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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

NHKの朝のドラマ、「花子とアン」が始まりました。

村岡花子が主人公です、と、いっても誰それ? という人がいるかもしれません。
でも、『赤毛のアン』の訳者だよ、と、いえば、あ~ そうか! という人が一気に増えそうですね。

彼女の翻訳は「赤毛のアン」だけにとどまりません。

『王子と乞食』
『ハックルベリィ・フィンの冒険』
『ジャックと豆の木』
『あしながおじさん』
『フランダースの犬』
『ふしぎの国のアリス』
『小公女』

などなど、あげていったらきりがない。児童文学の訳者としてはものすご~く有名な方です。

こはにわが小学生のころ、「図書の時間」というのがありました。
今もそんな「授業」が小学校ではあるんでしょうか、みんなで図書館に行って本を読む、という時間です。

こはにわはSF小説をよく読んでいました(歴史の本とちゃうんかいっ)。
で、女子たちがよく読んでいたのが

『赤毛のアン』

ですね。

実は、恥ずかしながらわたしは読んだことはありません。なんというか… 小学生の時の図書の時間のせいではありませんが、「ああいうのは女の子が読むもんだ」と勝手に思い込んでしまっていました。

以前、生徒たちに聞いたことがあるんです。

「赤毛のアン」読んだことある? というと、たいていの子たちは読んでいました。

「何がおもしろいの?」「どんなところが好き?」

ということを問うと、もちろんストーリーのおもしろさもあるのでしょうが、なかなかおもしろい“視点”を言う子がいました。

あの本でいろいろ知った。
外国の文化とか、服とか、いろいろ想像してわくわくした。
話に出てくる風景とか、そういうのが好きだった。

文化? 服? 風景?

服、というのは、わかります。女の子はファッションなどに興味があり、登場人物の服のデザインや似合っているかどうかや、そういうところにも目がいきますからね。

文化って? と、思うと「教会に行った」という話がよく出てくるようなのですが、そういうことで「教会」や「キリスト教」など、自分をとりまく日本とは違う環境・文化を知って、すごくおもしろかった、というわけです。
白樺の木とか話しかける、というようなちょっと妄想ちゃん的なところなど、あ~、わかるかわると思う女の子もいたんでしょう。

でも、あれは「本」です。むろん挿絵などもあるのでしょうが、“翻訳”というのがすぐれて、そして女性の視点と感覚でなされていなければ、読者の女の子と“共鳴”できません。

訳者が女性だから、というわけではありませんが、『赤毛のアン』に描かれている、数々の「女の子が反応」するもの、“女の子あるある”が伝わるような訳し方、というのはやはり女性だからこそできるのではないでしょうか。

教会での描写なども、村岡花子さんがクリスチャンだった、ということも大きいと思います。
もちろん、現在の日本では教会もありますし、キリスト教についてのおおざっぱな知識はありますが、クリスチャンの方々は、当然、教会での体験や、祈りという行為、聖書に書かれている話など、をごく自然に身に着けておられます。
さりげない、外国の人々の日常を表面的でなく描けるのは、やはり背景の精神文化を知っていないとむりだと思うのです。「あ、そういう世界があるんだ」と興味がそそられます。

村岡花子さんの、周辺をさぐると、「村岡花子」をつくっているものが、なかなかにすごいことがわかりますし、「人というのはいろいろなつながりの中で生きている」ということがわかります。

なんと彼女は学生時代、「万葉集」のお勉強をしています。
しかも彼女にそれを教えたのは、

佐佐木信綱

天皇陛下にも「万葉集」を解説なさった、という古典文学界の超大物。
佐佐木信綱は一流の歌人でもあり、

ゆく秋の
大和の国の薬師寺の
塔のうえなる
ひとひらの雲

という歌は学校の教科書にでも出てくるものです。

こじつけるつもりはありませんが、

「ゆく秋」→「大和の国」→「塔のうえ」→「ひとひらの雲」

というのは、「時」→「場所」→「箇所」というように、しだいにフォーカスをしぼって対象にせまっていく、というもので、日本の古典随筆などにもよく見られる表現です。
村岡花子さんの、翻訳の風景も、こういう表現をうまくとらえて訳されています。
彼女は、キリスト教文化だけでなく、日本の古典の造詣も深いがゆえに。「名訳」が可能であったと思うのです。

そして、彼女に「子ども向けの本を書いてみない?」と勧めた人物が

片山廣子

です。はぁ? 誰? と、なりそうですが、歌人で外国文学の翻訳者で、知る人ぞ知る、芥川龍之介の“恋人”だった人です。

彼女の周辺を探ってみれば、芥川龍之介まで登場してきました。

いやいや、それどころか、なんと、戦前から、婦人参政権運動を進め、戦後も政治家として活躍した

市川房枝

とも村岡花子は友人で、婦人参政権運動にも参加しているんです。

戦前から子ども向けのラジオ番組にも関わり、みんな大好き「ラジオのおばさん」として有名でした。

キリスト教文化・万葉集・外国文学…
すごい業績の人の周辺はすごい業績の人たちが、なんだからしらないけれど「遠く」に「近く」に存在していて、どれかが欠けても「村岡花子」は形作られていません。

歴史も同じで、登場人物、その人だけで成り立っているのではなく、

いろいろなヒト
いろいろなコト
いろいろなモノ

で構成されています。まさに仏教でいうところの“縁起”です。

さて、「花子とアン」のナレーションの担当は美輪明宏さんなのですが…
最後のしめくくりの言葉、

「ごきげんよう。さようなら。」

は、村岡花子さんが担当していた子ども向けのラジオ番組の最後の言葉と同じなんです。

「ごきげんよう。さようなら。」は当時の“流行語”にもなりました。
さてはさては、NHKさんは、再びこれを流行語にしようとたくらんでいる? のかもしれませんね。
春が来ました。
各地で桜が咲き始めています。

  花は桜木
  人は武士

という言葉があります。

潔く美しく散る… 花ならば桜で、人ならば武士、という意味です。
江戸時代からの言葉なのかな、と、思っていたのですが、文献的には平安時代の末期からあるようで、あんがいと古い言葉です。

命を惜しまず、戦いにのぞむ、という精神は、儒教道徳が武士階級に広がる江戸時代より以前からあるようです。

よって武士は桜を好みました。

ところが、潔く散る、というのは武士個人の問題であって、「家」は存続させなくてはなりません。
死をおそれぬ武士も、家が絶えてしまうことはおそれていたようで、10代後半には結婚して子をつくる、というのが通常で、30才代で「孫」がいる、という武士も少なくありませんでした。

桜を好むのは“個人の精神”においてのみ。よって「家」の象徴たる家紋には、武士は「桜」を用いません。
そりゃそうです。家が潔く散ってもらっては困るからです。

平安末期の、源平の争いなどにおいても、相手の家をつぶす、というような絶滅戦はけっこう避ける場合が多く、おもしろいことに、一族の中で、必ず誰か敵側にまわっている場合が多いのです。

「敗戦処理のときは、敗戦した側の家の断絶を図るような厳しい処断はしない。」
「どちらが勝っても、勝った側にいる人間が自らの手柄の一つの要求として、同じ一族の助命嘆願をする。」
「どちらかの家がどちらかの勝利で残る場合は参加する。」

という暗黙の“武士の作法”がありました。

保元の乱でも、

(後白河天皇方)源義朝・源頼政・平清盛・平信兼
(崇徳上皇方) 源為義・源頼憲・平忠正・平家弘

というように、源平いずれも敵側に存在しています。
しかし、このときは勝った後白河上皇方は、信西と清盛の“陰謀”で、

「自分もおじを斬るから、おまえも父を斬れ」

というような、旧来の作法を破って清盛が源氏の勢力削減を図った、と、言われています。
(このあたりの経緯は、拙著『超軽っ日本史』で詳細に扱っているので、源平の争乱に興味ある方は是非お読みください。)

平治の乱では、源頼政は、源義朝には従わず、平清盛に味方しており、平氏政権下では、源氏の長老として従三位という高位についています。

べつに平清盛は、源氏を断絶しようとしてはいません。後の「源頼朝」の系統からみたリクツであるだけなんです。

保元・平治の乱にこじつけるつもりはありませんが…
はるか後年、関ヶ原の戦い…

真田昌幸とその子、信之と信繁(幸村)…
昌幸と信繁は西軍に、信之は東軍に、それぞれ父子・兄弟、分かれて戦うことになります。
これも、考えようによっては中世以来の武家の作法にのっとった考え方のもので(血縁関係もふくめて)、同じような家中の「分裂」はよくみられます。

息子や娘を「人質」として差し出す、他の家に養子に出す、というのも、よく考えると、敵側に自家の血を注ぎ込むことによって「家」の存続をはかることができる制度でもあります。

人質に差し出す、一族の誰かは敵側にいる、そうして自分は「潔く美しく散る」ことができ、「武士個人」としての美学を貫けて、そうして「家」「血」は残すことができる。
相手を攻める側も、「滅ぼす」のではなく、ちゃんと「家」や「血」を残してやれる…

武士の戦いをみていると、何やら兄弟・親子の「骨肉の争い」のように見えますが、あんがいとうまく「家」と「血」を残すように「組み合わせられている」ことがわかります。

自分は死んでも、家と血は残す…
よって、その死にざまは、潔く、美しい、と、言われるわけです。

花は散る。
幹、根は残る。
武家の家。
第39回は「空海」でした。

空海… 弘法大師さまです。
聖徳太子以後で最大の宗教家といってもさしつかえはないでしょう。

そして『空海の風景』。司馬遼太郎の有名な小説です。
べつに司馬遼太郎さんを批判するつもりなどはありません。でも、彼が描いた歴史上の人物は、あくまでも「小説」としての人物なのですが、それが実在の歴史上の人物の理解に大きな影響をあたえていることは確かです。

坂本龍馬、斎藤道三など、小説を通じてこれらの人物を「知った」人も多いと思います。
でも、龍馬の実績は現在ではかなり再修正されていますし、斎藤道三にいたっては、二人(父と子)いたことがわかっていて、「国盗り」は父子二代の産物であるとがわかっています。
(詳しくは拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』「斎藤道三は二人いた?」「薩長は薩長同盟の前から同盟していた」の項をお読みください。)

さて、空海です。

空海の“伝説”(実話も含めて)には、やたら井戸を掘る話が出てきます。
奈良時代の行基もそうですが、農民のために各地に井戸を掘り、ため池をつくる…

治水事業と空海は密接な関係があります。
まさに「布施業」ですね。

空海は、佐伯田公(さえきのたきみ)の子として生まれました。
幼名は

真魚(まお)

です。

思いっきり時代を昔に飛ばしますが…

佐伯氏は讃岐の豪族です。
佐伯氏の祖は、『日本書紀』によると、ヤマトタケルノミコトが東征したさいに捕えた人々であったとされています。
伊勢神宮や三輪山に仕えさせたところ、昼夜騒いで人々に迷惑をかけた、よって景行天皇によって、彼らが讃岐・播磨・伊予・安芸・阿波の五か国にうつされた、と、いう話になっています。

うるさいっ 騒ぐな!

さわぐ、が転じて、「さわき」→「さえき」となった、という話です。

この「佐伯」と名をたまわった東国の人々なのですが…

常陸国『風土記』に、おもしろい記述があります。

 香島郡に、岩穴を掘って住む人々がいる。
 ヤマトの黒坂命がこの穴を閉じたので、穴に入れず討ちとられた。

佐伯の人々は、「穴を掘る」人々で、実際、讃岐・播磨・伊予・安芸・阿波で金属資源、砂鉄などを採取する、仕事に従事しています。

はるか後の世にうまれた空海は、空と海しか見えない岩窟の中で、口の中に明星が飛び込んで悟りを開いたと言われています。その後、諸国をめぐって、農民のために井戸を掘っていく、という話と、なにやらつながっているようでなんともおもしろいところです。

「魚」が「水」をもとめて井戸を掘ったりため池をつくったりした、という話ですね。

さて、司馬遼太郎の『空海の風景』なのですが…

司馬遼太郎さん、ちょっとひどいんですよ。あくまでも小説、として読まなければ、空海さんの人物像がずいぶんと変なことになってしまいます。

『三教指帰』は18才で著したみたいに書いてあるんですが、これ、24才の著作なんです。なんで18才としているんでしょう…(初版ではそうなっています。もう訂正されているのでしょうか…)

たぶん、空海は大学を18才のときに中退して、それを父に怒られるんですが、その弁明として著したのが『三教指帰』なので、そのときに書いた、と、思ってしまっているのでしょうか…

そしてその中退の理由を「性欲」のせいにしているんですよ。
何度も強調しておきますが、『空海の風景』は小説です。
空海が大学をやめた理由については研究者の間でいろいろ議論されていますが、こんな話は無いと思うのですが…

正式な僧(得度を受けた官僧)になるまでは、私度僧といいます。「僧」となったのは遣唐使の船に乗る直前でした。
18才で大学をやめて私度僧となって30才で正式な僧となる…

性欲になやんで大学をやめ、修行して性欲を克服して、正式な僧になった、みたいに『空海の風景』では書かれているんですが、え~ そんなふうな理解でほんとによいの??

と、思います。

「かれが正規に得度して官僧になるのは、遣唐使船に乗る前年である。」
「このころになってようやく僧になる自信を得たかとおもわれる。」

「禁欲についての自信を得たということではなく、禁欲という次元からはるかに飛翔し、欲望を絶対肯定する思想体系を、雑密を純化することによってかれながらに打ち樹てることができたときに僧になってもいいと思ったに違いない。」

司馬遼太郎さん独特の文体と術語で「それらしく」説明されちゃっていますが…
あくまでも『空海の風景』は小説です。「…おもわれる」「…違いない」というのはあくまでも司馬遼太郎さんのお考えです。

こはにわは、そんなに複雑に考えなくてもよいと思っています。

おシャカさまの事績に空海はならったんでしょ。
おシャカさまは、18才で出家して30才で悟りを開いた、というのが日本に伝わっている“伝説”です。

空海さんは、この12年間に修行なさっていたんですよ。突然、官僧になったのではなく、私度僧だけれど、仏教界ではそれなりに有名な人物であったと現在では考えられています。

「ほんの一年か二年前までは山野を放浪する私度僧だった…」わけではありません。

空海の乗った遣唐使船が到着予定地ではないところにたどりついたとき、なかなか上陸許可が出ませんでした。
このとき、大使にかわって、彼が文章を作成して提出すると、たちまち上陸の許可が出た、というのは有名な話です。
そこでも司馬遼太郎さんは、空海に“難癖”をつけているかのようです。

「大使の葛野麻呂のうろたえる姿を見つつ、手をさしのべなかったことについて、かれの奥床しさと見るのは、空海の性格からやや遠い。」

え… どういう根拠で??

「空海の生涯の行蔵からみて、謙虚という、都会の美学はもっていなかったと思われる。」
「かれがのちに謙虚さをみせる言動が多少あるにせよ、それは駆引きからくる演出にすぎなかったであろう。」

ひどいひどい! なんでこんなこと言うんでしょう…
空海さんがかわいそうになってきました。

空海は、農民のために「満濃池」を修築したことは有名です。讃岐の国司が都におくった書状には

「百姓恋ヒ慕フコト父母ノ如シ」

と記されています。

でも、満濃池の話のところでは、

「空海のずるいところであり、もし空海が大山師とすれば、日本史上類のない大山師にちがいないという側面が、このあたりにも仄見えるようでもある。」

これ、ひどくありませんか?

何度も何度も何度も申し上げますが『空海の風景』は小説です。

「謙虚という、都会の美学はもっていなかった」
「駆け引きからくる演出」
「日本史上類のない大山師」

『空海の風景』の中の「空海」さんについては、こはにわは“冤罪”が多いと思っています。
第38回は「上杉謙信」でした。

これはもう、戦国大名ベスト10、どころか、場合によってはトップ3の人気に入ってくる武将ですよね。
ほぼ国民的ヒーローかもしれません。

もちろん実在の人物ですが、こはにわとしてはできるだけ「等身大」の謙信を紹介したいと思います。

『戦争論』で有名なクラウセヴィッツは

 戦争の勝敗は、その戦争目的を達成したか否かにある。

と申しております。極論を言うと、その戦いで何か目的が達成できたならば、戦いそのものは敗北でもよい、という意味です。

このあたりは、謙信のライバルと言われてきた武田信玄はハッキリしていて、川中島の戦いなどでも、負けて引き上げている回があるようにみえますが、それは関東に攻め込んだ上杉軍を越後に引き上げさせるために川中島に進出し、同盟国を助ける、という作戦として展開していたもので、信玄の「負け」とカウントしたとしても、信玄の戦争目的が達成できていたとするなら信玄にとっては「勝ち」でもあるわけです。

江戸時代に流行した「甲州軍学」は、この点、クラウセヴィッツ型の戦争論です。
「甲州軍学」は、幕府の旗本・御家人、譜代大名の間で流行しましたが、それもそのはず、家康の家臣団は三河以来の武士たち以外にも旧武田家配下の武士たちも多く、「おれたちの御先祖さまは家康公も一目置く存在だったのだ」というのを「お家の誇り」としていました。

上杉謙信は、反クラウセヴィッツ的で、「戦争そのものに勝つ」ことが重要で、その後どうなるか、ということはいちいち考えない、とにかく「目の前の戦い」を一つ一つ勝っていくのだ、という感じです。

おもしろいことに、「甲州軍学」に対して、「越後軍学」というのも江戸時代流行しました。
武田信玄に対しては上杉謙信だっ という考え方ですね。
こちらは、謙信の家臣、宇佐美定行の子孫を自負する宇佐美定祐が始めたもので、彼は紀州藩の家臣でした。
徳川秀忠直系の本家筋が断絶すると、紀州家から吉宗が将軍となります。紀州家で始まった「越後軍学」は、従来の「甲州軍学」と対抗して広がるようになりました。
有名な「川中島合戦屏風」が和歌山にある理由がこれでおわかりでしょうか。

さぁ、ここから両派による、武田信玄・上杉謙信リスペクト合戦が始まります。

甲州軍学派は信玄だけでなく謙信も名将として描きます。
だって、相手がすごくて強いほうが、こちらの値打ちもあがるからです。
越後軍学派も謙信だけでなく信玄を名将として描きます。
だって、相手がすごくて強いほうが、こちらの値打ちもあがるからです。

こうして相互が相手と違う、「すごさ」と「強さ」を描いて強調していくようになり、現在に伝わる「信玄像」「謙信像」が完成していきました。

信玄・謙信両ファンの方には申しわけないところですが、二人の戦いの数多くの逸話は、虚構とは申しませんが、かなりの誇張として描かれていくようになりました。

二人の合戦史料の多くは江戸時代、それも18世紀に記されたものが多いのです。

ただ、当時の一級史料(同時代の記録)として知られる山科大納言言継の『言継卿記』には川中島の戦いの記録はみられ、

謙信は「自ら手を砕いていた」と記されているので、直接指揮で先頭きって戦っていたことは確かでしょうが、ただ、残念ながら、謙信・信玄の一騎打ちは、宇佐美定祐の“創作”です。

なるほど、実はたいしたことがなかったんだな~
そらそうだよな、よく考えたら、上杉謙信、あんだけ戦ったのに領土は増えていないもん。

と、逆に謙信を侮ってはいけません。

江戸時代のフィルターで歪められた戦国武将像は実に多いのですが、そのフィルターのせいで、かえってほんとうの「ものすごさ」「おもしろみ」が消えてしまうんですよね。

上杉謙信は、以前にもちょっと紹介したように、「戦国資本主義」をよく理解していた「経済大名」でもありました。
「あおそ」という繊維原料を交易品として輸出し、越後沿岸の港の「使用料」をとって、越後を日本海交易のハブとすることに成功していました。
謙信の軍資金は、この交易からあがる利益によって支えられており、本拠地の春日山城には、多くの金銀とそれによって購入された武器・武具が山積みされていたといいます。

いや、でも、領地がぜんぜん増えていないよね。おかしいやんっ

というツッコミは江戸時代にもされていたようで、だから作り上げられた伝説が、

「謙信公は義の人だ。私益ではなく義で動く。」
「たのまれたら何の得にもならなくても兵を率いて戦う」

となるわけです。
これだと領土が広がっていなくても、まったく問題はないわけですからね。

でも… 果たしてそんな「リクツ」をコネないと、謙信の領土が広がってない、ということに対する「言い訳」ができないのでしょうか?

H・U・ヴェーラーという歴史学者がいます。
彼は「社会帝国主義」という考え方を提唱していて、かんたんに言うと、

「国内のさまざまな分裂、対立している社会階層を一つにまとめるために、対外戦争を利用する。」

というものです。

つまり「共通の敵をつくると団結できる」の法則を用いる、という方法です。

越後は、山沿いは盆地も多く、それぞれの村が独立し、地元の有力者(国人)が多数存在していました。
それらを一つにまとめるのは容易なことではありませんでした。陰湿な内部対立や、足の引っ張り合い、というのがあり、なかなか「まとまり」をみせられません。

しかし、「外に敵をつくる」ことによって、国内を一つにまとめる、ということは、こういう環境下にはよく起こることなのです。
これは、越後だけの問題ではありません。

中国地方もよく似た情勢で、「だれか」強い存在にまとめてもらおう、という意識が働く場合もあるのです。

越後の場合は、それが謙信のキャラクターと相まって、苛烈に表現されました。

内にあっては経済政策を充実させ、外にあっては「敵」をつくって、内部の対立を解消する、という方法です。

よって謙信は戦い続けました。
場合によっては強引な理由をつけてでも…

家臣たちもそうしなければ、細かい利害対立が相互にあり、まとまらなくなって分裂・崩壊してしまいます。

それが証拠に、一時、謙信が国内の内部対立に腹を立て、ストライキ(引退)を宣言したことがあります。
これには、家臣・豪族たちは参りました。「共通の敵」と戦うためには「共通の盟主」が必要なのです。
すでに、謙信なくては国内がまとまらないことがわかっていたのです。
謙信に誓紙を差し出し、「もうしわけありませんでした。今後はこのようなことがないようにいたします。どうか盟主となってください。」と一同頭を下げるハメになりました。

関東に攻め入り、信州に乗り込み、一見、何の利益にもならないのに謙信に率いられて出撃しながら、越後の細かな利害対立を乗り越えて(忘れて)団結していく、ということが進行していくことになりました。

その点、謙信もクラウセヴィッツ的だったわけです。

領土なんか増えなくても、戦争によってそれ以上の利益と統合を国内にもたらす。
「戦争目的」は達成していたのですから。

ただね…
やはり上杉謙信はすごいのですよ。凡人では戦国社会帝国主義は実行できません。
カリスマ性、指導者としての魅力、そのようなところがなくては「共通の敵」を倒す「共通の盟主」とはなりえません。

それに、きっと彼自身、戦う、ということが好きだったのだと思います。

この点、打ち合わせのとき、プロデューサーの奈良井さんが実に巧みに表現してくださいました。

「そうですよね~ 最初は儲けるつもりで始めた株のトレーディングが、そのうち儲け抜きで、トレーディングそのものがおもしろくなってしまって、利益はどうでもよくてトレーディングそのものに没頭するという人、出てきますもんね~」

そういう謙信のキャラクターが、「戦国社会帝国主義」の実行にピッタリだったのだと思います。

大車輪で回転していた上杉謙信…
突然、彼は倒れました… 卒中であったと言われています。
織田信長を倒すために西征する前日だったとも、関東地方への遠征を再開する前日だったともいわれています。

なんと彼が死んだその日に、後継者争い、「御館の乱」が起こりました。たちまち家中が分裂…

共通の敵をつくって団結させていた盟主が消えた瞬間、分裂が始まる…

やはり越後はこの方法でなければまとまっていなかった、という明白な証拠だと思うんですよね。

 とにかく戦うのだ。
 その後にどうなるかは問題ではない。
 目の前の戦い、一つ一つに勝っていくことが重要なのだ。(上杉謙信)
人気の朝ドラ、「ごちそうさん」がついに最終回でした。

“満州の豚の丸焼き”

こはにわは、祖父を思い出してしまいました。
祖父は満州からの「引揚者」で、軍関係の仕事をしていたようです。

「軍閥の××(何と言うていたか記憶がないのですが)に料理をごちそうになったことがあったな。相手はえらいさんや。同席なんかはでけなんだけれど、そら豪勢な料理やったで。」

と、話してくれました。

その中で、豚の丸焼き、というのが出てきたそうです。
子どものときに何度もその話を聞かされ、「食べたいなぁ」とずっと思っていました。

最終回のあの「豚さん」は料理されてしまったのでしょうか… できれば、おいしい豚料理をみんなで囲んでおしまい、という場面が見たかった気がしますが、「復員兵」「引揚者」と、残された家族との再会、ということを粗描したあの最終回の場面に感動した人も多かったことでしょう。

さて、番組を通じて「復員」「引き揚げ」という言葉が出てきましたが、ちょっとこのあたりの話は、実は学校教育ではあまりクローズアップされていないところなので、今回、ちょっと説明しておきたいような気がしました。

日本は、ポツダム宣言を受諾しました。そして、降伏、ということになったのですが、この段階で、海外に在住していた日本人は、軍および民間人、合計670万人であったと推定されています(諸説あり)。

このとき、連合軍側は、世界史上、類例のない「作戦指令」を出したことは知られていませんし、あ、そうだったんだ、と思われる方も多いので取り上げておきますと…

この660万人をすべて日本に帰還させる、ということをしたのです。

え?? そういわれても、それがそんなにすごいことなの?

という反応の方が多いのですが、いろいろな意味で第二次世界大戦後の日本に対する「処置」は特別なものでした。

かつて戦争において、本国が他国との戦争に敗れたという理由で、外国に住んでいる人たちがすべて帰国させられた、という例が無い、ということをご存知だったでしょうか?

日本人は「まぁ、戦争に負けたんだから、しょうがないか」というめちゃくちゃ「大きな感覚」ですべてを受け入れていますが、ずいぶんと「特殊な事例」が戦後から独立までの間に起こっているんですよ。

600万人をこえる民族の大移動が始まりました。

GHQの指示のもと、全国に帰国者(以後、引揚者と申します)専用の寄港地が10ヶ所指定されました。
うちの祖父の話をもとに、以下、続けていきたいので、祖父が帰還した舞鶴港での話が中心となります。

引き揚げは昭和20年から33年まで続きました。そして、引揚者のための港の最後の港が舞鶴港です。

外国には670万人の日本人(半数が民間人)、国内には朝鮮人・中国人250万人が住んでいて、軍隊は

 ポツダム宣言第9条

によって、復員させられていきましたが、なんと一般人は「自分で」日本に帰国しなくてはならなかったのです。

昭和21年の段階で、500万人の引き上げが完了、朝鮮人・中国人も120万人が送還されています。
わずか一年間で620万人以上の大移動が起こったのでした。

引き揚げさせるための船なんかほとんどありませんでした。すべての船舶あわせても130隻しかなく(終戦直前の日本の状態が推測できます)、当然、経済活動のために必要な輸送船などを差し引くと、引き揚げに使用できる船などありません。

そこでGHQが、病院船6隻を含む191隻の船を用意して、日本政府に供与しました。

海外に残っていた日本人居住者の区域は、GHQ指令第1号によって5つの軍管区に分けられます。

小笠原諸島、南太平洋諸島、フィリピン、朝鮮半島南部は、アメリカ軍管区で99万人。この管区の引き上げがもっともスムーズで昭和22年で完了しました。

オーストラリア軍管区はボルネオやニューギニア、ソロモン諸島などで14万人。これも昭和23年には引き上げが終わりました。同じく、東南アジア・ホンコンなどはイギリス・オランダ軍管区で、75万人の引き上げが昭和23年に完了しています。

かなり遅れるのが、中国軍管区とソ連軍管区です。

台湾・中国(満州のぞく)・北ベトナムには200万人いましたが、昭和24年にはここから270万人が帰国しています。

あれれ?? 70万人、増えてますよね… なんだこりゃ… と、思ったら、これが祖父と同じルートによる引揚者で、ソ連が満州に侵攻する前(あるいはその日)に中国へ逃げた人たちです。

満州から中国へ逃げ、そうして日本に帰る、という「回避」ルートをとった70万人なんですよね。
もっというと、ソ連が満州から撤退した後、さらに中国へ逃れて出てきた人たちがいました。この人たちの帰還が昭和33年までかかったのです。

ソ連軍管区は最悪でした。満州・朝鮮半島北部・樺太および千島。
ここにも300万人近い人々がいたはずなのですが、ソ連は日本に対してまったく何の情報も伝えてこなかったのです。

満州には160万人ほどいたはずですが、そのうち17万人が戦後に死亡しています… 戦争が終わってから、この地で在留邦人の約10%が亡くなっているんですよ!

10%の死亡、といえば、ソ連軍は占領地域から60万人をシベリアへ連行し、強制労働に従事させ、そのうち、6万人が死亡しています…

さて、「復員」というのは、軍人を民間人に手続き上戻す、という意味です。
陸軍省は第一復員局、海軍省は第二復員局、というように改組され、昭和21年には

復員庁

が設立され、全員帰還をめざしてその業務が遂行されていきました。
詳しくは知りませんが、祖母の話では、舞鶴での復員者の事務をしばらく祖父本人だったか祖父の友人だったかが手伝っていたようなのですが、詳しい話はいっさいしてはくれておりません。

たった一言。「舞鶴でたくさんの人が死なはったんやで。」

港に着いて、そこで亡くなった人が300人ほど、舞鶴にもどる船の中で死んだ人が60人ほどいたそうです…

昭和25年のことです。ソ連は突然、

「ソ連占領地域からの日本人の引き上げは完了した。」

と、一方的に通知します。40万人近くが帰還していないというのに…

あのときの戦争はまだ「歴史」にはなっておりません。
多くの人の「記憶」である以上、感情的にならずに議論することは「まだ」できないのでしょうね。