岩倉具視と、大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允らの動きはやや性急すぎました。
基本的に、人は過激な動きに「ためらい」をみせます。
肥後・筑前・阿波の三藩は(土佐藩の山内容堂の顔色を見つつ、あるいは容堂に勧められて)、兵を引き上げる、と、言い出しました。
この時期、倒幕派の中心として大回転していたのは岩倉と西郷でした。
容堂と岩倉、西郷の「駆け引き」が続きます。
ここでは、「駆ける容堂」、「引く西郷」となりました。
「では、こうしよう。慶喜が辞官納地に応じれば、三職のうち議定に入れてもようじゃないか。」
徳川慶喜も「駆ける慶喜」となりました。
実質の外交権を握っていたのは幕府でしたし、朝廷でのクーデターはあくまでも日本側の事情にすぎませんから諸外国は、まだ慶喜を外交交渉相手と認識していました。
で、慶喜は、諸外国に呼びかけます。
「大坂城で会談をしたい。」
こうして、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに加え、60年代に統一されたばかりのイタリア、さらにはヨーロッパで急速に台頭しつつあったプロイセンの各公使が呼びかけに応じました。
幕府の「実力」が示された、というところでした。
「どうだ? だれが外交権をにぎっているのか、わかるか?」
という鼻高々の慶喜の姿が思い浮かびそうです。
朝廷は改めて、「新しい政権の誕生まで」、慶喜に政治を執ることを認めざるを得ないところに追い込まれました。
今度は、西郷・岩倉が「駆ける」ことになります。
土佐藩の「内情」に目をむけました。
実は、山内容堂は、「浮いていた」んです。
何のことかというと、土佐藩の「現場」の指導者たち、とくに乾退助(板垣退助)や後藤象二郎らは、倒幕に傾いていて、山内容堂の考え方に疑問を持ち始めていたんです。
西郷は、土佐藩の「分断」を図ります。乾退助や後藤象二郎を倒幕派に誘い込みました。
そして大久保利通は、慶喜を「挑発」する策略を進めます。
(次回に続く)