幕末の人々の考え方、生活の様子などはいったいどうだったのでしょう。
幕末の歴史、というとついつい、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允のような“維新の三傑”や、坂本龍馬、高杉晋作などなどの人物の政治、というのをイメージしがちになります。
でも、大部分の歴史は「一般庶民」の生活であることも確かです。
当時の人口は約3300万人。
実は江戸時代は、人口の増減のほとんどない時代でした。鎌倉時代は1200万人でしたから、だいたい三倍近くにはなっていましたが、明治時代までほぼ同じ人口でした。
武士はそのうち7%。
84%が農民。6%が町人ということになります。
小説やドラマは、わずか7%ほどの人々の歴史、ということになっているわけです。
江戸の人口比率はちょっと違います。人口の半分は武士。残りは町人。
現在でもそうですが、地方と中央の人々の考え方はずいぶんと違うことは、人々がどういう生業についていたかで大きく変わることは想像がつくと思います。
同じ「黒船」の来航でも、江戸の人々が受けた感想と、農村部の人々の感想は大きく異なりました。
実際に見た人、噂だけ聞いた人…
都市部では、開国後、物価が上昇しました。
すでに説明しましたように、生糸や茶などの日用品が大量に輸出されると国内で品不足となり、それに連動して物価が2~7倍に上昇します。
当然開国への不満が高まった… と言いたいところですが、実は、この開国で「儲かった」人々も当然いました。
生糸や茶を扱う商人たちです。
横浜での交易で儲かる、と、計算した在郷商人たちは、港へいろいろな産品をもちこんで売りさばいていきました。
需要と供給の関係から、国内で売るよりも儲かることがわかっていれば、相手が異国の人だろうがなんだろうが売るのが商人というもの。
困ったのは、もともとの販路を持っていた江戸の商人たち。
幕府にうったえ出て、1860年、雑穀・水油・ロウ・呉服・生糸の五品は必ず江戸の問屋を経て輸出するように命じる命令を出させました(五品江戸廻送令)。
もちろん在郷商人は反対しますし(無視して商売を続ける)、諸外国も自由貿易を求めるところから、このような「保護貿易政策」はゆるすはずがありません。
結局、これらは効果を出すことはできませんでした。
江戸周辺で、養蚕などが活性化していく一方、機械織りの安価な綿製品が大量に輸入され、農村で発達していた手紡ぎや綿織物業は大打撃を受けます。
桑畑が増えていくのに対して綿花畑は次々と消えていきました。
河内や尾張の綿花畑はこのときに消滅していくことになります。
国学の思想は、けっこう農村部にも広がったんです。
ただ、人々がその思想の根幹を理解していたかどうかは別です。
開国によって自分たちの生活が変わってしまった…
島津久光が幕府に文久の改革を強いた後、帰国の途で「生麦事件」を起こすと、東海道沿線の人々は快哉して薩摩の行軍を迎えた、といいますから、攘夷、とまでもいかないまでも世論の大部分は開国反対であったことは確かです。
尊王攘夷は、すなわち不作や年貢に苦しむ貧農たちに「世直し」のための口実ともなりました。
各地で「世直し一揆」と称する農民の一揆が頻発するようになります。
長州征討のときなど、大坂や江戸では「打ちこわし」も起こっていて、幕府への不満(というか当時の生活状況への不満)というのが高まっていたことがよくわかります。
それから、教派神道、と呼ばれる民衆宗教が急速に普及していくのもこの時期です。
一揆にせよ打ちこわしにせよ宗教にせよ、人々のエネルギーは、不安をなんとかして解消したい、という方向に動くものです。
中山みきの天理教、黒住宗忠の黒住教、川手文治郎の金光教など、政局不安、険悪な世相から救われたい、という民衆の渇望を癒やすものとなっていきました。
また、「ええじゃないか」という奇態な民衆運動も拡大します。
空から伊勢神宮の御札が降ってきた!
と、人々が狂喜乱舞し、場合によっては打ちこわしなどにも発展した行動になりました。
町人レベルでは幕府の支配秩序は、一時的ではありましたが、かなり混乱させていくことになりました。
(次回に続く)