幕末史(18)幕府の滅亡 その5 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

薩摩藩と徳川家の「私闘」として始まった戊辰戦争の第一段階…

これを公の戦いへと変えたのは、たった一つのモノでした。
いや、一つ、ではなく、「一旒(いちりゅう)」と言うべきでしょうが…

 錦の御旗

です。

現在、日本の慣用句ともなっている言葉。

天皇が、討伐軍の司令官に与えた、と言われる旗です。
果たして、こういう旗、ほんとにあったんでしょうか…

記録では後鳥羽上皇が鎌倉方を討伐するときに「与えた」と言われていますが、実際は、天皇に任命された将軍が「自ら用意するもの」であったといわれています。
(ちなみに、後醍醐天皇も用意させたと言われています。『太平記』が江戸時代には広く知られていて、とくに幕末、尊王攘夷運動の中で再評価がされていましたから、錦の御旗は伝説のように広がっていたようです。)

ですから、天皇が所蔵していたり、朝廷の倉庫などにそのような旗があるわけではありません。

岩倉具視は「これ」を最大限活用しました。
ただちに、存在不明であった錦の御旗を用意させます。デザインしたのが

 玉松真弘

という人物でした。国学者で、岩倉具視のブレインの一人。
京都の錦織りの職人・商人に依頼して作製させ、薩摩藩に使用させました。
長州藩は、材料を受け取り、長州で旗に調製しました。

 この旗あるところ官軍
 これに敵対するは賊軍

この旗の効用、ほんとにあったのでしょうか…

でも、記録ではかなりの効果があったようです。
土佐藩士で、

 田中光顕

という人物がいます。明治維新の功労者で、創設期の陸軍で重要な役割を果たします。
(ちなみにこの人、90歳以上長生きし、なんと二・二六事件のとき、青年将校たちに同情して助命嘆願なんかもしています。)

この人が、官軍の指揮にあって前線にいたのですが、「錦の御旗をみると諸藩の軍は戦意を喪失し、撤退をしていった」と記録しているんです。

大坂城から京都をめざした幕府軍でしたが、兵力数では「官軍」の三倍はあり、鳥羽・伏見の戦いでは激戦を繰り広げていたのですが、諸藩の寝返りにあって苦戦します。
この旗の効果、というべきでしょうか。

藤堂高虎を藩祖とする津藩(徳川家康が幕府に危機がおこったときは藤堂を先鋒にせよ、とまで遺言していた藩)、そして江戸の薩摩藩邸の攻撃を命じて、反薩摩の急先鋒といわれた老中稲葉の藩である淀藩までも寝返ります。

いや、それよりも、なによりも… 徳川慶喜その人が「寝返り」をしてしまいます。

 朝廷に弓などひけるかっ
 われわれは賊軍となってしまったのだっ
 朝敵などになれるかっ

と、大坂城からわずかの兵と側近を率いて軍艦に乗ってさっさと撤退してしまいます。

鳥羽・伏見の戦いは幕府軍の敗北となりました。

やや蛇足ながら…

生徒たちに、「鳥羽・伏見の戦いの、鳥羽と伏見ってどこだかわかるかな?」と質問すると、

「え… 伏見は京都やんな…」
「鳥羽は… 三重県の水族館のあるところ??」

とか、答える子たちがいます。

鳥羽も京都なんですよ。京都の南。京都と大坂を結ぶ鳥羽街道と伏見街道で繰り広げられた戦いなんです。鳥羽は三重県の鳥羽ではありませんから念のため…

(次回に続く)