岩倉具視、そして薩摩藩は、大政奉還によって、いったん倒幕の口実を失ってしまいました。
朝廷は、公武合体派の摂政二条斉敬、そして朝賀宮朝彦親王が実権をにぎっており、諸侯会議を招集したものの、ほとんどそれに応えない状況が続いたため、徳川慶喜が「諸侯会議招集まで」という条件によって、政治を担当し続けてしまいました。
わたしは思うのですが…
真偽不明の倒幕の密勅を岩倉具視が薩摩藩に提示したのも、ひょっとすると薩摩が倒幕の方針を転換し、公武合体派に妥協してしまうのではないか、と、いう「おそれ」を抱いていたからなのではないでしょうか…
貴族は「したたか」で「小心」なもの…
岩倉具視の「陰謀」の動機は、あんがいとこういうところだったのかもしれません。
天皇の真意は、倒幕なのだ!(だから、徳川方に乗っからないでね!)
というところだったのかもしれません。
陰謀は常に夜に考えられ、そして実行されます。
すでに12月6日に岩倉は、薩摩・長州・安芸に根回し、薩摩を中心とする兵を用意していました。
12月8日夜、岩倉具視は、自邸に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の重臣を招集、兵を動かすことが
決定されます。
摂政二条斉敬と朝彦親王が朝廷を退出すると、突如、五藩の兵が御所を包囲し、諸門を閉鎖しました。二条斉敬、朝彦親王は自宅に禁足され、岩倉具視らが参内し
王政復古の大号令
が発令されました。そして
・徳川慶喜の将軍辞職
・京都守護職・京都所司代の廃止
・幕府の廃止
・摂関の廃止
・三職(総裁・議定・参与)の設置
が決められました。
大政奉還後の二条・朝彦親王体制を支えた会津藩・桑名藩が退けられ、有栖川宮熾仁親王、岩倉具視や三条実美ら倒幕派親王・貴族が実権を掌握しました。
そしてさらに、即座に「三職会議」が開催されました。世に言う
小御所会議
です。
土佐・安芸・尾張・越前の四藩はおどろきます。
もともと、このクーデターに関しては、当初クーデターであるという理解はされていなかったようなんですよね…
この四藩は、うまく乗せられたようで、実際、最初は徳川慶喜の参加も彼らは当然であると考えられていたようなんです。
会津や桑名などの、古い公武合体派を退けよう、という企てだったと思っていたようで、フタをあけてみるとものすごい展開になった、というような感じです。
実際、山内容堂は、
「これはいったいどうしたことだ! 徳川慶喜抜きとはありえない!」
そもそも、と一呼吸おき、
「少数の貴族が幼帝を擁し奉り、陰謀をくわだてのだな!」
と声を荒げました。
岩倉具視も負けません。
何をいうか! と一喝し、
「幼帝とはなんたる無礼。すべて今回のことは帝の御心のままにおこなわれたこと!」
山内容堂は黙ってしまった、といいます。
この会議は、明治天皇臨席のもとに開催されていました。
容堂が黙ってしまった、ということは、どうやらこのとき、明治天皇は、言葉を発せられなかったとしても、なんらかの会釈か同意を示す「何か」を示された可能性があります。
容堂は論点をかえて、徳川慶喜の参加を強く主張しますが、岩倉具視は慶喜の失政を数々あげ、
辞官納地
を強く主張しました。辞官とは朝廷での位を辞任すること、そして領地を返上すること…
会議は「休憩」となります。
実際、会議の運営は「休憩」中におこなわれるのが世の常…
ヒソヒソ話と根回しこそが「会議の休憩」の本質です。
このとき、休憩中に活動したのが、薩摩藩の岩下方平です。
この人、わたしはもっともっと評価されてよい人だと思うんですよ。
薩英戦争の交渉を進めたのもこの人、パリ万博の薩摩藩団長で巧みな外交を展開、帰国時にはフランス人の有能な技術者を引き抜くし、小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通の間にあって、藩政を実にうま~く調整しているんですよね。
西郷隆盛は武力討伐を考えていましたが、西郷にそのことを語らせません。岩下がその意をくんで、岩倉にそれを伝え、さらに安芸藩を通じて土佐藩にも伝わるようにしました。
言葉の威力、というのは、ときに「こう言うてるらしいでぇ」と伝聞にするほうが発揮される場合が多い…
岩下はこういう「呼吸」をよく知っていた人物のようです。
会議が再開されると、一転して岩倉ペース(西郷隆盛の企図していたとおり)に進んでいきました。
こうして慶喜の「辞官納地」が決定されたのですが…
話はこれで終わりませんでした。
土佐藩と幕府の巻き返し工作がおこなわれたのです。それは…
(次回に続く)