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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

戊辰戦争、とひとくくりにされて説明されていますが、現在の歴史学では大きく三段階に分けて理解されています。

第一段階が、鳥羽・伏見の戦いから江戸開城まで。
これは幕府と薩摩藩の「私闘」として始まり、幕府を滅ぼすまでの戦い、という理解です。

幕府はいつ滅んだと理解すべきか…

よく生徒には説明するのですが…

歴史の節目、というのは実にぼんやりとしていて、現在からふりかえって見れば明確に区別はできますが、当時の人や近くの時代の人にとっては、きれいな区別はできないものです。

あたかも

 虹

のようなもの。

虹は七色とハッキリ色分けできますが、それぞれの境目はどこから何色に変わるかハッキリとはわからないもんです。
どこからが赤から橙に変わったか、と、議論するのは、わりと無意味なんですよね。

大政奉還で幕府は滅んだ、とは、当時の人の認識ではなかったことは確かです。

幕末、洋行して幕府の外国奉行所の役人などになり、開国論を唱え、さらには大政奉還の際には、徳川慶喜をフランスのナポレオン3世に擬した政権をつくる構想を幕末の小栗忠順に献策した人物に

 福地源一郎

という人物がいます。

彼は後年、『幕府衰亡論』という本を著し、「江戸開城」をもって幕府が滅亡した、という考え方に立っています。
実は私もそう考えている派です。

よって幕府を滅ぼす戦いとしての戊辰戦争は第一段階でおしまい…

ちなみに第二段階は、会津藩を中心とする奥羽越列藩同盟との戦いである東北戦争。
これは「幕府が滅亡した後」、明治天皇を支持し、恭順するも、「君側の奸」薩長には従わない、という勢力と明治政府の戦いです。
そして第三段階が、第一段階と第二段階の、「残党の糾合勢力」との戦い。
つまり五稜郭の戦いを終点とする箱館戦争です。

学校の教科書、および入試では、この分類をやんわりと受けつつ、三段階に説明しています。

(1)
・鳥羽・伏見の戦いで敗れた慶喜が江戸に逃れる。
・徳川慶喜は朝敵となるが慶喜は上野寛永寺に自ら謹慎して恭順の姿勢をとる。
・幕府の全権勝海舟と東征軍参謀の西郷隆盛が交渉して江戸城を明け渡す。

(2)
・奥羽越列藩同盟と東征軍が戦う。
・会津若松城が落城する。

(3)
・旧幕府海軍の榎本武揚が五稜郭にたてこもって抗戦する。
・榎本武揚が降伏する。

1868年1月から1869年5月までの経緯は以上となります。

さて、これもまた授業ではよく説明するのですが…

幕府を滅ぼしてから新政府が発足した、という「順番」ではありません。

幕府・旧勢力を滅ぼしながら、一方で新政府の建設を「並行して」進めていた、ということです。
新政府は、人材を「戦争担当」と「政治担当」の二つに分けます。

この点、話をすっ飛ばしますが、源頼朝が平氏政権を倒した流れとよく似ています。
幕府の組織を整えながら(侍所の設置→問注所・公文所の設置→守護・地頭の設置)、並行して源平の合戦(一ノ谷の戦い→屋島の戦い→壇ノ浦の戦い)を進めていきました。
平氏を滅ぼしてから鎌倉幕府ができたのではありません。

「戦争担当」は西郷隆盛・大村益次郎・板垣退助
「政治担当」は大久保利通・木戸孝允

そして東征軍の総督は、有栖川宮熾仁親王…
和宮との仲を幕府によって引き裂かれた宮さまが、その幕府を滅ぼす、という不思議な因縁となった、とは以前にお話したとおりです。

鳥羽・伏見の戦い
五箇条の誓文
江戸城開城
政体書
一世一元制
東北戦争
東京遷都
五稜郭の戦い

戦いと政治は並行して進んでいた、というのがポイントになります。

(次回最終回)
薩摩藩と徳川家の「私闘」として始まった戊辰戦争の第一段階…

これを公の戦いへと変えたのは、たった一つのモノでした。
いや、一つ、ではなく、「一旒(いちりゅう)」と言うべきでしょうが…

 錦の御旗

です。

現在、日本の慣用句ともなっている言葉。

天皇が、討伐軍の司令官に与えた、と言われる旗です。
果たして、こういう旗、ほんとにあったんでしょうか…

記録では後鳥羽上皇が鎌倉方を討伐するときに「与えた」と言われていますが、実際は、天皇に任命された将軍が「自ら用意するもの」であったといわれています。
(ちなみに、後醍醐天皇も用意させたと言われています。『太平記』が江戸時代には広く知られていて、とくに幕末、尊王攘夷運動の中で再評価がされていましたから、錦の御旗は伝説のように広がっていたようです。)

ですから、天皇が所蔵していたり、朝廷の倉庫などにそのような旗があるわけではありません。

岩倉具視は「これ」を最大限活用しました。
ただちに、存在不明であった錦の御旗を用意させます。デザインしたのが

 玉松真弘

という人物でした。国学者で、岩倉具視のブレインの一人。
京都の錦織りの職人・商人に依頼して作製させ、薩摩藩に使用させました。
長州藩は、材料を受け取り、長州で旗に調製しました。

 この旗あるところ官軍
 これに敵対するは賊軍

この旗の効用、ほんとにあったのでしょうか…

でも、記録ではかなりの効果があったようです。
土佐藩士で、

 田中光顕

という人物がいます。明治維新の功労者で、創設期の陸軍で重要な役割を果たします。
(ちなみにこの人、90歳以上長生きし、なんと二・二六事件のとき、青年将校たちに同情して助命嘆願なんかもしています。)

この人が、官軍の指揮にあって前線にいたのですが、「錦の御旗をみると諸藩の軍は戦意を喪失し、撤退をしていった」と記録しているんです。

大坂城から京都をめざした幕府軍でしたが、兵力数では「官軍」の三倍はあり、鳥羽・伏見の戦いでは激戦を繰り広げていたのですが、諸藩の寝返りにあって苦戦します。
この旗の効果、というべきでしょうか。

藤堂高虎を藩祖とする津藩(徳川家康が幕府に危機がおこったときは藤堂を先鋒にせよ、とまで遺言していた藩)、そして江戸の薩摩藩邸の攻撃を命じて、反薩摩の急先鋒といわれた老中稲葉の藩である淀藩までも寝返ります。

いや、それよりも、なによりも… 徳川慶喜その人が「寝返り」をしてしまいます。

 朝廷に弓などひけるかっ
 われわれは賊軍となってしまったのだっ
 朝敵などになれるかっ

と、大坂城からわずかの兵と側近を率いて軍艦に乗ってさっさと撤退してしまいます。

鳥羽・伏見の戦いは幕府軍の敗北となりました。

やや蛇足ながら…

生徒たちに、「鳥羽・伏見の戦いの、鳥羽と伏見ってどこだかわかるかな?」と質問すると、

「え… 伏見は京都やんな…」
「鳥羽は… 三重県の水族館のあるところ??」

とか、答える子たちがいます。

鳥羽も京都なんですよ。京都の南。京都と大坂を結ぶ鳥羽街道と伏見街道で繰り広げられた戦いなんです。鳥羽は三重県の鳥羽ではありませんから念のため…

(次回に続く)
倒幕の中心、と、考えられていた薩摩藩でしたが、あんがいとこの時期にいたっても藩内の意見が強固に一つとなっていた、とはいえないんですよね。

大久保利通と西郷隆盛が薩摩藩の中心であった、とは誰もが知るところ。
この二人は、大政奉還後の「政府」の中で、当然、倒幕派だったわけですが、かんたんに言うと、「大政奉還」策によって、薩摩藩の「藩是」とでもいうべき倒幕の口実が無くなってしまったわけです。

彼らは、「現場」にいて、山内容堂や松平慶永などと面して「駆け引き」を続けていたわけですから、妥協や陰謀などを駆使して、倒幕の流れへともっていく努力をしているわけです。
が、しかし、藩内外の倒幕派にとって、彼らの「努力」はそれが駆け引きや陰謀であるためによく見えない…

 大久保や西郷は何をしているっ!
 あいつら手ぬるいんじゃないか?
 このまま倒幕はやめてしまうんではないか??

と、怒りや疑念などが湧きつつありました。

集団に中心と周辺があったとして、周辺というのは時に中心の思惑をくみ取れない…
そして周辺は、自分たちは周辺であることをわかりつつも、中心と同じでありたいと思い続けている…
よってたいていは周辺以上に純粋に周辺の目的を追求する動きを見せてしまう…

たいていは(無理とわかっていても)過激な要求をすることによって自己の存在価値を示すのが常なんですよね。

薩摩藩の一部過激派たちは、江戸においてテロ活動を開始してしまいます。(江戸城の西ノ丸が謎の火災を発生させたり、警備の庄内藩士に発砲したり)
同じように、京都でも過激な尊王攘夷派がテロ活動を開始しはじめます。

江戸では、一連のテロが薩摩藩がおこなっていた、として庄内藩が薩摩藩邸を襲撃する、という報復事件も発生しました。

さてさて、この一連の事件…
薩摩藩の中心、大久保利通や西郷隆盛らのコントロールを離れた過激派の行動だった、というのは確かであったかもしれません。
しかし、西郷と大久保は、これを本気で阻止しようとしていたのか、というと実際のところどうだったのでしょう…

やってはいけない、自重しなさい、という言葉は、やってしまえ、行動しろ、という言葉の裏返しだったのかもしれません。

徳川慶喜の側も、「過激派」をかかえていました。会津藩などはただちに薩摩を討つべし、と、慶喜にせまります。
慶喜はこれにこたえて、朝廷に薩摩討伐の許可を願い出ます。
土佐藩は、「これはあくまでも徳川と薩摩の私闘だ」と距離を置く姿勢を示しました。

戊辰戦争は、よく鳥羽・伏見の戦いから始まった、と言われますが、実際は幕府の軍艦が兵庫にいた薩摩の軍艦を砲撃したところから開始されました。

薩摩も幕府も、実はケンカの口実をそれぞれ求めていたのかもしれません。

 しかたないなぁ~
 ほんとはケンカしたくなかったのになぁ~
 相手がわるいんだよ

こそ、戦争を始める前の「儀式」というものです。

さて、「私闘」として始まった戦いを「公の戦い」にすりかえ、いっきに幕府滅亡へと導く工作が進みました。それは…

(次回に続く)


岩倉具視と、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允らの動きはやや性急すぎました。
基本的に、人は過激な動きに「ためらい」をみせます。

肥後・筑前・阿波の三藩は(土佐藩の山内容堂の顔色を見つつ、あるいは容堂に勧められて)、兵を引き上げる、と、言い出しました。

この時期、倒幕派の中心として大回転していたのは岩倉と西郷でした。
容堂と岩倉、西郷の「駆け引き」が続きます。
ここでは、「駆ける容堂」、「引く西郷」となりました。

「では、こうしよう。慶喜が辞官納地に応じれば、三職のうち議定に入れてもようじゃないか。」

徳川慶喜も「駆ける慶喜」となりました。

実質の外交権を握っていたのは幕府でしたし、朝廷でのクーデターはあくまでも日本側の事情にすぎませんから諸外国は、まだ慶喜を外交交渉相手と認識していました。

で、慶喜は、諸外国に呼びかけます。

「大坂城で会談をしたい。」

こうして、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに加え、60年代に統一されたばかりのイタリア、さらにはヨーロッパで急速に台頭しつつあったプロイセンの各公使が呼びかけに応じました。

幕府の「実力」が示された、というところでした。

「どうだ? だれが外交権をにぎっているのか、わかるか?」

という鼻高々の慶喜の姿が思い浮かびそうです。

朝廷は改めて、「新しい政権の誕生まで」、慶喜に政治を執ることを認めざるを得ないところに追い込まれました。

今度は、西郷・岩倉が「駆ける」ことになります。

土佐藩の「内情」に目をむけました。
実は、山内容堂は、「浮いていた」んです。
何のことかというと、土佐藩の「現場」の指導者たち、とくに乾退助(板垣退助)や後藤象二郎らは、倒幕に傾いていて、山内容堂の考え方に疑問を持ち始めていたんです。

西郷は、土佐藩の「分断」を図ります。乾退助や後藤象二郎を倒幕派に誘い込みました。
そして大久保利通は、慶喜を「挑発」する策略を進めます。

(次回に続く)
岩倉具視、そして薩摩藩は、大政奉還によって、いったん倒幕の口実を失ってしまいました。
朝廷は、公武合体派の摂政二条斉敬、そして朝賀宮朝彦親王が実権をにぎっており、諸侯会議を招集したものの、ほとんどそれに応えない状況が続いたため、徳川慶喜が「諸侯会議招集まで」という条件によって、政治を担当し続けてしまいました。

わたしは思うのですが…

真偽不明の倒幕の密勅を岩倉具視が薩摩藩に提示したのも、ひょっとすると薩摩が倒幕の方針を転換し、公武合体派に妥協してしまうのではないか、と、いう「おそれ」を抱いていたからなのではないでしょうか…

貴族は「したたか」で「小心」なもの…
岩倉具視の「陰謀」の動機は、あんがいとこういうところだったのかもしれません。

 天皇の真意は、倒幕なのだ!(だから、徳川方に乗っからないでね!)

というところだったのかもしれません。

陰謀は常に夜に考えられ、そして実行されます。
すでに12月6日に岩倉は、薩摩・長州・安芸に根回し、薩摩を中心とする兵を用意していました。

12月8日夜、岩倉具視は、自邸に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の重臣を招集、兵を動かすことが
決定されます。

摂政二条斉敬と朝彦親王が朝廷を退出すると、突如、五藩の兵が御所を包囲し、諸門を閉鎖しました。二条斉敬、朝彦親王は自宅に禁足され、岩倉具視らが参内し

 王政復古の大号令

が発令されました。そして

・徳川慶喜の将軍辞職
・京都守護職・京都所司代の廃止
・幕府の廃止
・摂関の廃止
・三職(総裁・議定・参与)の設置

が決められました。

大政奉還後の二条・朝彦親王体制を支えた会津藩・桑名藩が退けられ、有栖川宮熾仁親王、岩倉具視や三条実美ら倒幕派親王・貴族が実権を掌握しました。

そしてさらに、即座に「三職会議」が開催されました。世に言う

 小御所会議

です。

土佐・安芸・尾張・越前の四藩はおどろきます。
もともと、このクーデターに関しては、当初クーデターであるという理解はされていなかったようなんですよね…
この四藩は、うまく乗せられたようで、実際、最初は徳川慶喜の参加も彼らは当然であると考えられていたようなんです。

会津や桑名などの、古い公武合体派を退けよう、という企てだったと思っていたようで、フタをあけてみるとものすごい展開になった、というような感じです。

実際、山内容堂は、

「これはいったいどうしたことだ! 徳川慶喜抜きとはありえない!」

そもそも、と一呼吸おき、

「少数の貴族が幼帝を擁し奉り、陰謀をくわだてのだな!」

と声を荒げました。

岩倉具視も負けません。
何をいうか! と一喝し、

「幼帝とはなんたる無礼。すべて今回のことは帝の御心のままにおこなわれたこと!」

山内容堂は黙ってしまった、といいます。

この会議は、明治天皇臨席のもとに開催されていました。
容堂が黙ってしまった、ということは、どうやらこのとき、明治天皇は、言葉を発せられなかったとしても、なんらかの会釈か同意を示す「何か」を示された可能性があります。

容堂は論点をかえて、徳川慶喜の参加を強く主張しますが、岩倉具視は慶喜の失政を数々あげ、

 辞官納地

を強く主張しました。辞官とは朝廷での位を辞任すること、そして領地を返上すること…

会議は「休憩」となります。
実際、会議の運営は「休憩」中におこなわれるのが世の常…

ヒソヒソ話と根回しこそが「会議の休憩」の本質です。

このとき、休憩中に活動したのが、薩摩藩の岩下方平です。
この人、わたしはもっともっと評価されてよい人だと思うんですよ。

薩英戦争の交渉を進めたのもこの人、パリ万博の薩摩藩団長で巧みな外交を展開、帰国時にはフランス人の有能な技術者を引き抜くし、小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通の間にあって、藩政を実にうま~く調整しているんですよね。

西郷隆盛は武力討伐を考えていましたが、西郷にそのことを語らせません。岩下がその意をくんで、岩倉にそれを伝え、さらに安芸藩を通じて土佐藩にも伝わるようにしました。

言葉の威力、というのは、ときに「こう言うてるらしいでぇ」と伝聞にするほうが発揮される場合が多い…
岩下はこういう「呼吸」をよく知っていた人物のようです。

会議が再開されると、一転して岩倉ペース(西郷隆盛の企図していたとおり)に進んでいきました。
こうして慶喜の「辞官納地」が決定されたのですが…

話はこれで終わりませんでした。
土佐藩と幕府の巻き返し工作がおこなわれたのです。それは…

(次回に続く)