生麦事件の後、イギリスは幕府と交渉して賠償金10万ポンドを獲得しましたが、さらに薩摩藩に対して犯人の引き渡しと賠償金2万5000ポンドを要求します。
もちろん、「交渉」は軍事力をともなうもので、代理公使ニールは7隻の軍艦を率いて薩摩に向かいました。
イギリス側は、賠償金と犯人の引き渡し(責任者)を要求する文書を薩摩藩につきつけました。
(ちなみに、この文書を翻訳したのはなんとあの、福沢諭吉だったんですよ。)
イギリス側は、「責任者」の引き渡しを、「実行犯」のつもりと考えて要求したのですが、英語の翻訳のむずかしさもあり、薩摩側は「責任者」を拡大解釈して、「藩主あるいは島津久光の引き渡しを要求しているのか?」と考えてしまい、態度を硬化させてしまいます。
薩摩藩士たちは、維新後の回顧などを読むと、このとき、なかなかおもしろい行動をとろうとしたようです。
使者になりすましてイギリス船に行って艦長ならびに代理公使を殺害してやろう、と、考えた者がいたり、果ては彼らは洋上で喉が渇いているだろうからスイカを売りに行くふりをして奇襲攻撃をかけてやろうと考えたりした者もいたようです。
で、実際に、スイカ売りに変装してイギリス艦隊に近づいた者たちがいましたが、“スイカ売り”たちはもちろん艦船に乗り込むどころか、追い返されてしまいました。
この“スイカ売り”たちが、後の日本の陸海軍の重鎮となる海江田正義や大山巌、二代総理大臣黒田清隆だったといいますから、なんとも滑稽な話です。(むろん維新後の宴会での酒飲み自慢話の類で実話かどうかはハッキリとはしませんが、少なくとも記録には残っている話です。)
7月1日、イギリスは最後通告を出し、薩摩側も戦闘態勢を整えます。そうして翌日、イギリス艦隊が薩摩の商船を拿捕したことをきっかけに、薩摩の砲台が火を吹きました。
イギリス艦隊の兵士たちは、代理公使から出撃を依頼されたものの、単なる威嚇行為に終わると考えていて、あまり戦意は高くなかったようで、実際に薩摩側からの数百発におよぶ砲撃にかなり驚いたようです。
洋上の天候が悪かったことも薩摩側には幸いしました。
イギリス艦隊は操艦に苦慮し、正確な砲撃ができずに苦戦します。それでもイギリスの艦砲射撃は鹿児島市内を火の海にし、薩摩の工場なども破壊することに成功しました。
砲撃戦の中、イギリス艦隊の旗艦に薩摩の砲弾がみごに命中、艦長が死亡、代理公使も負傷したため、イギリスはいったん攻撃を中止し、沖合に停泊します。
再度攻撃に出たイギリス艦隊は、鹿児島市街を再度攻撃したものの、弾薬・燃料がほとんど尽き、戦闘継続が不可能になり、7月4日、撤退を開始しました。
ニューヨークタイムズは、この事件を大々的にとりあげます。
「世界最強と謳われたイギリス海軍の敗北」
「日本は侮るべきではない」
「戦争によって日本を屈服させることは難しい」
イギリスの敗北、というのは、アメリカやフランスなどの後発先進国にとってはなかなか「うれしい」ニュースであり、また、イギリスによる対中国貿易独占の打破と自由貿易の拡大をめざすアメリカにとっては、「利用できる」事件となりました。
イギリス議会でも、イギリス艦隊の失敗と、とくに「市民の暮らしている市街地を攻撃した」ことが激しく非難され、国際世論でも、生麦事件では「被害者」とされたイギリスの立場がすっかりかき消されてしまい、「大国の横暴」への非難が広がりました。
10月、薩摩とイギリスの間で講和が結ばれます。
薩摩側は、あっさりと賠償金2万5000ポンドの支払いをおこないを約束したものの、実行犯は探索しているものの「逃走中」であるとしました。(薩摩はしたたかで、この賠償金を幕府から「借りて」支払い、けっきょく幕府には返済せずに維新を迎えることになります。)
この薩英戦争での薩摩の能力と、講和における薩摩側の外交能力を高く評価したのが、後に公使となるパークスです。
薩摩は使える…
パークスは、フランスとは異なる日本の未来図を設計していくことになるのです。
(次回に続く)