幕末史(12)大政奉還 前編 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

徳川家茂の死後、しばらく将軍不在となりました。

徳川慶喜は15代目の将軍にすぐに就いたわけではありません。
7月に家茂が死去、8月には徳川本家の主となったものの、将軍となったのは12月になってから…

小説やドラマでは、わざと将軍の位に就くことを拒んで「もったいをつけて」、つまりつまりは請われる形にして自分の立場を有利にしようとした、と、される演出が多いのですがこの四ヶ月の空白については、まったく謎なんです。
史料が残っていない…

もともと慶喜は、「開国」には反対で、とくに横浜港の鎖港をずっと主張してきました。
この時期は、開国なしに日本の存続を図れない、という現実的な考え方が広がっていました。

「おれ… 開国反対だったんだけどなぁ~ いまさら開国進める将軍になるってのもなぁ~ いや、もう開国しないわけにはいかないのはわかっているし、開国する気はあるんだけど… 今までおれ、横浜は鎖港だって言ってきたしなぁ…」

という、そういう気持ちの「ためらい」が就任に作用していた、というのもあったような気がします。

さて、あんがいと受験生などが知らないことを申しますと…

将軍徳川慶喜は、ほとんど江戸にいなかった、というのをご存知でしたか?

側室を公家からもらう計画を進めただけでなく、多くの家臣、幕府の役人を次々に京都・大坂に移動させています。
また、慶喜を関白あるいは摂政に任じて実際的な「公武合体」を実現しようとする計画も進められていたことが最近の研究でわかっています。
まじで江戸幕府が「大坂幕府」あるいは「二条幕府」になる可能性があったんです。
いや、実際そうなっていた、といっても過言ではありません。

「次の政権」樹立構想を進めていた可能性が高い…

実際、慶喜はフランス公使ロッシュから多額の資金援助を受け、製鉄所・造船所を建設、軍事改革もあわせて断行していきます。

その、「次の政権」を樹立する方策こそが…

(次回に続く)