幕末史(6)下関事件 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

島津久光一行が訪れた京都は、一種“異様な”空気につつまれていました。

 尊王攘夷

です。むろん、火薬は信管が無ければ爆発しないのですが、生麦事件がその信管となり、攘夷を決行しようではないか、という雰囲気ができあがってしまいました。
島津久光は「そのような京都に長居は無用である」と、さっさと京都を去っていきます。

一方、長州藩は、下級武士たちを中心に、急進派の公家たちと結んで尊王攘夷の空気をさらに煽り、将軍を上洛させて攘夷の決行を要求する、ということに持ち込みました。

上洛した以上、「応え」なくてはなりません。文久三年(1863年)五月十日に攘夷を実施するように諸藩に命じることになってしまいました。

むろん、先頭をきって攘夷を実行したのは長州藩です。
まず各国に無通告で馬関海峡を封鎖、海峡を通過する外国船を砲撃する、という行動に出ました。

長府の藩主毛利元周は、「え… ほんとにやるの…」と消極的でしたが、久坂玄瑞は攻撃を強く主張、実行にうつされることになりました。
砲台からの攻撃、と、思われがちですが、実際は長州の船、庚申丸と癸亥丸などの艦船からの砲撃も組み合わされていて、なかなかに戦術的な攻撃となりました。
最初の標的となったのはアメリカ商船。

商船ですから戦闘能力はありません。夜中でもあり、事情不明なまま攻撃を受けたこともあってアメリカ商船は逃走することになります。(非武装船の打ち払いはモリソン号以来のことでした。)

 わははははっ 攘夷などかんたんだ!

と、長州藩士の意気が上がったかどうかはわかりませんが、この出来事は孝明天皇の知るところとなり、朝廷から「おほめの言葉」が長州藩に届けられました。

次の標的はフランス船。
砲台からの攻撃を受けるのですが、なんと数発が命中。
大きな被害を受けます。あわれなことに事情がわからなかった彼らは、ボートを出して“交渉”に向かうのですが、彼らは沿岸からの銃撃にあい交渉人は負傷、水兵4人が殺されてしまいました。

第三の標的はオランダ船。
さすがにこのときになると、各国は長州藩の“暴挙”を知るところとなっていましたが、何せオランダは鎖国中も幕府と通交のあった国です。「自分たちは攻撃されまい」という意識もあったためか、完全に油断しており、砲台とからの攻撃と癸亥丸からの攻撃を受けて死傷者と船体損壊の被害を出して逃走することになりました。

むろん諸外国は黙ってはいません。

六月になってまずアメリカが動きました。
南北戦争中のアメリカは、なかなか大規模な軍事力をアジアに動かすことができませんでしたが、たまたま南軍の軍艦を追撃して横浜に来港していた北軍の軍艦ワイオミング号が報復攻撃に出ます。
これは商船などではなく最新式の軍艦。下関砲台の射程外から下関港を砲撃、壬戊丸を撃沈します。さらに海戦におよび、庚申丸を撃沈、癸亥丸を大破させました。

これで長州艦隊は壊滅… あっけない敗北でした。

さらにフランスも報復に出ます。
フランス東洋艦隊が動き、軍艦2隻が派遣されました。艦砲射撃によって長州藩の砲台をことごとく破壊し、さらには陸戦隊を上陸させて砲台を占領、さらに民家を焼き払います。

しかし、この敗北は長州藩に“化学変化”をもたらしました。
まず欧米の近代的な軍事力を侮ってはならない、ということを知ります。
それまでは攘夷、という思想の熱病にうなされて多くの夢を見ていましたが、ちょっとまてよ、という現実認識に目覚めた、ということです。

それから、民家への攻撃があったことから、長州藩と外国の戦い、という枠組を越え、領民たちの中にもまた「自分たちも藩も同じだ」という認識(ナショナリズムの萌芽)が生まれました。

このことは、高杉晋作が、下級武士や農民・庶民から広く募兵する奇兵隊の組織へとつながっていくことになったのです。

(次回に続く)