幕府は、長州藩に対して、領地の削減を決定しました。
しかし、すでに述べたように、高杉晋作らの活躍で、長州藩は大きく変わっていました。
恭順を示した保守派の政権から、倒幕へと大きく舵をきっていた長州藩は、幕府の要求を拒否します。
さて、このころ、水面下で大きな“外交”が展開されていました。
それが「薩長同盟」です。
一般に、薩長同盟は1866年、土佐藩出身の坂本龍馬や中岡慎太郎らが仲介して軍事同盟、密約が結ばれた、と考えられています。
現在の研究では、これにはいくつかの“誤解”があり、「薩長同盟」は1866年より以前に、段階的にすでに進行していて、1866年の坂本龍馬の仲介によって成立したわけではない、というのが通説になりつつあります。
実際、教科書でもこのことが反映されていて、1866年の薩長同盟を説明する前に
「幕府は、長州藩に対して、第1次征討の始末として領地の削減などを命じたが、藩論を一変させた長州藩は容易に応じなかった。」
という説明に続いて
「そこで幕府はふたたび長州征討(第二次)を宣言したが、すでに開国進取に転じていた薩摩藩は、ひそかに長州藩を支持する態度をとった。」
と記され、そして、この後、薩長同盟が結ばれた、という流れで説明されています。
「薩長同盟」の前に、すでに薩長の同盟は成立していたんです。
(この点、詳しくは拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』をお読みください。「薩長同盟はなかった」というお話しをしています。)
1866年の薩長同盟は、別にそういう「文書」や「条約」が記録として残っているものではなく、桂小五郎に対して、坂本龍馬が「約束」の保障を裏書きしたものがあるだけで、小説やドラマでおなじみの、坂本龍馬が桂小五郎と西郷隆盛の間をとりもって成立した、というような性質のものではなかったのです。
「ひそかに長州藩を支持する態度」は1866年の「薩長同盟」よりも前から続いていて、とくに銃・米交換密約(長州の米を薩摩へ、薩摩の武器を長州へ)は1865年の段階で成立しています。
さて、幕府の第二次長州征討は“失敗”に終わります。
長州軍は各地で幕府軍を退け、さらに大坂城まで来ていた将軍家茂が病死してしまい、幕府は戦闘継続はできなくなってしまいました。
また、1866年末、
孝明天皇が崩御
されてしまいました。
「尊王攘夷」「公武合体」の指向が強く、会津藩や幕府に好意的だった孝明天皇の崩御は、幕府にとっては大きな痛手となったことは確かです。