応仁の乱、というのは、世界でもめずらしい戦闘で、11年間の戦いをしているのに、主だった武将は誰一人戦闘で死んでいません。
また、「東軍」「西軍」と説明してしまうもので、ついつい関ヶ原の戦いのような、一戦を想像してしまいますが、そのような「対戦」形式でもありません。
それぞれの大名家の相続争いや各地の事情に合わせて戦っているので、複数の争いの集合体である、と、理解しておいたほうがよいと思います。
というのも、実際の戦闘が開始されると、「西軍」「東軍」という考え方はしだいに溶融してしまい、途中で、西軍と東軍の「大将」が入れ替わってしまうのです。
(西軍)足利義尚・山名持豊・畠山義就・斯波義廉
(東軍)足利義視・細川勝元・畠山政長・斯波義敏
と、教科書では説明されていますが、これは「開戦」前と直後の状態なだけなのです。
細川勝元の東軍の陣(花の御所)には、なんと足利義政も義尚も妻の富子もいるんですよ。
はぁ?? なんじゃそりゃ?
と、思うでしょ。ふつう西軍の側に日野富子や足利義尚がいる、みたいなイメージがあるじゃないですか。東軍が守る花の御所に、足利義政・義尚・義視・日野富子がいっしょにいてる、という世にも不思議な「東西対決」になっているんです。
この状態の中で、なんと東軍の大将、足利義視が伊勢国へ“逃亡”してしまうんです。
で、なんと、西軍のほうが、足利義視を受け入れて、大将にしてしまい、足利義政も義視を見限り、義尚を正式な将軍にする、と、決めました。
やはり『応仁記』の記述がおかしい、と、考えたほうがこの現象は説明しやすくなります。
日野富子は足利義尚を将軍に推してほしい、とは、山名持豊に要請していない、ということなんですよね。
畠山義就と政長が京都で戦闘を開始する。
細川勝元と山名持豊はケンカしている。
それと将軍家の争いは「別」。
細川勝元にすれば、自分が管領として幕府の政治をおこなえるならば、正直、将軍は「どちらでもよい」わけで、実際に、義視が退けられて義尚が将軍となっても、東軍の将として戦闘は続けているわけです。
山名持豊も、将軍足利義政を擁している細川と対決するためには、旗頭として足利義視を受け入れるほうが都合がよいわけだったのですね。
あ、すっかり言い忘れていました。
細川勝元と山名持豊の“決別”には、もう一つ理由があったんです。
細川勝元は、最初、子どもがおらず、山名持豊の子の一人を養子にしていたんです。
ところが、なんと子が生まれ、養子にしていた山名の息子を、なんと出家させてしまったのです。
Aの後継者として、Bを後継者としたが、やっぱりやめてCとした。
という法則… 細川家でもやっぱり適用できたんです。
このCが、細川政元、です。
そしてこの政元こそ… (次回に続く)