幕末史(9)尊王攘夷から倒幕へ | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

禁門の変で長州藩が敗退すると、幕府はただちに諸藩を動員、「長州征伐」を実行します。

さて、現在、中学生や高校生のみなさんのお父さんやお母さんの世代ですと、「長州征伐」と習ったことだと思いますが、現在、教科書では

 長州征討

と記されるようになりました。

1864年は長州にとってはさんざんな一年となります。
池田屋事件、禁門の変、そして長州征討… イギリス・フランス・オランダ・イギリスの4ヶ国による長州攻撃がおこなわれました(四国連合艦隊下関砲撃事件)。

この事件、従来は1863年の長州藩による外国船砲撃の“報復”と説明されていたのですが、実際の経緯にズレがあるので細かく説明しておきますと…

1863年に長州藩が、アメリカやフランスの商船を攻撃した事件に対してはすでに述べたように“報復”はおこなわれています。
アメリカの軍艦によって長州艦隊は壊滅的打撃を受け、さらにフランスの陸戦隊は砲台を占領、破壊しました。
ですから、単純に、63年の報復が四ヶ国の連合艦隊による攻撃、と、説明してしまうと、ちょっと実際は違う、ということなんですよね。

教科書は「四国艦隊下関砲撃事件」を

「貿易のさまたげになる攘夷派に一撃を加える機会をねらっていた列国は、イギリスを中心にフランス・アメリカ・オランダ四国の連合艦隊を編成して下関砲台を攻撃した。」

と説明しています。

実は63年の下関事件は同年のうちに報復されていたのですが、長州藩はそれにちっとも懲りず、いっそう攘夷の意識を高め、その後も馬関海峡の“閉鎖”をずっと続けていたのです。

瀬戸内海に通じる、また日本海側と太平洋側を結ぶ海上ルートの閉鎖、それによる迂回は貿易の利益を大きく損なうものでした。
イギリスは、横浜での貿易量を順調に進めていたので、当初は長州による海峡封鎖を深刻には考えていなかったのですが、中国との交易や長崎での貿易量を拡大したいイギリス商人たちの要求と議会の圧力から、“危険な海峡”の安全確保、シーレーン防衛のために長州藩を無力化する必要が出てきました。

63年事件の“報復”が四国連合艦隊下関砲撃事件、と、安易に説明してはいけない、ということです。

さて、64年の下関事件ですが…

四ヶ国の連合艦隊は17隻、そう兵力は5000。イギリス艦が9隻でしたから主力はイギリスであったことがわかります。(ちなみにフランスが3、オランダが4、アメリカが1)

7月27日に横浜を出た艦隊が長州に着いたのが8月4日。

 これはヤバいぞ…

と、さすがにこの時期、長州藩も考えるようになりました(いやいや、ちょっと遅いでっせ~)。
ただちに海峡封鎖を解くことを決定し、“交渉”に入ることになりました。

この交渉に派遣されたのが伊藤俊輔と井上聞多(後の伊藤博文と井上馨)です。

実は、彼らはイギリスに留学していたのですが、四ヶ国の連合艦隊が長州を攻撃する、という情報を得て「これはマズいぞ!」と留学を停止し、大急ぎで6月に横浜に帰ってきました。
イギリス公使のオールコックに面会、

「われわれが必ず藩を説得するから攻撃を待ってほしい!」

と懇願しました。
オールコックはこれを認め、わざわざイギリスの軍艦を手配して二人を乗せ、豊後国(大分県)まで送り届けて藩を説得させました。

しかし、オールコックはすでに本国に長州を攻撃することを書簡で通告しており、帝国主義諸国お得意の“二枚舌”外交をおこなっていたことがわかります。

そして幕府に対してもオールコックは“おことわり”を入れており、海峡封鎖が解かれなければ長州を攻撃することを通達していました。
一方、フランスは“独自外交”を幕府と展開していて、幕府の「3ヶ月の猶予をほしい、そうすれば海峡封鎖を解かせるので。」という申し入れを受け入れていたのです。
オールコックは、フランスがひょっとすると参加しないのではないか、と、考えて、横浜にさらに軍艦1隻と1200人以上の兵を配備しました。(けっきょくフランスは参加することになります。)

表面的には協力するも、水面下では激しい外交戦が展開される…
帝国主義諸国のしたたかさに比べ、当時の日本はなんと単純なことだったか… 外交に関しては赤子の手をねじるようなもんだったと思います。

さて、伊藤俊輔は、漁船をチャーターして艦隊を説得に行きますが、あっけなく拒否されてしまいます。
「いや、われわれは海峡封鎖を解くし、戦うつもりもない。おのおの方が長州を攻撃する理由は無いはずだっ」と力説しますが受け入れられませんでした。

6月5日、艦隊の砲門が一斉に火を吹き、わずか1日で長州の砲120門のうち60門が奪われて無力化され、8日は残り全ての砲台が破壊されました。
陸戦隊も上陸し、長州藩は迎撃しましたが、旧式銃と弓矢でしか抗戦できず、新型ライフルを装備した外国兵の敵ではありませんでした。

さて、ドラマなどでは、刀や槍を手にした長州兵がいどみかかる、という映像が使用されますが、これはちょっと間違いです。
イギリス側にはこのときの戦いの記録や医師による治療の記録が残っていて、イギリス側の兵士たちの傷はすべて鉄砲と弓矢の傷で、刀や槍を用いた白兵戦ではなかったことがわかります。
テレビや映画の演出としては、「近代的な外国軍」「時代遅れの長州兵」というイメージをつくりたいので、刀を抜いて突撃する場面となる所ところですが、装備が旧式なだけで、長州も西洋式の戦い方をしていたようです。

長州征討、四国連合艦隊下関砲撃事件を受けて長州藩は、藩内の尊王攘夷派を処罰し(三人の家老の切腹)、幕府に対して徹底的な恭順の意をあらわしました。
けっきょく、このことが「功を奏して」、幕府は長州征討の軍は送ったものの戦闘せずに引き上げることになりました。

64年から65年にかけての長州藩では、短期間にいっきょに体質改善が図られます。

尊王攘夷派政権→(禁門の変・下関戦争・長州征討)→保守派政権

そしてさらに64年12月。
幕府に恭順し、尊王攘夷派を弾圧していた保守派政権は、わずか1ヶ月で転覆させられます。

高杉晋作が有志を率いてクーデターを起こしたのです(功山寺挙兵)。

挙兵はわずか伊藤俊輔ら80数人。
大部分の諸隊は動かず…
山県狂介(後の山県有朋)にいたっては、高杉晋作に挙兵を思い止まるように説得した上、完全に日和見状態を保ちました。

“革命”というのは、圧倒的少数による起爆で起こるのが常です。

保守派政権に不満を持っていても、実際、いざ行動となると色々リクツをつけて動かないのが人というもの…
(ピューリタン革命のアイアンサイドも、アメリカ独立のパトリオットも、ロシア革命のボリシェヴィキも、すべて少数派で、あの時に「多数決」をとっていたならすべて否決された軍事行動ばかりだったと思います。)

高杉晋作は“革命家”としての資質にすぐれた人物だったのでしょう。
わずか少数の挙兵が、怠慢な多数派を動かしました。

井上聞多、品川弥二郎らが次々合流、山県狂介もようやく重い腰をあげました。

こうして保守派政権が倒され、長州藩の藩論は倒幕に統一され、近代化による攘夷、という「現実的尊王攘夷」に体質改善されました。

さて、諸外国です。

四国連合艦隊による下関攻撃を成功させると、当然、長州藩に賠償金を要求しました。
しかし、ここは長州藩は巧みな外交を展開します(ちなみにこの外交交渉を担当したのも高杉晋作です)。

 攘夷は幕府の命令によるものである。

なるほど確かに… 1863年5月10日を期日にして諸藩に攘夷を命じたのは幕府です。

“契約”や“法の論理”を重視する欧米では、こういうリクツはわかりやすいものです。
諸外国は幕府に賠償金を要求することにしました。

もちろん、これは「次」のための「たてまえ」です。

わざと肩をぶつけて相手を怒らせ、なぐりかかってきたところで圧倒的な力でその腕をねじあげて屈服させる…
帝国主義諸国の常套手段です。

1865年、幕府に賠償金を求める、という形で艦隊を派遣、朝廷にも圧力をかける意味もあって艦隊は兵庫沖に停泊させました。
威力をおそれた朝廷は、ただちに通商条約に“勅許”を与えることになり、さらに翌年、幕府は、

「改税約書」

に調印させられ、約20%であった関税率を、大幅に引き下げられ(5%)、自由貿易をさらに進めることを認めることになったのです。

日本の「第二の開国」でした。

イギリス公使パークスは、このころから幕府の無能を認識するようになり、天皇と薩摩藩などの近代的諸侯による近代国家の建設を考えるようになりました。

薩摩藩では、薩英戦争後にイギリスとの友好関係を深め、西郷隆盛・大久保利通ら下級武士の改革派が主導権を握り、公武合体から倒幕へと堅実な路線転換を図ろうとしていきました。

これに対してフランス公使ロッシュは、幕府そのものを近代化させることを企画し、財政的・軍事的援助を増強していくことになります。

(次回に続く)