとしていきました。
これに対してフランス公使ロッシュは、幕府そのものを近代化させることを企画し、財政的・軍事的援助を増強していくことになります。
(次回に続く)
京都を支配する尊王攘夷の空気…
公家との関係が深く天皇から信頼の高い薩摩藩に、穏健派の貴族、公武合体派の貴族たちから、「過激な現在の尊王攘夷は、おそれおおくも天皇の御身にも危険をおよぼす危険性がある」という話が伝えられるようになりました。
孝明天皇を擁して尊王攘夷運動を志操していたのは三条実美中心とする貴族たちでしたが、このころには孝明天皇は、朝廷自らが中心となって攘夷を実行していこうとする長州藩の考え方に否定的になっておられたようで、あくまでも幕府に攘夷をさせていく(そのためには公武合体がのぞましい)、という考え方に変わっていたようです。
薩摩藩は会津藩と協力し、中川宮朝彦親王を擁立、親王に孝明天皇を説得させ、同時に京都守護職の松平容保が兵1500人を動員しました。
秘事は真夜中に進行します。
近衛忠煕、二条有敬ら公武合体派の貴族が参内、会津藩兵および150名の薩摩藩兵が御所の宮門を固めます。
そうして在京の諸藩の藩主に参内が命じられ、同時に三条実美らの貴族は屋敷から出ることを禁じられ(実質上の軟禁)ます。
クーデターは成功しました。
三条実美に尊王攘夷派貴族の追放、長州藩主毛利敬親らの処罰が決められ、長州藩は京都警備の任を解かれました。
これが八月十八日の政変です。
長州藩は、三条実美ら七人の貴族とともに京都から追われ(七卿落ち)、一部長州藩士たちは京都やその周辺に潜伏し、アンダーグラウンドに活動することになります。
10月には薩摩の島津久光がさらに兵を率いて京都に入り、松平慶永・山内豊信・一橋慶喜・伊達宗城・松平容保ら公武合体派の諸大名が集まる(参預会議の成立)ことになります。
さらに、京都に潜伏する過激派を一掃する活動も開始されます。
この過激派の捕縛、取締と治安維持の任にあたったのが京都見廻役や新選組です。
文久四年(1864年)、池田屋事件が起こりました。
テロ活動を計画していたとして、長州藩士ら過激派(一部土佐藩士も含む)が新選組によって殺害・捕縛されたのです。
この事件は長州藩内を沸騰させました。
火薬の爆発には、信管が必要である、とは前にも申しました。
八月十八日の政変に対する長州藩の不満は、池田屋事件によっていっきに起爆されました。
むろん長州藩内の意見は、“朝敵”とされた藩主の汚名をすすぐ、ということは共通目標でしたが、外交による解決を進めようとする慎重論と、軍事力にうったえて解決しようとする積極論に分かれます。
前者は久坂玄瑞・高杉晋作・桂小五郎、後者は来島又兵衛・真木保臣でした。
福原・益田・国司の三家老は、積極論を支持、兵を京都にのぼらせることになったのです。
慎重派の久坂玄瑞は、あえて京都派兵軍の指揮官の一人となります。
「自分が行って暴走を止める」と決意しての同行だったかもしれません。また威力交渉、ということも必要であると考えていたようで、あくまでも「外交」の手段としての軍事力行使、というつもりでした。
長州軍は三つに分かれて京都をうかがいます。
一隊は天王山、一隊は嵯峨天龍寺、そしたまた一隊は伏見…
久坂玄瑞は、朝廷に手紙を送り、長州藩の免罪をうったえました。「あくまでも交渉が優先。それまだおのおの手出しは無用」と自制を促しつつ、交渉を開始しました。
朝廷側でも意見は分かれます。反幕府の意識が強い有栖川宮熾仁親王らは、長州藩に同情的でしたが、孝明天皇は会津藩に大きな信頼をよせており、また一橋慶喜は「兵を率いて天皇をおどすような長州は信用できません。」と天皇を説得しました。
外交に“威力”はやはり必要です。
交渉前半では、朝廷内では長州藩に寛大な措置を求める声が多かったのですが、薩摩藩からの援軍が到着すると、空気は一変します。中立の貴族たちはのきなみ、長州掃討に賛成するようになったといいます。
孝明天皇は長州藩兵に、撤兵するように命じられました。
久坂玄瑞は「やむをえないからここはいったん引き上げよう」と真木、来島を説得しますが入れられず、やむなく(ひきずられるような形で)京都攻撃に参加しざるをえない状況となってしまいました。
二千の兵でなんとする
敵は二万におよぶではないか…
主戦論を唱えた来島隊が、突出して攻撃を開始してしまいました。
久坂隊、真木隊との同時攻撃がのぞましかったのですが、来島隊の攻撃により、各個撃破されてしまうような攻め方になってしまいます。
久坂玄瑞は、戦闘状態となっても長州派と考えられていた貴族の屋敷(鷹司輔煕邸)に出向き、天皇への嘆願をなおも願い出ましたが、長州と関わるのは迷惑、とばかり拒絶されてしまいました…
久坂玄瑞はやむなく鷹司邸にて自害します… 25才の波乱に満ちた人生を閉じました。
(次回に続く)
公家との関係が深く天皇から信頼の高い薩摩藩に、穏健派の貴族、公武合体派の貴族たちから、「過激な現在の尊王攘夷は、おそれおおくも天皇の御身にも危険をおよぼす危険性がある」という話が伝えられるようになりました。
孝明天皇を擁して尊王攘夷運動を志操していたのは三条実美中心とする貴族たちでしたが、このころには孝明天皇は、朝廷自らが中心となって攘夷を実行していこうとする長州藩の考え方に否定的になっておられたようで、あくまでも幕府に攘夷をさせていく(そのためには公武合体がのぞましい)、という考え方に変わっていたようです。
薩摩藩は会津藩と協力し、中川宮朝彦親王を擁立、親王に孝明天皇を説得させ、同時に京都守護職の松平容保が兵1500人を動員しました。
秘事は真夜中に進行します。
近衛忠煕、二条有敬ら公武合体派の貴族が参内、会津藩兵および150名の薩摩藩兵が御所の宮門を固めます。
そうして在京の諸藩の藩主に参内が命じられ、同時に三条実美らの貴族は屋敷から出ることを禁じられ(実質上の軟禁)ます。
クーデターは成功しました。
三条実美に尊王攘夷派貴族の追放、長州藩主毛利敬親らの処罰が決められ、長州藩は京都警備の任を解かれました。
これが八月十八日の政変です。
長州藩は、三条実美ら七人の貴族とともに京都から追われ(七卿落ち)、一部長州藩士たちは京都やその周辺に潜伏し、アンダーグラウンドに活動することになります。
10月には薩摩の島津久光がさらに兵を率いて京都に入り、松平慶永・山内豊信・一橋慶喜・伊達宗城・松平容保ら公武合体派の諸大名が集まる(参預会議の成立)ことになります。
さらに、京都に潜伏する過激派を一掃する活動も開始されます。
この過激派の捕縛、取締と治安維持の任にあたったのが京都見廻役や新選組です。
文久四年(1864年)、池田屋事件が起こりました。
テロ活動を計画していたとして、長州藩士ら過激派(一部土佐藩士も含む)が新選組によって殺害・捕縛されたのです。
この事件は長州藩内を沸騰させました。
火薬の爆発には、信管が必要である、とは前にも申しました。
八月十八日の政変に対する長州藩の不満は、池田屋事件によっていっきに起爆されました。
むろん長州藩内の意見は、“朝敵”とされた藩主の汚名をすすぐ、ということは共通目標でしたが、外交による解決を進めようとする慎重論と、軍事力にうったえて解決しようとする積極論に分かれます。
前者は久坂玄瑞・高杉晋作・桂小五郎、後者は来島又兵衛・真木保臣でした。
福原・益田・国司の三家老は、積極論を支持、兵を京都にのぼらせることになったのです。
慎重派の久坂玄瑞は、あえて京都派兵軍の指揮官の一人となります。
「自分が行って暴走を止める」と決意しての同行だったかもしれません。また威力交渉、ということも必要であると考えていたようで、あくまでも「外交」の手段としての軍事力行使、というつもりでした。
長州軍は三つに分かれて京都をうかがいます。
一隊は天王山、一隊は嵯峨天龍寺、そしたまた一隊は伏見…
久坂玄瑞は、朝廷に手紙を送り、長州藩の免罪をうったえました。「あくまでも交渉が優先。それまだおのおの手出しは無用」と自制を促しつつ、交渉を開始しました。
朝廷側でも意見は分かれます。反幕府の意識が強い有栖川宮熾仁親王らは、長州藩に同情的でしたが、孝明天皇は会津藩に大きな信頼をよせており、また一橋慶喜は「兵を率いて天皇をおどすような長州は信用できません。」と天皇を説得しました。
外交に“威力”はやはり必要です。
交渉前半では、朝廷内では長州藩に寛大な措置を求める声が多かったのですが、薩摩藩からの援軍が到着すると、空気は一変します。中立の貴族たちはのきなみ、長州掃討に賛成するようになったといいます。
孝明天皇は長州藩兵に、撤兵するように命じられました。
久坂玄瑞は「やむをえないからここはいったん引き上げよう」と真木、来島を説得しますが入れられず、やむなく(ひきずられるような形で)京都攻撃に参加しざるをえない状況となってしまいました。
二千の兵でなんとする
敵は二万におよぶではないか…
主戦論を唱えた来島隊が、突出して攻撃を開始してしまいました。
久坂隊、真木隊との同時攻撃がのぞましかったのですが、来島隊の攻撃により、各個撃破されてしまうような攻め方になってしまいます。
久坂玄瑞は、戦闘状態となっても長州派と考えられていた貴族の屋敷(鷹司輔煕邸)に出向き、天皇への嘆願をなおも願い出ましたが、長州と関わるのは迷惑、とばかり拒絶されてしまいました…
久坂玄瑞はやむなく鷹司邸にて自害します… 25才の波乱に満ちた人生を閉じました。
(次回に続く)
生麦事件の後、イギリスは幕府と交渉して賠償金10万ポンドを獲得しましたが、さらに薩摩藩に対して犯人の引き渡しと賠償金2万5000ポンドを要求します。
もちろん、「交渉」は軍事力をともなうもので、代理公使ニールは7隻の軍艦を率いて薩摩に向かいました。
イギリス側は、賠償金と犯人の引き渡し(責任者)を要求する文書を薩摩藩につきつけました。
(ちなみに、この文書を翻訳したのはなんとあの、福沢諭吉だったんですよ。)
イギリス側は、「責任者」の引き渡しを、「実行犯」のつもりと考えて要求したのですが、英語の翻訳のむずかしさもあり、薩摩側は「責任者」を拡大解釈して、「藩主あるいは島津久光の引き渡しを要求しているのか?」と考えてしまい、態度を硬化させてしまいます。
薩摩藩士たちは、維新後の回顧などを読むと、このとき、なかなかおもしろい行動をとろうとしたようです。
使者になりすましてイギリス船に行って艦長ならびに代理公使を殺害してやろう、と、考えた者がいたり、果ては彼らは洋上で喉が渇いているだろうからスイカを売りに行くふりをして奇襲攻撃をかけてやろうと考えたりした者もいたようです。
で、実際に、スイカ売りに変装してイギリス艦隊に近づいた者たちがいましたが、“スイカ売り”たちはもちろん艦船に乗り込むどころか、追い返されてしまいました。
この“スイカ売り”たちが、後の日本の陸海軍の重鎮となる海江田正義や大山巌、二代総理大臣黒田清隆だったといいますから、なんとも滑稽な話です。(むろん維新後の宴会での酒飲み自慢話の類で実話かどうかはハッキリとはしませんが、少なくとも記録には残っている話です。)
7月1日、イギリスは最後通告を出し、薩摩側も戦闘態勢を整えます。そうして翌日、イギリス艦隊が薩摩の商船を拿捕したことをきっかけに、薩摩の砲台が火を吹きました。
イギリス艦隊の兵士たちは、代理公使から出撃を依頼されたものの、単なる威嚇行為に終わると考えていて、あまり戦意は高くなかったようで、実際に薩摩側からの数百発におよぶ砲撃にかなり驚いたようです。
洋上の天候が悪かったことも薩摩側には幸いしました。
イギリス艦隊は操艦に苦慮し、正確な砲撃ができずに苦戦します。それでもイギリスの艦砲射撃は鹿児島市内を火の海にし、薩摩の工場なども破壊することに成功しました。
砲撃戦の中、イギリス艦隊の旗艦に薩摩の砲弾がみごに命中、艦長が死亡、代理公使も負傷したため、イギリスはいったん攻撃を中止し、沖合に停泊します。
再度攻撃に出たイギリス艦隊は、鹿児島市街を再度攻撃したものの、弾薬・燃料がほとんど尽き、戦闘継続が不可能になり、7月4日、撤退を開始しました。
ニューヨークタイムズは、この事件を大々的にとりあげます。
「世界最強と謳われたイギリス海軍の敗北」
「日本は侮るべきではない」
「戦争によって日本を屈服させることは難しい」
イギリスの敗北、というのは、アメリカやフランスなどの後発先進国にとってはなかなか「うれしい」ニュースであり、また、イギリスによる対中国貿易独占の打破と自由貿易の拡大をめざすアメリカにとっては、「利用できる」事件となりました。
イギリス議会でも、イギリス艦隊の失敗と、とくに「市民の暮らしている市街地を攻撃した」ことが激しく非難され、国際世論でも、生麦事件では「被害者」とされたイギリスの立場がすっかりかき消されてしまい、「大国の横暴」への非難が広がりました。
10月、薩摩とイギリスの間で講和が結ばれます。
薩摩側は、あっさりと賠償金2万5000ポンドの支払いをおこないを約束したものの、実行犯は探索しているものの「逃走中」であるとしました。(薩摩はしたたかで、この賠償金を幕府から「借りて」支払い、けっきょく幕府には返済せずに維新を迎えることになります。)
この薩英戦争での薩摩の能力と、講和における薩摩側の外交能力を高く評価したのが、後に公使となるパークスです。
薩摩は使える…
パークスは、フランスとは異なる日本の未来図を設計していくことになるのです。
(次回に続く)
もちろん、「交渉」は軍事力をともなうもので、代理公使ニールは7隻の軍艦を率いて薩摩に向かいました。
イギリス側は、賠償金と犯人の引き渡し(責任者)を要求する文書を薩摩藩につきつけました。
(ちなみに、この文書を翻訳したのはなんとあの、福沢諭吉だったんですよ。)
イギリス側は、「責任者」の引き渡しを、「実行犯」のつもりと考えて要求したのですが、英語の翻訳のむずかしさもあり、薩摩側は「責任者」を拡大解釈して、「藩主あるいは島津久光の引き渡しを要求しているのか?」と考えてしまい、態度を硬化させてしまいます。
薩摩藩士たちは、維新後の回顧などを読むと、このとき、なかなかおもしろい行動をとろうとしたようです。
使者になりすましてイギリス船に行って艦長ならびに代理公使を殺害してやろう、と、考えた者がいたり、果ては彼らは洋上で喉が渇いているだろうからスイカを売りに行くふりをして奇襲攻撃をかけてやろうと考えたりした者もいたようです。
で、実際に、スイカ売りに変装してイギリス艦隊に近づいた者たちがいましたが、“スイカ売り”たちはもちろん艦船に乗り込むどころか、追い返されてしまいました。
この“スイカ売り”たちが、後の日本の陸海軍の重鎮となる海江田正義や大山巌、二代総理大臣黒田清隆だったといいますから、なんとも滑稽な話です。(むろん維新後の宴会での酒飲み自慢話の類で実話かどうかはハッキリとはしませんが、少なくとも記録には残っている話です。)
7月1日、イギリスは最後通告を出し、薩摩側も戦闘態勢を整えます。そうして翌日、イギリス艦隊が薩摩の商船を拿捕したことをきっかけに、薩摩の砲台が火を吹きました。
イギリス艦隊の兵士たちは、代理公使から出撃を依頼されたものの、単なる威嚇行為に終わると考えていて、あまり戦意は高くなかったようで、実際に薩摩側からの数百発におよぶ砲撃にかなり驚いたようです。
洋上の天候が悪かったことも薩摩側には幸いしました。
イギリス艦隊は操艦に苦慮し、正確な砲撃ができずに苦戦します。それでもイギリスの艦砲射撃は鹿児島市内を火の海にし、薩摩の工場なども破壊することに成功しました。
砲撃戦の中、イギリス艦隊の旗艦に薩摩の砲弾がみごに命中、艦長が死亡、代理公使も負傷したため、イギリスはいったん攻撃を中止し、沖合に停泊します。
再度攻撃に出たイギリス艦隊は、鹿児島市街を再度攻撃したものの、弾薬・燃料がほとんど尽き、戦闘継続が不可能になり、7月4日、撤退を開始しました。
ニューヨークタイムズは、この事件を大々的にとりあげます。
「世界最強と謳われたイギリス海軍の敗北」
「日本は侮るべきではない」
「戦争によって日本を屈服させることは難しい」
イギリスの敗北、というのは、アメリカやフランスなどの後発先進国にとってはなかなか「うれしい」ニュースであり、また、イギリスによる対中国貿易独占の打破と自由貿易の拡大をめざすアメリカにとっては、「利用できる」事件となりました。
イギリス議会でも、イギリス艦隊の失敗と、とくに「市民の暮らしている市街地を攻撃した」ことが激しく非難され、国際世論でも、生麦事件では「被害者」とされたイギリスの立場がすっかりかき消されてしまい、「大国の横暴」への非難が広がりました。
10月、薩摩とイギリスの間で講和が結ばれます。
薩摩側は、あっさりと賠償金2万5000ポンドの支払いをおこないを約束したものの、実行犯は探索しているものの「逃走中」であるとしました。(薩摩はしたたかで、この賠償金を幕府から「借りて」支払い、けっきょく幕府には返済せずに維新を迎えることになります。)
この薩英戦争での薩摩の能力と、講和における薩摩側の外交能力を高く評価したのが、後に公使となるパークスです。
薩摩は使える…
パークスは、フランスとは異なる日本の未来図を設計していくことになるのです。
(次回に続く)
島津久光一行が訪れた京都は、一種“異様な”空気につつまれていました。
尊王攘夷
です。むろん、火薬は信管が無ければ爆発しないのですが、生麦事件がその信管となり、攘夷を決行しようではないか、という雰囲気ができあがってしまいました。
島津久光は「そのような京都に長居は無用である」と、さっさと京都を去っていきます。
一方、長州藩は、下級武士たちを中心に、急進派の公家たちと結んで尊王攘夷の空気をさらに煽り、将軍を上洛させて攘夷の決行を要求する、ということに持ち込みました。
上洛した以上、「応え」なくてはなりません。文久三年(1863年)五月十日に攘夷を実施するように諸藩に命じることになってしまいました。
むろん、先頭をきって攘夷を実行したのは長州藩です。
まず各国に無通告で馬関海峡を封鎖、海峡を通過する外国船を砲撃する、という行動に出ました。
長府の藩主毛利元周は、「え… ほんとにやるの…」と消極的でしたが、久坂玄瑞は攻撃を強く主張、実行にうつされることになりました。
砲台からの攻撃、と、思われがちですが、実際は長州の船、庚申丸と癸亥丸などの艦船からの砲撃も組み合わされていて、なかなかに戦術的な攻撃となりました。
最初の標的となったのはアメリカ商船。
商船ですから戦闘能力はありません。夜中でもあり、事情不明なまま攻撃を受けたこともあってアメリカ商船は逃走することになります。(非武装船の打ち払いはモリソン号以来のことでした。)
わははははっ 攘夷などかんたんだ!
と、長州藩士の意気が上がったかどうかはわかりませんが、この出来事は孝明天皇の知るところとなり、朝廷から「おほめの言葉」が長州藩に届けられました。
次の標的はフランス船。
砲台からの攻撃を受けるのですが、なんと数発が命中。
大きな被害を受けます。あわれなことに事情がわからなかった彼らは、ボートを出して“交渉”に向かうのですが、彼らは沿岸からの銃撃にあい交渉人は負傷、水兵4人が殺されてしまいました。
第三の標的はオランダ船。
さすがにこのときになると、各国は長州藩の“暴挙”を知るところとなっていましたが、何せオランダは鎖国中も幕府と通交のあった国です。「自分たちは攻撃されまい」という意識もあったためか、完全に油断しており、砲台とからの攻撃と癸亥丸からの攻撃を受けて死傷者と船体損壊の被害を出して逃走することになりました。
むろん諸外国は黙ってはいません。
六月になってまずアメリカが動きました。
南北戦争中のアメリカは、なかなか大規模な軍事力をアジアに動かすことができませんでしたが、たまたま南軍の軍艦を追撃して横浜に来港していた北軍の軍艦ワイオミング号が報復攻撃に出ます。
これは商船などではなく最新式の軍艦。下関砲台の射程外から下関港を砲撃、壬戊丸を撃沈します。さらに海戦におよび、庚申丸を撃沈、癸亥丸を大破させました。
これで長州艦隊は壊滅… あっけない敗北でした。
さらにフランスも報復に出ます。
フランス東洋艦隊が動き、軍艦2隻が派遣されました。艦砲射撃によって長州藩の砲台をことごとく破壊し、さらには陸戦隊を上陸させて砲台を占領、さらに民家を焼き払います。
しかし、この敗北は長州藩に“化学変化”をもたらしました。
まず欧米の近代的な軍事力を侮ってはならない、ということを知ります。
それまでは攘夷、という思想の熱病にうなされて多くの夢を見ていましたが、ちょっとまてよ、という現実認識に目覚めた、ということです。
それから、民家への攻撃があったことから、長州藩と外国の戦い、という枠組を越え、領民たちの中にもまた「自分たちも藩も同じだ」という認識(ナショナリズムの萌芽)が生まれました。
このことは、高杉晋作が、下級武士や農民・庶民から広く募兵する奇兵隊の組織へとつながっていくことになったのです。
(次回に続く)
尊王攘夷
です。むろん、火薬は信管が無ければ爆発しないのですが、生麦事件がその信管となり、攘夷を決行しようではないか、という雰囲気ができあがってしまいました。
島津久光は「そのような京都に長居は無用である」と、さっさと京都を去っていきます。
一方、長州藩は、下級武士たちを中心に、急進派の公家たちと結んで尊王攘夷の空気をさらに煽り、将軍を上洛させて攘夷の決行を要求する、ということに持ち込みました。
上洛した以上、「応え」なくてはなりません。文久三年(1863年)五月十日に攘夷を実施するように諸藩に命じることになってしまいました。
むろん、先頭をきって攘夷を実行したのは長州藩です。
まず各国に無通告で馬関海峡を封鎖、海峡を通過する外国船を砲撃する、という行動に出ました。
長府の藩主毛利元周は、「え… ほんとにやるの…」と消極的でしたが、久坂玄瑞は攻撃を強く主張、実行にうつされることになりました。
砲台からの攻撃、と、思われがちですが、実際は長州の船、庚申丸と癸亥丸などの艦船からの砲撃も組み合わされていて、なかなかに戦術的な攻撃となりました。
最初の標的となったのはアメリカ商船。
商船ですから戦闘能力はありません。夜中でもあり、事情不明なまま攻撃を受けたこともあってアメリカ商船は逃走することになります。(非武装船の打ち払いはモリソン号以来のことでした。)
わははははっ 攘夷などかんたんだ!
と、長州藩士の意気が上がったかどうかはわかりませんが、この出来事は孝明天皇の知るところとなり、朝廷から「おほめの言葉」が長州藩に届けられました。
次の標的はフランス船。
砲台からの攻撃を受けるのですが、なんと数発が命中。
大きな被害を受けます。あわれなことに事情がわからなかった彼らは、ボートを出して“交渉”に向かうのですが、彼らは沿岸からの銃撃にあい交渉人は負傷、水兵4人が殺されてしまいました。
第三の標的はオランダ船。
さすがにこのときになると、各国は長州藩の“暴挙”を知るところとなっていましたが、何せオランダは鎖国中も幕府と通交のあった国です。「自分たちは攻撃されまい」という意識もあったためか、完全に油断しており、砲台とからの攻撃と癸亥丸からの攻撃を受けて死傷者と船体損壊の被害を出して逃走することになりました。
むろん諸外国は黙ってはいません。
六月になってまずアメリカが動きました。
南北戦争中のアメリカは、なかなか大規模な軍事力をアジアに動かすことができませんでしたが、たまたま南軍の軍艦を追撃して横浜に来港していた北軍の軍艦ワイオミング号が報復攻撃に出ます。
これは商船などではなく最新式の軍艦。下関砲台の射程外から下関港を砲撃、壬戊丸を撃沈します。さらに海戦におよび、庚申丸を撃沈、癸亥丸を大破させました。
これで長州艦隊は壊滅… あっけない敗北でした。
さらにフランスも報復に出ます。
フランス東洋艦隊が動き、軍艦2隻が派遣されました。艦砲射撃によって長州藩の砲台をことごとく破壊し、さらには陸戦隊を上陸させて砲台を占領、さらに民家を焼き払います。
しかし、この敗北は長州藩に“化学変化”をもたらしました。
まず欧米の近代的な軍事力を侮ってはならない、ということを知ります。
それまでは攘夷、という思想の熱病にうなされて多くの夢を見ていましたが、ちょっとまてよ、という現実認識に目覚めた、ということです。
それから、民家への攻撃があったことから、長州藩と外国の戦い、という枠組を越え、領民たちの中にもまた「自分たちも藩も同じだ」という認識(ナショナリズムの萌芽)が生まれました。
このことは、高杉晋作が、下級武士や農民・庶民から広く募兵する奇兵隊の組織へとつながっていくことになったのです。
(次回に続く)
独自の「公武合体」を企画していた薩摩藩に対して長州藩は、下級藩士たちを中心とする尊王攘夷論をますます先鋭化させていきました。
おっとその前に。
重大な事件のことを説明しておかなくてはいけません。
それは、文久の改革をおこなわせた島津久光が薩摩への帰る途中のことでした。
現在の神奈川県に、当時に生麦村というところがありました。そこで“事件”が起こります。
当時の史料(アーネスト=サトウの日記・生麦村の農民の訴状・神奈川奉行所の記録)を読み返すと、騎馬のイギリス人が島津久光の行列(といっても通常の大名行列ではなく、幕府にせまるために率いていた藩兵でしたからかなりの武装行列であったと考えられます)に無礼をはたらいた、ということになっています。
行列に騎馬のイギリス人4人が遭遇する。
先頭の藩士たちは、彼らに「下馬した上、道の脇によけよ」と命じた。
しかし、日本語が通じない。
ここでは馬から降りることがポイントで、実際、下馬して行列に道を譲れば、大名行列に対する礼の慣習上は何も問題はなかったのです。ところが…
彼らは、行列の横を通過せよ、と、勘違いしたようで、騎馬のまま行列の横を通過しようとしました。
ところが、道幅がせまく(というより通常の行列とは違い武装した400人の隊列だったため)、騎馬の4人は行列の進行とは逆に行列の中を騎馬のまま進んでいくことになってしまいました。
島津久光の駕籠に近づいていく。
行列もしだいに混乱する。
駕籠周辺には供回りの武士たちがいる。
彼らは親衛隊で、藩主あるいはそれ相当の人物の警固のためなら上役の指示なく行動ができる者たちでした。
「下馬しろ!」
「馬から降りるのだ、無礼者め!」
しかし、4人は日本語が通じない…
4人は「引き返せ」と言われたと判断し、騎馬のまま反転しようとする。
これが行列をさらに乱して混乱させてしまうとになる…
こうして4人は薩摩藩士たちに切られることになります。
4人のうち3人は男性で、女性はほぼ無傷で居留地に逃げ帰り、救援をもとめました。
男性のうち1人は殺害されました。
居留地からはすぐに医師が急行し、その後を追うように騎馬警護隊が出動します。
居留地の人々はただちに報復することをうったえ、各国の公使たちも、島津久光を捕虜にせよ、と、当初かなり過剰な反応を示していたようです。
イギリス代理公使ニールはこのことで戦争に発展するような事態にならないよう、冷静に対処し、居留地の住民に軽挙妄動を慎むようにうったえ、幕府との外交交渉によって解決しようとする現実的対応を選択しました。
後にイギリスは、幕府に対して賠償金10万ポンドを要求、薩摩藩は幕府の統制外の“諸侯”であるので別に対応する(薩摩に軍を派遣して犯人引き渡しと賠償金2万5000ポンドを要求することを決定)ということになります。
この薩摩藩の“行列”には、後の大久保利通もいて、彼も記録を残しています。
それによると、居留地からの“反撃”を想定して偵察を出し、宿泊予定地を変更したようです。
さらには、ぬけぬけと、「どこからともなく現れた浪人風の武士たちが、騎馬のイギリス人に切りかかり、どこへともなく去って行った」と神奈川奉行所には報告しました(後に足軽が切りかかった「ようだ」と報告を変更)。
“薩摩の攘夷”は、東海道沿線では有名となり、民衆たちは喝采したといいますから、開港後の混乱と外国人に対する不満は民衆レベルでも広がっていたとも言えます。
そして朝廷の動きもまた異例でした。
島津久光は、以外と思われるかもしれませんが、薩摩藩主の“父”という立場以外、位も無ければ官も無い存在でした。
その無位無官の島津久光が朝廷に参内し、孝明天皇自ら彼に会って「労をねぎらった」というから破格の歓迎としか言いようがありません。
後に薩摩藩は無謀な尊王攘夷を忌み嫌うことになるのですが、皮肉にも、京都で尊王攘夷の思想を沸騰させたのは、島津久光一行のしでかした「生麦事件」であったのです。
(次回に続く)
おっとその前に。
重大な事件のことを説明しておかなくてはいけません。
それは、文久の改革をおこなわせた島津久光が薩摩への帰る途中のことでした。
現在の神奈川県に、当時に生麦村というところがありました。そこで“事件”が起こります。
当時の史料(アーネスト=サトウの日記・生麦村の農民の訴状・神奈川奉行所の記録)を読み返すと、騎馬のイギリス人が島津久光の行列(といっても通常の大名行列ではなく、幕府にせまるために率いていた藩兵でしたからかなりの武装行列であったと考えられます)に無礼をはたらいた、ということになっています。
行列に騎馬のイギリス人4人が遭遇する。
先頭の藩士たちは、彼らに「下馬した上、道の脇によけよ」と命じた。
しかし、日本語が通じない。
ここでは馬から降りることがポイントで、実際、下馬して行列に道を譲れば、大名行列に対する礼の慣習上は何も問題はなかったのです。ところが…
彼らは、行列の横を通過せよ、と、勘違いしたようで、騎馬のまま行列の横を通過しようとしました。
ところが、道幅がせまく(というより通常の行列とは違い武装した400人の隊列だったため)、騎馬の4人は行列の進行とは逆に行列の中を騎馬のまま進んでいくことになってしまいました。
島津久光の駕籠に近づいていく。
行列もしだいに混乱する。
駕籠周辺には供回りの武士たちがいる。
彼らは親衛隊で、藩主あるいはそれ相当の人物の警固のためなら上役の指示なく行動ができる者たちでした。
「下馬しろ!」
「馬から降りるのだ、無礼者め!」
しかし、4人は日本語が通じない…
4人は「引き返せ」と言われたと判断し、騎馬のまま反転しようとする。
これが行列をさらに乱して混乱させてしまうとになる…
こうして4人は薩摩藩士たちに切られることになります。
4人のうち3人は男性で、女性はほぼ無傷で居留地に逃げ帰り、救援をもとめました。
男性のうち1人は殺害されました。
居留地からはすぐに医師が急行し、その後を追うように騎馬警護隊が出動します。
居留地の人々はただちに報復することをうったえ、各国の公使たちも、島津久光を捕虜にせよ、と、当初かなり過剰な反応を示していたようです。
イギリス代理公使ニールはこのことで戦争に発展するような事態にならないよう、冷静に対処し、居留地の住民に軽挙妄動を慎むようにうったえ、幕府との外交交渉によって解決しようとする現実的対応を選択しました。
後にイギリスは、幕府に対して賠償金10万ポンドを要求、薩摩藩は幕府の統制外の“諸侯”であるので別に対応する(薩摩に軍を派遣して犯人引き渡しと賠償金2万5000ポンドを要求することを決定)ということになります。
この薩摩藩の“行列”には、後の大久保利通もいて、彼も記録を残しています。
それによると、居留地からの“反撃”を想定して偵察を出し、宿泊予定地を変更したようです。
さらには、ぬけぬけと、「どこからともなく現れた浪人風の武士たちが、騎馬のイギリス人に切りかかり、どこへともなく去って行った」と神奈川奉行所には報告しました(後に足軽が切りかかった「ようだ」と報告を変更)。
“薩摩の攘夷”は、東海道沿線では有名となり、民衆たちは喝采したといいますから、開港後の混乱と外国人に対する不満は民衆レベルでも広がっていたとも言えます。
そして朝廷の動きもまた異例でした。
島津久光は、以外と思われるかもしれませんが、薩摩藩主の“父”という立場以外、位も無ければ官も無い存在でした。
その無位無官の島津久光が朝廷に参内し、孝明天皇自ら彼に会って「労をねぎらった」というから破格の歓迎としか言いようがありません。
後に薩摩藩は無謀な尊王攘夷を忌み嫌うことになるのですが、皮肉にも、京都で尊王攘夷の思想を沸騰させたのは、島津久光一行のしでかした「生麦事件」であったのです。
(次回に続く)