この細川政元こそ、“魔法使い”“半将軍”と呼ばれた人物です。
え?? まほうつかい???
ほんとなんです。何でも彼の思うように事態が進んだし、彼の都合のよいタイミングで誰かが乱を起こしたり誰かが死んだり…
ですから、「魔法を使ったのだ」と言われました。
彼が細川家の家督を継いだときは、応仁・文明の乱の「最中」でした。
ただ、申しましたように、激しい戦闘というのは最初の一年間だけで、あとは、小競り合いや「放火合戦」。
お互いがお互いの力を誇示するために、寺院や寺社に火を放つ…
相手の食料輸送を襲う…
兵力が多いようにみせかけるために、農民たちに軽武装させ、兵(のようにみせかける)としました。(これが貴族や寺社に“悪名高い”足軽になるわけです。)
戦いで焼け野原になった、というより、こういう放火や足軽による略奪が原因。
この時代、日記などの記録を残せるのは寺院の僧や寺社の神官、貴族などの文字を知る“インテリ”層だけですから、応仁の乱の記述の半分は、自分自身の“被害”の訴えとそれをもたらした雑兵たちへの憎悪を書きつづっているわけです。
ですから、「あたり一面焼け野原」「何も残らなかった」「ここはこういう寺院だったのに…」「ここは○○の屋敷があったのに…」と、さも、京都全域が荒れ果てたように説明していますが、大きな寺院、貴族の屋敷、および市内での戦闘地域であった、「二条より北」が焼け野原で、南の商工業地域はほぼ被害をまぬかれていました。
ここでも記録にみられる誇張があります。
ただ、それには理由があり、「日記」というのは、単なるブログやツィートではなく、
「こういう被害があった」「ここはおれの土地だった」「ここには寺院があった」
と、記録することによって、戦後の自身の財産の証拠、権利主張になったのです。
貴族の多くは、地方(自分の荘園があるところ)へ“疎開”し、それゆえ、
「都の文化が地方に波及した。」
という「効果」も教科書では説明されています。
さてさて、細川政元です。
彼は、わずか8才で、細川家の後継者になりました。死の床にあった細川勝元は、息子と一族、家臣を集めて
「この子がいるかぎり細川家は安泰だ。」
と、宣したといいます。
“観音さまの生まれ代わり”“天才少年”“軍神がついている”
などなど、早くも幼少から“魔法使い”に育つ“下地”が出来上がっていました。
でも… これ、こはにわのカンなんですが…
申しましたように、細川勝元が死ぬときは、まだ応仁・文明の乱は終息してない時期です。
勝元は、家臣らを集めてあえてこう説明することによって、
「幼い当主となっても大丈夫だ。」
と、“安心させた”のではないでしょうか。万事念入りな男だったですし…
それに、山名持豊の息子を最初は後継ぎにしようとしてそれを廃し、政元を後継者にするためには、
「神童だ」「天才だ」「将来有望だ」
と、流布しておく必要があったようにも思います。
歴史上、幼い人物が当主になると、よく力を持つ家臣が当主を“傀儡”にし、やがて国を奪う、というとがあります。
でも、幼い人物が当主になったからといって、みな、そんなようになるとは限りません。
ついつい、「ああ、子どもだったからしょうがないな」と、簡単に歴史上の評価をくだしてしまいますが、こはにわは結局、「人」だと思っているんですよ。
「幼いから」という理由だけでは、家臣に力を奪われるとは限りません。
「幼くても聡明である」「能力がある」ときもあります。
君主が幼いと、家臣が乗っ取る、とは限りません。
その家臣の資質、性格、なども当然影響します。
幼くても聡明で、家臣に野心がなく… という「人的要素」がそろえば、下剋上は起こりません。
もっともっと「人」そのものの性格や心理の分析を歴史に取り入れてもよいと思うんです。
実際、政元は8才で家督を継ぎ、分家の細川政国という人物が補佐していますが、後に細川政国は細川本家を乗っ取りもしませんし、政元も後に「幕府を動かす独裁者」に成長していきます。
では、政元の“魔法使い”ぶりを紹介していきましょう。
(次回に続く)
応仁の乱、というのは、世界でもめずらしい戦闘で、11年間の戦いをしているのに、主だった武将は誰一人戦闘で死んでいません。
また、「東軍」「西軍」と説明してしまうもので、ついつい関ヶ原の戦いのような、一戦を想像してしまいますが、そのような「対戦」形式でもありません。
それぞれの大名家の相続争いや各地の事情に合わせて戦っているので、複数の争いの集合体である、と、理解しておいたほうがよいと思います。
というのも、実際の戦闘が開始されると、「西軍」「東軍」という考え方はしだいに溶融してしまい、途中で、西軍と東軍の「大将」が入れ替わってしまうのです。
(西軍)足利義尚・山名持豊・畠山義就・斯波義廉
(東軍)足利義視・細川勝元・畠山政長・斯波義敏
と、教科書では説明されていますが、これは「開戦」前と直後の状態なだけなのです。
細川勝元の東軍の陣(花の御所)には、なんと足利義政も義尚も妻の富子もいるんですよ。
はぁ?? なんじゃそりゃ?
と、思うでしょ。ふつう西軍の側に日野富子や足利義尚がいる、みたいなイメージがあるじゃないですか。東軍が守る花の御所に、足利義政・義尚・義視・日野富子がいっしょにいてる、という世にも不思議な「東西対決」になっているんです。
この状態の中で、なんと東軍の大将、足利義視が伊勢国へ“逃亡”してしまうんです。
で、なんと、西軍のほうが、足利義視を受け入れて、大将にしてしまい、足利義政も義視を見限り、義尚を正式な将軍にする、と、決めました。
やはり『応仁記』の記述がおかしい、と、考えたほうがこの現象は説明しやすくなります。
日野富子は足利義尚を将軍に推してほしい、とは、山名持豊に要請していない、ということなんですよね。
畠山義就と政長が京都で戦闘を開始する。
細川勝元と山名持豊はケンカしている。
それと将軍家の争いは「別」。
細川勝元にすれば、自分が管領として幕府の政治をおこなえるならば、正直、将軍は「どちらでもよい」わけで、実際に、義視が退けられて義尚が将軍となっても、東軍の将として戦闘は続けているわけです。
山名持豊も、将軍足利義政を擁している細川と対決するためには、旗頭として足利義視を受け入れるほうが都合がよいわけだったのですね。
あ、すっかり言い忘れていました。
細川勝元と山名持豊の“決別”には、もう一つ理由があったんです。
細川勝元は、最初、子どもがおらず、山名持豊の子の一人を養子にしていたんです。
ところが、なんと子が生まれ、養子にしていた山名の息子を、なんと出家させてしまったのです。
Aの後継者として、Bを後継者としたが、やっぱりやめてCとした。
という法則… 細川家でもやっぱり適用できたんです。
このCが、細川政元、です。
そしてこの政元こそ… (次回に続く)
また、「東軍」「西軍」と説明してしまうもので、ついつい関ヶ原の戦いのような、一戦を想像してしまいますが、そのような「対戦」形式でもありません。
それぞれの大名家の相続争いや各地の事情に合わせて戦っているので、複数の争いの集合体である、と、理解しておいたほうがよいと思います。
というのも、実際の戦闘が開始されると、「西軍」「東軍」という考え方はしだいに溶融してしまい、途中で、西軍と東軍の「大将」が入れ替わってしまうのです。
(西軍)足利義尚・山名持豊・畠山義就・斯波義廉
(東軍)足利義視・細川勝元・畠山政長・斯波義敏
と、教科書では説明されていますが、これは「開戦」前と直後の状態なだけなのです。
細川勝元の東軍の陣(花の御所)には、なんと足利義政も義尚も妻の富子もいるんですよ。
はぁ?? なんじゃそりゃ?
と、思うでしょ。ふつう西軍の側に日野富子や足利義尚がいる、みたいなイメージがあるじゃないですか。東軍が守る花の御所に、足利義政・義尚・義視・日野富子がいっしょにいてる、という世にも不思議な「東西対決」になっているんです。
この状態の中で、なんと東軍の大将、足利義視が伊勢国へ“逃亡”してしまうんです。
で、なんと、西軍のほうが、足利義視を受け入れて、大将にしてしまい、足利義政も義視を見限り、義尚を正式な将軍にする、と、決めました。
やはり『応仁記』の記述がおかしい、と、考えたほうがこの現象は説明しやすくなります。
日野富子は足利義尚を将軍に推してほしい、とは、山名持豊に要請していない、ということなんですよね。
畠山義就と政長が京都で戦闘を開始する。
細川勝元と山名持豊はケンカしている。
それと将軍家の争いは「別」。
細川勝元にすれば、自分が管領として幕府の政治をおこなえるならば、正直、将軍は「どちらでもよい」わけで、実際に、義視が退けられて義尚が将軍となっても、東軍の将として戦闘は続けているわけです。
山名持豊も、将軍足利義政を擁している細川と対決するためには、旗頭として足利義視を受け入れるほうが都合がよいわけだったのですね。
あ、すっかり言い忘れていました。
細川勝元と山名持豊の“決別”には、もう一つ理由があったんです。
細川勝元は、最初、子どもがおらず、山名持豊の子の一人を養子にしていたんです。
ところが、なんと子が生まれ、養子にしていた山名の息子を、なんと出家させてしまったのです。
Aの後継者として、Bを後継者としたが、やっぱりやめてCとした。
という法則… 細川家でもやっぱり適用できたんです。
このCが、細川政元、です。
そしてこの政元こそ… (次回に続く)
応仁の乱の人物関係を示す一つの公式があります。
・Aの後継者として、Bを後継者としたが、やっぱりやめてCにした。
AをとりまくX
BをとりまくY
CをとりまくZ
あとは、これに登場人物をあてはめていけば、応仁の乱のややこしい人物関係が少しは整理しやすくなります。
8代将軍、足利義政は、引退を決意して弟の足利義視を後継者とします。ところが、妻の日野富子に子(足利義尚)が生まれてしまいました。
義政は、将軍ではありましたが、仕事はすべて義視にまかしていたので、すでに義視は将軍代行という仕事を始めていました。
妻の日野富子としては、将軍をやはり子の義尚にしたい…
ここで足利氏内部の対立が激化していきます。
(A:義政 B:義視 C:義尚)
管領の畠山家では、畠山持国に子がおらず、弟の畠山持富を後継者とします。ところが子(畠山義就)が生まれてしまいました。
持富が死んだ後、弥三郎と政長という子どもがいたのですが、「この人たちのほうが後継者としてふさわしいやろ」というグループと、「子の義就さんのほうがよいでしょ」というグループが対立してしまうことになります。
ここで畠山氏内部の対立が激化していきます。
(A:持国 B:持富・弥三郎・政長 C:義就)
細川勝元は「管領」という幕府の公式なお仕事をする役職にいます。
「管領」は「将軍」の補佐です。ですから、義政を助けその引退後は、将軍の代行者、義視を助けて政治をしていました。
その立場から考えると、おわかりかと思いますが、勝元は義視を支持しています。
よって、畠山家の中でも、足利家と「同じ状態」にあった、弥三郎・政長の兄弟を支持しました。
もう一つの管領家、斯波家内部でも対立がありました。
斯波義敏の後継者を子の松王丸(斯波義寛)としていたのですが、遠縁の斯波義廉が将軍足利義政によって後継者とされてしまい、義敏・松王丸派と義廉派に分かれて対立することになってしまったのです。
管領の細川勝元は、同じように、義敏・松王丸を支持しています。
(A:義敏 B:松王丸 C:義廉)
ややこしいことに、斯波義廉の母は、山名氏出身なんですよね… 山名持豊(宗全)としたら、義廉を支持して義廉が管領となっていてくれたほうが都合がよい…
この斯波氏のお家騒動をきっかけに、山名持豊と細川勝元がしだいに対立していくようになるわけです。
細川勝元にすれば、父の代から畠山持国と対立し、それと対抗するために山名持豊と手を組み(持豊の娘を妻とする)、力を伸ばしてきましたが、山名氏の勢力がしだいに強くなっていくことになったため、これを抑えなくてはならない、と、考えるようになったのです。
さらに… 心理学的なことも申し上げておきますと…
山名持豊は、もともと山名家を継ぐはずではなかった人物なんです。
山名時煕の三男で、兄の持煕が後継者のはずだったのですが、当時の将軍足利義教が「持煕ではなく、持豊を山名家の後継者にする!」と命じて、持豊が山名家を継いだんです。
父の死後、兄の持煕と後継者争いをして激しい戦いをおこなっているんですよ。
これ、
Aの後継者として、Bを後継者としたが、やっぱりやめてCとした。
の「公式」の、Cに該当したのが、山名持豊自身だったんですよね。
もうわかるでしょ。
山名持豊としては、Cの立場にある人物は、かつての自分の立場にあるんです。
足利家では、義尚を支持したくなるし、畠山家では義就を支持したくなるし、斯波家では義廉を支持したくなる、という「気持ち」もわかると思います。Bを支持することは「自己否定」になりかねません。
歴史は、人がつくっていくもの…
制度や経済が人を動かす、と言うことは否定しませんが、もっともっと、「人の気持ち」、が、歴史を動かす原因になった、ということをクローズアップしてもよい、と、思うんですよね…
(東軍)
足利義視・細川勝元・畠山政長・斯波義敏
(西軍)
足利義尚・山名持豊・畠山義就・斯波義廉
という「対立構造」ができあがることになりました。
さて、こうして始まる応仁の乱ですが、世界史上稀にみる、おもしいろ戦いだったことがわかります。それは…
(次回に続く…)
・Aの後継者として、Bを後継者としたが、やっぱりやめてCにした。
AをとりまくX
BをとりまくY
CをとりまくZ
あとは、これに登場人物をあてはめていけば、応仁の乱のややこしい人物関係が少しは整理しやすくなります。
8代将軍、足利義政は、引退を決意して弟の足利義視を後継者とします。ところが、妻の日野富子に子(足利義尚)が生まれてしまいました。
義政は、将軍ではありましたが、仕事はすべて義視にまかしていたので、すでに義視は将軍代行という仕事を始めていました。
妻の日野富子としては、将軍をやはり子の義尚にしたい…
ここで足利氏内部の対立が激化していきます。
(A:義政 B:義視 C:義尚)
管領の畠山家では、畠山持国に子がおらず、弟の畠山持富を後継者とします。ところが子(畠山義就)が生まれてしまいました。
持富が死んだ後、弥三郎と政長という子どもがいたのですが、「この人たちのほうが後継者としてふさわしいやろ」というグループと、「子の義就さんのほうがよいでしょ」というグループが対立してしまうことになります。
ここで畠山氏内部の対立が激化していきます。
(A:持国 B:持富・弥三郎・政長 C:義就)
細川勝元は「管領」という幕府の公式なお仕事をする役職にいます。
「管領」は「将軍」の補佐です。ですから、義政を助けその引退後は、将軍の代行者、義視を助けて政治をしていました。
その立場から考えると、おわかりかと思いますが、勝元は義視を支持しています。
よって、畠山家の中でも、足利家と「同じ状態」にあった、弥三郎・政長の兄弟を支持しました。
もう一つの管領家、斯波家内部でも対立がありました。
斯波義敏の後継者を子の松王丸(斯波義寛)としていたのですが、遠縁の斯波義廉が将軍足利義政によって後継者とされてしまい、義敏・松王丸派と義廉派に分かれて対立することになってしまったのです。
管領の細川勝元は、同じように、義敏・松王丸を支持しています。
(A:義敏 B:松王丸 C:義廉)
ややこしいことに、斯波義廉の母は、山名氏出身なんですよね… 山名持豊(宗全)としたら、義廉を支持して義廉が管領となっていてくれたほうが都合がよい…
この斯波氏のお家騒動をきっかけに、山名持豊と細川勝元がしだいに対立していくようになるわけです。
細川勝元にすれば、父の代から畠山持国と対立し、それと対抗するために山名持豊と手を組み(持豊の娘を妻とする)、力を伸ばしてきましたが、山名氏の勢力がしだいに強くなっていくことになったため、これを抑えなくてはならない、と、考えるようになったのです。
さらに… 心理学的なことも申し上げておきますと…
山名持豊は、もともと山名家を継ぐはずではなかった人物なんです。
山名時煕の三男で、兄の持煕が後継者のはずだったのですが、当時の将軍足利義教が「持煕ではなく、持豊を山名家の後継者にする!」と命じて、持豊が山名家を継いだんです。
父の死後、兄の持煕と後継者争いをして激しい戦いをおこなっているんですよ。
これ、
Aの後継者として、Bを後継者としたが、やっぱりやめてCとした。
の「公式」の、Cに該当したのが、山名持豊自身だったんですよね。
もうわかるでしょ。
山名持豊としては、Cの立場にある人物は、かつての自分の立場にあるんです。
足利家では、義尚を支持したくなるし、畠山家では義就を支持したくなるし、斯波家では義廉を支持したくなる、という「気持ち」もわかると思います。Bを支持することは「自己否定」になりかねません。
歴史は、人がつくっていくもの…
制度や経済が人を動かす、と言うことは否定しませんが、もっともっと、「人の気持ち」、が、歴史を動かす原因になった、ということをクローズアップしてもよい、と、思うんですよね…
(東軍)
足利義視・細川勝元・畠山政長・斯波義敏
(西軍)
足利義尚・山名持豊・畠山義就・斯波義廉
という「対立構造」ができあがることになりました。
さて、こうして始まる応仁の乱ですが、世界史上稀にみる、おもしいろ戦いだったことがわかります。それは…
(次回に続く…)
第40回はファミリーシリーズ、「ゆかいな細川ファミリー」でした。
「いや、藤原でもギリギリやのに、細川って誰やねんってなるで」
とは、われらが歴史堂の主管、コヤブさんが開口一番おっしゃったことです。
歴史好きか、入試で日本史を選択した人以外は、せいぜい「ああ、そういや聞いたことあるかな」というくらいでしょう。
室町幕府は、守護大名たちの“連合政権”のような感じでした。
南北朝の争乱を通じて、それぞれがそれぞれの事情で離合集散しつつ、義詮、義満までの間にようやく「まとまり」をみせていきます。
「ゴッドファーザー」という有名な映画がありましたが、足利家および将軍は、“ゴッドファーザー”で、守護大名というそれぞれの縄張りを持ついろいろなグループの束ね役、という理解だと、イメージしやすい場合もあります。
七つの家が足利家を中心に幕府の政治を動かしていました。
細川・斯波・畠山・山名・一色・京極・赤松
そして代々、管領を任ずるのが「三管領」とよばれる細川・斯波・畠山。
そして代々、侍所の長官を任ずるのが「四職」とよばれる山名・一色・京極・赤松。
室町幕府は鎌倉幕府の機構を引き継いでいるので、政治機関の名称はよく似ています。
(鎌倉)将軍-執権-政所・侍所・問注所
(室町)将軍-管領-政所・侍所・問注所
あれ… ほとんどいっしょやん、と、思うと失敗しますから受験生のみなさんはご注意ください。
鎌倉幕府では、政所は財政、侍所は御家人の統率(軍事・警察)、問注所は訴訟、と、三権分立が図られていたようにみえるのですが、室町幕府では、問注所は文書の保管、という政治的な機関としての意味合いがほぼなくなり、かわって、侍所が「軍事・訴訟」を扱うようになります。
よって、この侍所の長官は、鎌倉幕府以上に政治上の大きな権限を握っていました。
さて、細川勝元です。父のあとを継いで細川家を継いだのが13才。そしてなんと管領には16才で就任しています。
ただ、現在の16才、ということとこの時代の16才はまったく違うのですが、それにしても16才で管領、というのは若い(20才をこえているケースがほとんどですから)といえます。
細川一族は、全国9ヶ国を支配し、そのうちの4ヶ国(摂津・丹波・讃岐・土佐)は細川勝元のものでしたから、かなりの大勢力です。
入試で登場する細川勝元ですが、これは1467年の応仁の乱のキーマンの一人として紹介されます。
歴史の授業では、「三管領四職」が紹介され、その中心の管領の実力者細川勝元と、四職の実力者山名持豊(山名宗全)が対立し、将軍や管領の後継ぎ争いから応仁の乱が始まった、と、紹介されます。
ただ、もはやこの説明は現在では誤りをいくつか含んでいることになります。
まず、「三管領四職」ですが…
最近では「五職」という考え方も有力になってきています。
美濃国の守護、土岐氏も侍所の長官に複数回、任じられています。
「四職」にせよ「五職」にせよ、当時の呼称ではないわけですね。
三管領のほうは、だいたい「細川・斯波・畠山」でもよさそうなのですが…
応仁の乱以降は、赤松(具体的には赤松政則)も任じられています。
日本人は、「数字でくくる」のが好きですから、ついついこういう呼称で呼びたがりますが、かえって固定観念や偏見を生むので、あんまり「三管領四職」と言わないほうがよい気がします。
「管領に任じられた守護ではないものを選べ」
「侍所の長官に任じられたことがないものを選べ」
な~んて問題をうっかり出題してしまい、選択肢の中に赤松や土岐を含んでしまうと、それは間違い、ということになります。
ですので、実際の入試では「三管領四職」についての出題は激減し、問い方を変えるようになっています。
それから、「応仁の乱」という呼称も、最近の教科書では「応仁・文明の乱」と呼ぶようになってきました。こちらのほうはよりシンプルで、応仁年間だけでなく、文明年間にも戦いが及んでいるからです。
それから、ややこしいのは、
「細川勝元と山名持豊(宗全)の対立」
です。
まず、細川勝元は16才という若年で管領になりました。細川家は父の代から畠山氏と対立していて畠山持国に対抗する必要がありました。
そこで、嘉吉の乱で、赤松氏を攻撃して(赤松の領地を一部手に入れて)力をつけていた山名氏に「接近」します。
この時代の「接近」とはほぼ政略結婚を意味します。
で、山名持豊の娘を細川勝元はもらうことになりました。
つまり、細川勝元と山名宗全は「親子」なんですよ。(社会の先生でも、歴史がご専門でないと、あんがいと知らない人が多いんです。)
で、畠山氏の勢力削減のために、細川・山名は「協力」することになります。
畠山家の後継ぎ争いがおこり、畠山義就と政長が対立すると、二人は政長を支援しました。
また、足利義政が赤松氏の復活を計画すると(山名にとってはせっかく得た旧赤松の領地をとりあげられるおそれがあるので困る)、山名持豊に代わって細川勝元が将軍を説得してその計画を取り下げさせているんです。
ずいぶんと二人は「仲良し」です。
それから、将軍の後継ぎ問題で、義政の妻、日野富子が、山名持豊に足利義尚の支援を要請した、という話も、現在では疑問視され始めています。これ、後に書かれた『応仁記』にしか出てこない話で、当時の一級史料には、まったく記されていない話…
ほぼ歴史小説並の話なんですよね…
(応仁・文明の乱の新しい研究に基づいたお話しは拙著『超軽っ日本史』にまとめてありますので、機会があれば御一読ください。)
仲が良かった細川勝元と山名持豊…
なぜ、二人は争い、東軍西軍のそれぞれ一方の長となったのか… (次回に続く)
「いや、藤原でもギリギリやのに、細川って誰やねんってなるで」
とは、われらが歴史堂の主管、コヤブさんが開口一番おっしゃったことです。
歴史好きか、入試で日本史を選択した人以外は、せいぜい「ああ、そういや聞いたことあるかな」というくらいでしょう。
室町幕府は、守護大名たちの“連合政権”のような感じでした。
南北朝の争乱を通じて、それぞれがそれぞれの事情で離合集散しつつ、義詮、義満までの間にようやく「まとまり」をみせていきます。
「ゴッドファーザー」という有名な映画がありましたが、足利家および将軍は、“ゴッドファーザー”で、守護大名というそれぞれの縄張りを持ついろいろなグループの束ね役、という理解だと、イメージしやすい場合もあります。
七つの家が足利家を中心に幕府の政治を動かしていました。
細川・斯波・畠山・山名・一色・京極・赤松
そして代々、管領を任ずるのが「三管領」とよばれる細川・斯波・畠山。
そして代々、侍所の長官を任ずるのが「四職」とよばれる山名・一色・京極・赤松。
室町幕府は鎌倉幕府の機構を引き継いでいるので、政治機関の名称はよく似ています。
(鎌倉)将軍-執権-政所・侍所・問注所
(室町)将軍-管領-政所・侍所・問注所
あれ… ほとんどいっしょやん、と、思うと失敗しますから受験生のみなさんはご注意ください。
鎌倉幕府では、政所は財政、侍所は御家人の統率(軍事・警察)、問注所は訴訟、と、三権分立が図られていたようにみえるのですが、室町幕府では、問注所は文書の保管、という政治的な機関としての意味合いがほぼなくなり、かわって、侍所が「軍事・訴訟」を扱うようになります。
よって、この侍所の長官は、鎌倉幕府以上に政治上の大きな権限を握っていました。
さて、細川勝元です。父のあとを継いで細川家を継いだのが13才。そしてなんと管領には16才で就任しています。
ただ、現在の16才、ということとこの時代の16才はまったく違うのですが、それにしても16才で管領、というのは若い(20才をこえているケースがほとんどですから)といえます。
細川一族は、全国9ヶ国を支配し、そのうちの4ヶ国(摂津・丹波・讃岐・土佐)は細川勝元のものでしたから、かなりの大勢力です。
入試で登場する細川勝元ですが、これは1467年の応仁の乱のキーマンの一人として紹介されます。
歴史の授業では、「三管領四職」が紹介され、その中心の管領の実力者細川勝元と、四職の実力者山名持豊(山名宗全)が対立し、将軍や管領の後継ぎ争いから応仁の乱が始まった、と、紹介されます。
ただ、もはやこの説明は現在では誤りをいくつか含んでいることになります。
まず、「三管領四職」ですが…
最近では「五職」という考え方も有力になってきています。
美濃国の守護、土岐氏も侍所の長官に複数回、任じられています。
「四職」にせよ「五職」にせよ、当時の呼称ではないわけですね。
三管領のほうは、だいたい「細川・斯波・畠山」でもよさそうなのですが…
応仁の乱以降は、赤松(具体的には赤松政則)も任じられています。
日本人は、「数字でくくる」のが好きですから、ついついこういう呼称で呼びたがりますが、かえって固定観念や偏見を生むので、あんまり「三管領四職」と言わないほうがよい気がします。
「管領に任じられた守護ではないものを選べ」
「侍所の長官に任じられたことがないものを選べ」
な~んて問題をうっかり出題してしまい、選択肢の中に赤松や土岐を含んでしまうと、それは間違い、ということになります。
ですので、実際の入試では「三管領四職」についての出題は激減し、問い方を変えるようになっています。
それから、「応仁の乱」という呼称も、最近の教科書では「応仁・文明の乱」と呼ぶようになってきました。こちらのほうはよりシンプルで、応仁年間だけでなく、文明年間にも戦いが及んでいるからです。
それから、ややこしいのは、
「細川勝元と山名持豊(宗全)の対立」
です。
まず、細川勝元は16才という若年で管領になりました。細川家は父の代から畠山氏と対立していて畠山持国に対抗する必要がありました。
そこで、嘉吉の乱で、赤松氏を攻撃して(赤松の領地を一部手に入れて)力をつけていた山名氏に「接近」します。
この時代の「接近」とはほぼ政略結婚を意味します。
で、山名持豊の娘を細川勝元はもらうことになりました。
つまり、細川勝元と山名宗全は「親子」なんですよ。(社会の先生でも、歴史がご専門でないと、あんがいと知らない人が多いんです。)
で、畠山氏の勢力削減のために、細川・山名は「協力」することになります。
畠山家の後継ぎ争いがおこり、畠山義就と政長が対立すると、二人は政長を支援しました。
また、足利義政が赤松氏の復活を計画すると(山名にとってはせっかく得た旧赤松の領地をとりあげられるおそれがあるので困る)、山名持豊に代わって細川勝元が将軍を説得してその計画を取り下げさせているんです。
ずいぶんと二人は「仲良し」です。
それから、将軍の後継ぎ問題で、義政の妻、日野富子が、山名持豊に足利義尚の支援を要請した、という話も、現在では疑問視され始めています。これ、後に書かれた『応仁記』にしか出てこない話で、当時の一級史料には、まったく記されていない話…
ほぼ歴史小説並の話なんですよね…
(応仁・文明の乱の新しい研究に基づいたお話しは拙著『超軽っ日本史』にまとめてありますので、機会があれば御一読ください。)
仲が良かった細川勝元と山名持豊…
なぜ、二人は争い、東軍西軍のそれぞれ一方の長となったのか… (次回に続く)
本日はエイプリルフール…
みなさんは誰かをだましたり、まただまされたりしましたか?
歴史とウソは、切っても切れないことでして…
歴史のいろいろな場面でウソが登場します。
「百済からの使者が参りました。どうかご出席くださいますよう。」
「彼らは剣をおそれますので、おあずかりいたします。」
これ、何のウソかわかりますよね。乙巳の変。
この後、蘇我入鹿は殺されました。
藤原氏の他氏排斥は、基本的に以下の「ウソの法則」で他氏を排斥しました。
・( A )が( B )を天皇にしようとしている。
・( A )あるいは( B )に罪をつくって退ける。
大伴氏が早良親王を天皇に立てようとしている。
大伴氏が藤原種継暗殺事件にかかわっているとして早良親王ならびに大伴氏を退ける。
伴健岑と橘逸勢が恒貞親王を天皇にしようとしている。
伴健岑と橘逸勢を退けて、道康親王を天皇に立てる。(承和の変)
菅原道真が、娘婿の斉世親王を天皇にしようとしている。
菅原道真を大宰府に左遷する。(昌泰の変)
源高明が為平親王を天皇にしようとしている。
源高明を大宰府へ左遷し、守平親王を天皇とする。(安和の変)
貴族たちだけではありません。武士たちだってウソつきです。
「馬の鞍がゆるんでいるぞ! しっかり結んだほうがよいよ。」
「お、ありがとう~」
「じゃ、お先に~」
これ、何のウソかわかりますよね。宇治川の先陣争いです。
梶原景季と佐々木高綱が、先陣争いをし、景季が高綱のウソにだまされちゃった、という話です。
勝つためには手段を選ばぬ武士たち。
その「手段」にはもちろんウソも入るわけです。
一の谷の戦いでも、後白河上皇は「和平」を平宗盛に申し出ていたにも関わらず、源氏が攻撃をしかけることになります。
はるか後年ですが、羽柴秀吉も、備中高松城を水攻めしている最中、本能寺の変で信長が死んでいるにもかかわらず、
「まもなく信長公が来られる。早く和議を!」
と、毛利をだまして交渉を進めました。
そもそも本能寺の変は、明智光秀が兵をとってかえして信長を討つわけですから信長も光秀にだまされたわけですし、光秀は家臣たちにすら「攻撃目標」を最初は伝えなかったのですから、家臣たちにもウソをついていたことになります。
関ヶ原の戦いでも「西軍に味方します」とウソついて裏切った大名はたくさんいます。
明智光秀は言います。
釈尊のウソは「方便」と言い、
武家のウソは「武略」と言う。
それに倣うならば貴族たちのウソは「陰謀」と言うわけですね。
「方便」「武略」「陰謀」…
歴史を動かす燃料はウソである、と言っても過言ではなさそうです。
みなさんは誰かをだましたり、まただまされたりしましたか?
歴史とウソは、切っても切れないことでして…
歴史のいろいろな場面でウソが登場します。
「百済からの使者が参りました。どうかご出席くださいますよう。」
「彼らは剣をおそれますので、おあずかりいたします。」
これ、何のウソかわかりますよね。乙巳の変。
この後、蘇我入鹿は殺されました。
藤原氏の他氏排斥は、基本的に以下の「ウソの法則」で他氏を排斥しました。
・( A )が( B )を天皇にしようとしている。
・( A )あるいは( B )に罪をつくって退ける。
大伴氏が早良親王を天皇に立てようとしている。
大伴氏が藤原種継暗殺事件にかかわっているとして早良親王ならびに大伴氏を退ける。
伴健岑と橘逸勢が恒貞親王を天皇にしようとしている。
伴健岑と橘逸勢を退けて、道康親王を天皇に立てる。(承和の変)
菅原道真が、娘婿の斉世親王を天皇にしようとしている。
菅原道真を大宰府に左遷する。(昌泰の変)
源高明が為平親王を天皇にしようとしている。
源高明を大宰府へ左遷し、守平親王を天皇とする。(安和の変)
貴族たちだけではありません。武士たちだってウソつきです。
「馬の鞍がゆるんでいるぞ! しっかり結んだほうがよいよ。」
「お、ありがとう~」
「じゃ、お先に~」
これ、何のウソかわかりますよね。宇治川の先陣争いです。
梶原景季と佐々木高綱が、先陣争いをし、景季が高綱のウソにだまされちゃった、という話です。
勝つためには手段を選ばぬ武士たち。
その「手段」にはもちろんウソも入るわけです。
一の谷の戦いでも、後白河上皇は「和平」を平宗盛に申し出ていたにも関わらず、源氏が攻撃をしかけることになります。
はるか後年ですが、羽柴秀吉も、備中高松城を水攻めしている最中、本能寺の変で信長が死んでいるにもかかわらず、
「まもなく信長公が来られる。早く和議を!」
と、毛利をだまして交渉を進めました。
そもそも本能寺の変は、明智光秀が兵をとってかえして信長を討つわけですから信長も光秀にだまされたわけですし、光秀は家臣たちにすら「攻撃目標」を最初は伝えなかったのですから、家臣たちにもウソをついていたことになります。
関ヶ原の戦いでも「西軍に味方します」とウソついて裏切った大名はたくさんいます。
明智光秀は言います。
釈尊のウソは「方便」と言い、
武家のウソは「武略」と言う。
それに倣うならば貴族たちのウソは「陰謀」と言うわけですね。
「方便」「武略」「陰謀」…
歴史を動かす燃料はウソである、と言っても過言ではなさそうです。