倒幕の中心、と、考えられていた薩摩藩でしたが、あんがいとこの時期にいたっても藩内の意見が強固に一つとなっていた、とはいえないんですよね。
大久保利通と西郷隆盛が薩摩藩の中心であった、とは誰もが知るところ。
この二人は、大政奉還後の「政府」の中で、当然、倒幕派だったわけですが、かんたんに言うと、「大政奉還」策によって、薩摩藩の「藩是」とでもいうべき倒幕の口実が無くなってしまったわけです。
彼らは、「現場」にいて、山内容堂や松平慶永などと面して「駆け引き」を続けていたわけですから、妥協や陰謀などを駆使して、倒幕の流れへともっていく努力をしているわけです。
が、しかし、藩内外の倒幕派にとって、彼らの「努力」はそれが駆け引きや陰謀であるためによく見えない…
大久保や西郷は何をしているっ!
あいつら手ぬるいんじゃないか?
このまま倒幕はやめてしまうんではないか??
と、怒りや疑念などが湧きつつありました。
集団に中心と周辺があったとして、周辺というのは時に中心の思惑をくみ取れない…
そして周辺は、自分たちは周辺であることをわかりつつも、中心と同じでありたいと思い続けている…
よってたいていは周辺以上に純粋に周辺の目的を追求する動きを見せてしまう…
たいていは(無理とわかっていても)過激な要求をすることによって自己の存在価値を示すのが常なんですよね。
薩摩藩の一部過激派たちは、江戸においてテロ活動を開始してしまいます。(江戸城の西ノ丸が謎の火災を発生させたり、警備の庄内藩士に発砲したり)
同じように、京都でも過激な尊王攘夷派がテロ活動を開始しはじめます。
江戸では、一連のテロが薩摩藩がおこなっていた、として庄内藩が薩摩藩邸を襲撃する、という報復事件も発生しました。
さてさて、この一連の事件…
薩摩藩の中心、大久保利通や西郷隆盛らのコントロールを離れた過激派の行動だった、というのは確かであったかもしれません。
しかし、西郷と大久保は、これを本気で阻止しようとしていたのか、というと実際のところどうだったのでしょう…
やってはいけない、自重しなさい、という言葉は、やってしまえ、行動しろ、という言葉の裏返しだったのかもしれません。
徳川慶喜の側も、「過激派」をかかえていました。会津藩などはただちに薩摩を討つべし、と、慶喜にせまります。
慶喜はこれにこたえて、朝廷に薩摩討伐の許可を願い出ます。
土佐藩は、「これはあくまでも徳川と薩摩の私闘だ」と距離を置く姿勢を示しました。
戊辰戦争は、よく鳥羽・伏見の戦いから始まった、と言われますが、実際は幕府の軍艦が兵庫にいた薩摩の軍艦を砲撃したところから開始されました。
薩摩も幕府も、実はケンカの口実をそれぞれ求めていたのかもしれません。
しかたないなぁ~
ほんとはケンカしたくなかったのになぁ~
相手がわるいんだよ
こそ、戦争を始める前の「儀式」というものです。
さて、「私闘」として始まった戦いを「公の戦い」にすりかえ、いっきに幕府滅亡へと導く工作が進みました。それは…
(次回に続く)