こはにわ歴史堂のブログ -55ページ目

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

1865~66年にかけて、同盟関係を深めた薩摩と長州は、幕府を武力で討伐することを決定しました。
これに対して、前に述べたように、土佐藩(山内容堂・後藤象二郎)はあくまでも「公武合体」の立場をとり、大政奉還に持ち込んで、薩長が幕府を武力討伐する口実を無くしたうえで、政局の主導権をにぎり、徳川家を含む諸侯連合と朝廷による政治の実現を考えました。

慶喜は、二条城に諸藩の代表、重役などを呼び集め、大政奉還をおこなうことを宣言、1867年10月14日、大政奉還の上表を提出しました。

 しまった… こんな手に出たか…

と、桂小五郎、大久保利通、西郷隆盛、そして岩倉具視は思ったかどうかはわかりません。
しかし、倒幕派にとっては、不都合な展開であったことは確かです。

西郷、大久保の「企画」では、

薩長:幕府なんかやめてしまえ!
幕府:なにを! やめてたまるか!
薩長:だったら戦って滅ぼしてやる!
幕府:どっからでもかかってこいっ!

と、なるはずでした。
ところが、

薩長:幕府なんかやめてしまえ!
幕府:はい、そうします。
薩長:え… ちょ… あれ??

となってしまったわけです。

「幕府やめちゃうからさ、みんなで、新しい政治しようよ、ね? ほら、なんならぼくが最初、とりまとめるからさ。」 

という申し出がなされたようなもんです。

実際、大政奉還後の展開は、幕府・土佐藩のほぼ思うように展開します。

・大政奉還をみとめる
・諸侯を招集するまでは従来どおり、徳川慶喜に政務を任せる。
・将軍職もそのまま。

さらに10月23日には、外交権はしばらく幕府が行使するように、という命令まで出ます。
11月に入って、通商条約にあった懸案事項の江戸開市も新潟港開港延期、ロシアとの関税改定などは、大政奉還後に幕府がおこなったことなんですよ。

「諸侯を招集するまで徳川慶喜が政務をおこなう」

ということも、薩長にとっては都合の悪い展開になってきました。
朝廷が、諸藩に京都への招集を命じたにもかからず、ほとんどの藩が「様子見」をして動かなかったのです。
つまり、このまま諸侯が集まらなくては、延々と幕府による政治が続いていってしまう…

ところがところが、倒幕派もだまって座していたわけではありません。
「陰謀」はすでに大政奉還の上表が提出された日(10月14日)に始まっていました。

 玉(ぎょく)は倒幕派が握っていたのです。

1866年末に崩御された孝明天皇の後を継いでいたのは、15歳の少年、

 明治天皇

でした。岩倉具視は、明治天皇の近くに侍り、なんと

 「倒幕の密勅」

を天皇から引き出していたのです。
と、いうか… これ、ホンマに「密勅」で…

 天皇の本意は幕府の討伐にある

と岩倉は大久保、西郷に伝えたのですが、まぁ、言うてしまうと、「偽勅」の可能性も否定できないシロモノでした。
そもそも、このときの摂政は二条斉敬で、彼は徳川慶喜のいとこにあたる人物で、さらに長州ひいきの諸公家は、八月十八日の政変以来、京都にはおらず当然、朝廷の要職にもありませんでした。

コトは、12月8日夜、岩倉具視によって始められました…

(次回に続く)









「次の政権」を樹立する方策こそが

 大政奉還

だったんです。

中学受験を経験した子たちや小学校で習った大政奉還、というと、ついつい、幕府が政治にゆきづまり、もう無理だからやめちゃえ、という政権放棄と理解してしまい、よって幕府が滅亡した、というように考えがちです。

大政奉還とはそんなものではありません。

A・B・Cの三つの勢力があったとします。
そしてAとBがケンカしている…
とすると、「漁夫の利」という言葉があるように、AとBが争っていることを利用してCが両方を倒してしまう…

「そんなことをしていると、Cが利するだけだ! いろいろ思うところがあるだろうが、二人が手を組めばCを倒せるではないか!」

と、「誰か」が持ちかけたとしましょう。
AとBは手を組んでCを倒すことが可能になります。

「共通の敵ができると団結できる」の法則です。

A・Bが薩摩と長州、そしてCが幕府。そしてこの「誰か」が坂本龍馬…

 薩長同盟

の成立です。

ところが、さらにさらに、大きな枠組みを考えることも可能です。

A・BとCが争っているとこに、さらにDという存在が出てくる…

「そんなことをしていると、Dが利するだけだ! いろいろ思うところがあるだろうが、三人が手を組めばDを退けることができるではないか!」

と、「誰か」が持ちかけます。

A・Bが薩長、Cが幕府、そしてDが日本への進出を企図している諸外国…
そしてこの「誰か」がやはり坂本龍馬…

当時、イギリスやフランスが貿易の利益をもとめて日本に接近していました。
イギリスは薩摩や長州、フランスは幕府をそれぞれ後援します…

英仏は何も、ボランティアや親切でそれぞれ後援しているわけではありません。

外交とは、簡単に言えば自国の利益のためにウソをつくことです。
彼らの頭の中には、日本国内の混乱やそこから生まれる政治・経済状況をいかに自国の利益に結びつけるかしか考えていません。

「きみたちのためだ」「われわれは損得抜きで応援しているよ」

な~んてのはみんなウソです。

国内を早くにまとめて一つにならないと諸列強の餌食になってしまう… インドや中国、東南アジアのように…

これは尊王攘夷派のうち、開明的グループに共通する考え方でした。

ここで幕末の思潮の潮流が大きく二つに分かれました。

X:Dの後援のもと、A・Bが協力してCを倒し、近代的国家を築く。
Y:A・B・Cが連合して近代国家を築き、Dを退ける。

 大政奉還

とは(薩長同盟をステップ1だとすると)Yを実現するためのステップ2だったんです。

大きな枠がこうだとすると、もちろん小さな動きや考え方は様々です。

薩摩・長州が主導して幕府を倒してしまうと、幕末以来、国家の近代化を実現しようとしていたその他の藩(土佐・越前・尾張など)にしてみれば、おもしろいわけがない。

「政争」とは、どう改革するかの争いではなく、実は、誰がその改革をするかの争いなんです。
めざすことは同じであっても、誰がその担い手になるか、の争いです。

薩摩・長州による倒幕というXの思潮に対抗できる質と量をもった思想がほしかった…
そこにそれを提示してくれたのが坂本龍馬だったんです。Yの思潮に土佐藩は飛びつきました。

薩摩・長州から政局の主導権を奪うよい方法はないかと模索していたのが土佐藩の

後藤象二郎

です。

坂本龍馬が彼に示した「船中八策」そしてそれを実現するステップとしての「大政奉還」の案に後藤象二郎は感銘を受け、土佐藩の実質的オーナーの山内容堂にこれを提言しました。
容堂も「これだ!」と飛びつきます。

一方、江戸・大坂にすでに幕府機能を移転し、自ら摂政・関白も兼任して軍事改革を進め、近代的な工場などを次々建設していた徳川慶喜もまた、「これこそ新しい設計図だ」と飛びつきました。

いったん政権を天皇に返してしまう。
すると「幕府」を倒そうとしている薩摩・長州の「口実」は無くなってしまう。
政権を返しても徳川幕府は400万石の経済力を持つ大大名。
朝廷もいきなり政権を返されても担当能力は乏しい。
よって徳川を中心とする諸侯会議を開いて、新しい近代国家を建設できる。

坂本龍馬の「企画・提案」したと言われる「船中八策」は、簡単にまとめると

・大政奉還
・議会政治の実現
・人材登用
・不平等条約の改正
・憲法の制定
・海軍増強
・政府独自の軍隊の保有
・金銀交換レートの新設定

の8つです。

これ、よく考えると、X・Yどちらの方法でも実現できることですよね。
「この改革の実現をめざす」が、「これを実現するのはおれたちだ!」の争いが幕末の政争です。

徳川慶喜は、政権を朝廷に返上し、諸侯から構成される「議会」において議長あるいは後の総理大臣のような地位につき、近代化を進めてやる、と考えました。

 幕府の積極的解体

によって近代国家を建設する。

これが大政奉還の実相でした。

もちろん、薩摩と長州は、そうはさせるかっ と考えます。

(次回に続く)
徳川家茂の死後、しばらく将軍不在となりました。

徳川慶喜は15代目の将軍にすぐに就いたわけではありません。
7月に家茂が死去、8月には徳川本家の主となったものの、将軍となったのは12月になってから…

小説やドラマでは、わざと将軍の位に就くことを拒んで「もったいをつけて」、つまりつまりは請われる形にして自分の立場を有利にしようとした、と、される演出が多いのですがこの四ヶ月の空白については、まったく謎なんです。
史料が残っていない…

もともと慶喜は、「開国」には反対で、とくに横浜港の鎖港をずっと主張してきました。
この時期は、開国なしに日本の存続を図れない、という現実的な考え方が広がっていました。

「おれ… 開国反対だったんだけどなぁ~ いまさら開国進める将軍になるってのもなぁ~ いや、もう開国しないわけにはいかないのはわかっているし、開国する気はあるんだけど… 今までおれ、横浜は鎖港だって言ってきたしなぁ…」

という、そういう気持ちの「ためらい」が就任に作用していた、というのもあったような気がします。

さて、あんがいと受験生などが知らないことを申しますと…

将軍徳川慶喜は、ほとんど江戸にいなかった、というのをご存知でしたか?

側室を公家からもらう計画を進めただけでなく、多くの家臣、幕府の役人を次々に京都・大坂に移動させています。
また、慶喜を関白あるいは摂政に任じて実際的な「公武合体」を実現しようとする計画も進められていたことが最近の研究でわかっています。
まじで江戸幕府が「大坂幕府」あるいは「二条幕府」になる可能性があったんです。
いや、実際そうなっていた、といっても過言ではありません。

「次の政権」樹立構想を進めていた可能性が高い…

実際、慶喜はフランス公使ロッシュから多額の資金援助を受け、製鉄所・造船所を建設、軍事改革もあわせて断行していきます。

その、「次の政権」を樹立する方策こそが…

(次回に続く)
幕末の人々の考え方、生活の様子などはいったいどうだったのでしょう。

幕末の歴史、というとついつい、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允のような“維新の三傑”や、坂本龍馬、高杉晋作などなどの人物の政治、というのをイメージしがちになります。

でも、大部分の歴史は「一般庶民」の生活であることも確かです。

当時の人口は約3300万人。
実は江戸時代は、人口の増減のほとんどない時代でした。鎌倉時代は1200万人でしたから、だいたい三倍近くにはなっていましたが、明治時代までほぼ同じ人口でした。

武士はそのうち7%。
84%が農民。6%が町人ということになります。

小説やドラマは、わずか7%ほどの人々の歴史、ということになっているわけです。

江戸の人口比率はちょっと違います。人口の半分は武士。残りは町人。
現在でもそうですが、地方と中央の人々の考え方はずいぶんと違うことは、人々がどういう生業についていたかで大きく変わることは想像がつくと思います。

同じ「黒船」の来航でも、江戸の人々が受けた感想と、農村部の人々の感想は大きく異なりました。

実際に見た人、噂だけ聞いた人…

都市部では、開国後、物価が上昇しました。
すでに説明しましたように、生糸や茶などの日用品が大量に輸出されると国内で品不足となり、それに連動して物価が2~7倍に上昇します。

当然開国への不満が高まった… と言いたいところですが、実は、この開国で「儲かった」人々も当然いました。

生糸や茶を扱う商人たちです。
横浜での交易で儲かる、と、計算した在郷商人たちは、港へいろいろな産品をもちこんで売りさばいていきました。

需要と供給の関係から、国内で売るよりも儲かることがわかっていれば、相手が異国の人だろうがなんだろうが売るのが商人というもの。

困ったのは、もともとの販路を持っていた江戸の商人たち。
幕府にうったえ出て、1860年、雑穀・水油・ロウ・呉服・生糸の五品は必ず江戸の問屋を経て輸出するように命じる命令を出させました(五品江戸廻送令)。

もちろん在郷商人は反対しますし(無視して商売を続ける)、諸外国も自由貿易を求めるところから、このような「保護貿易政策」はゆるすはずがありません。

結局、これらは効果を出すことはできませんでした。

江戸周辺で、養蚕などが活性化していく一方、機械織りの安価な綿製品が大量に輸入され、農村で発達していた手紡ぎや綿織物業は大打撃を受けます。

桑畑が増えていくのに対して綿花畑は次々と消えていきました。
河内や尾張の綿花畑はこのときに消滅していくことになります。

国学の思想は、けっこう農村部にも広がったんです。
ただ、人々がその思想の根幹を理解していたかどうかは別です。

開国によって自分たちの生活が変わってしまった…

島津久光が幕府に文久の改革を強いた後、帰国の途で「生麦事件」を起こすと、東海道沿線の人々は快哉して薩摩の行軍を迎えた、といいますから、攘夷、とまでもいかないまでも世論の大部分は開国反対であったことは確かです。

尊王攘夷は、すなわち不作や年貢に苦しむ貧農たちに「世直し」のための口実ともなりました。
各地で「世直し一揆」と称する農民の一揆が頻発するようになります。

長州征討のときなど、大坂や江戸では「打ちこわし」も起こっていて、幕府への不満(というか当時の生活状況への不満)というのが高まっていたことがよくわかります。

それから、教派神道、と呼ばれる民衆宗教が急速に普及していくのもこの時期です。

一揆にせよ打ちこわしにせよ宗教にせよ、人々のエネルギーは、不安をなんとかして解消したい、という方向に動くものです。

中山みきの天理教、黒住宗忠の黒住教、川手文治郎の金光教など、政局不安、険悪な世相から救われたい、という民衆の渇望を癒やすものとなっていきました。

また、「ええじゃないか」という奇態な民衆運動も拡大します。

 空から伊勢神宮の御札が降ってきた!

と、人々が狂喜乱舞し、場合によっては打ちこわしなどにも発展した行動になりました。

町人レベルでは幕府の支配秩序は、一時的ではありましたが、かなり混乱させていくことになりました。

(次回に続く)
幕府は、長州藩に対して、領地の削減を決定しました。
しかし、すでに述べたように、高杉晋作らの活躍で、長州藩は大きく変わっていました。
恭順を示した保守派の政権から、倒幕へと大きく舵をきっていた長州藩は、幕府の要求を拒否します。

さて、このころ、水面下で大きな“外交”が展開されていました。

それが「薩長同盟」です。

一般に、薩長同盟は1866年、土佐藩出身の坂本龍馬や中岡慎太郎らが仲介して軍事同盟、密約が結ばれた、と考えられています。

現在の研究では、これにはいくつかの“誤解”があり、「薩長同盟」は1866年より以前に、段階的にすでに進行していて、1866年の坂本龍馬の仲介によって成立したわけではない、というのが通説になりつつあります。

実際、教科書でもこのことが反映されていて、1866年の薩長同盟を説明する前に

「幕府は、長州藩に対して、第1次征討の始末として領地の削減などを命じたが、藩論を一変させた長州藩は容易に応じなかった。」

という説明に続いて

「そこで幕府はふたたび長州征討(第二次)を宣言したが、すでに開国進取に転じていた薩摩藩は、ひそかに長州藩を支持する態度をとった。」

と記され、そして、この後、薩長同盟が結ばれた、という流れで説明されています。

「薩長同盟」の前に、すでに薩長の同盟は成立していたんです。
(この点、詳しくは拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』をお読みください。「薩長同盟はなかった」というお話しをしています。)

1866年の薩長同盟は、別にそういう「文書」や「条約」が記録として残っているものではなく、桂小五郎に対して、坂本龍馬が「約束」の保障を裏書きしたものがあるだけで、小説やドラマでおなじみの、坂本龍馬が桂小五郎と西郷隆盛の間をとりもって成立した、というような性質のものではなかったのです。

「ひそかに長州藩を支持する態度」は1866年の「薩長同盟」よりも前から続いていて、とくに銃・米交換密約(長州の米を薩摩へ、薩摩の武器を長州へ)は1865年の段階で成立しています。

さて、幕府の第二次長州征討は“失敗”に終わります。

長州軍は各地で幕府軍を退け、さらに大坂城まで来ていた将軍家茂が病死してしまい、幕府は戦闘継続はできなくなってしまいました。

また、1866年末、

 孝明天皇が崩御

されてしまいました。
「尊王攘夷」「公武合体」の指向が強く、会津藩や幕府に好意的だった孝明天皇の崩御は、幕府にとっては大きな痛手となったことは確かです。