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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

わたしの親戚のおじさんたちには、軍人が多かったので、子どものころ、親類縁者が集まる盆や正月は、きまって「戦争中」の話になりました。
元海軍の者もおり、その中の一人に、駆逐艦だったか巡洋艦だったかに乗っていた者がおりました。

 艦戦のときは、なんだか、こっちがやられてばっかりのような気がすんねんなぁ。
 近くに水柱があがる、被弾する、火が出る、消化する、負傷者を運ぶ、持ち場にもどってまた撃つ…
 勝ってるのか負けてるのか、まったくわからない…
 でも被害だけはハッキリと実感できる…
 勝った~ よりも、終わった~ という感じのほうが強かってなぁ。

この話がたいへん印象に残っています。

前線では、むこうの被害よりもこちらの被害のほうばかりがカウントされ、全体で勝っていても「負けている」印象のほうが強い、というのが戦闘の実際のようです。

昔から、荒木村重の“寝返り”は「謎」とされてきました。

荒木村重。

荒木家は、もともとは摂津国の池田城主、池田家の家臣でした。
ところが近畿における勢力拡大を図る三好三人衆の“外交交渉”によって池田勝正を追放して池田家の実権を握ります。
この点、荒木村重は戦国時代の空気をいっぱい吸って育った武将だったといえます。

その後、織田信長の勢力拡大と、近畿圏への進出を受け、信長の配下に入ります。
1573年、といいますから、足利義昭が信長によって追放され、室町幕府が滅亡した年に茨城城主となります。

かなり信長にも気に入られ(つまり武将として役立つ男として活用され)、摂津の伊丹氏を退け、その功で摂津国の支配を認められます。

石山本願寺攻め、紀州の攻略など、織田信長の主導する戦いで活躍しました。

播磨の羽柴秀吉。
丹波の明智光秀。
摂津の荒木村重。

信長の西方政策の要の一石を荒木村重は担っていたわけです。

ところが…
1578年10月、突如、荒木村重が信長に反旗を翻しました。

なぜ???

『信長公記』『日本史』(ルイス=フロイス)の記録でも、信長自身が不思議がって、明智光秀ら三人を派遣して「事情の説明」を求め、安土城にて話し合おう、とまで申し入れをしています。
いったんは安土城まで向かった村重ですが、「やっぱり行かないっ」と途中で引き返し、有岡城(現在の伊丹市)に入りました。
村重自身にも“迷い”があったようにも見えます。

こはにわは、二つの説を考えています。

一つは… 最初の話です。
めちゃくちゃシンプルに、荒木村重は、

「本願寺と毛利氏が信長に勝つんとちゃうの?」

と思ったのではないでしょうか。
複雑に考える必要はありません。摂津国という、本願寺勢力や毛利の水軍に接する最前線にあって、「これ、勝ってるんかな… 負けてるよな…」と思うようになっていた…

荒木村重は、これまでの経歴上、「勝っているほう」に自分の身を置いてステップアップしてきた武将です。
江戸時代の武士の倫理では“寝返り”ですが、戦国時代、とくに「二大勢力」の狭間の部分は、つねに“グレーゾーン”です。
池田氏を裏切り、三好三人衆を裏切り、次は信長を裏切り、となっても別に不思議でもなんでもありません。
彼にとっては、「池田勝正のとき」「三好三人衆のとき」と何も変わらなかったのではないでしょうか。

「物語」「ドラマ」としては、信長や秀吉、ましてや黒田官兵衛が主役のものにあっては、荒木村重の“寝返り”はもっとも劇的に描かなくてはおもしろくないポイントです。
他の武将よりも、話が大きくクローズアップされるのは当然だと思うのです。

それからもう一つの説は…

サラリーマンでもそうですが、

自分が変わって出世するタイプ
場所が変わって出世するタイプ

がいます。
会社が、新しい仕事を与えたとき、自分を変えて順応して出世する者もいれば、自分の求めていたものと違うと考えて、自分の求めることを実現できる職場に変わって出世する者もいる、ということです。

とくに転職することでステップアップを図ってきた者は、その企業が自分のもとめていることとは違うような場合は、あっさりと再転職する、ということはけっこうあります。
他人からみれば、給料もいいし、よい仕事をあたえられているのに、なんで辞めるんだ?
と不思議なところですが、世の中、そーゆー人もいる、ということです。

信長にしてみれば荒木村重を粗略に扱ったつもりはありません。
でも、本願寺攻めは、責任者は荒木村重から佐久間信盛に変わり、播磨攻めも羽柴秀吉が責任者になったわけで、

「おれ、摂津国にいるのに、いったい何をするんだ?」

というように思っても不思議ではありません。

この二つ、あるいは二つが複合して荒木村重は謀反におよんだのかもしれません。

ところが、荒木村重は、最後の最後に「自分を変える」ということをしました。

有岡城で、一年間、徹底抗戦した後、彼は、家臣も城も捨てて逃亡します。
それで歴史上から消えたのかと思いきや、信長が本能寺の変でたおれた後、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の配下に入り、千利休に弟子入りします。

「利休七哲」

と呼ばれる利休の弟子の中に、荒木村重は名を連ねることになりました。
驚きの「転身」です。

有岡城から逃亡するとき、彼は「茶つぼ」と「筆」と「鼓」の三つを持って脱出したと言われています。
茶道と和歌と能にもすぐれた才能を示していた村重…

 「次はおれはこれだっ」

と思っていたとしたらたいしたもんです。

はるか後年、茶道と和歌と鼓を愛好していた井伊直弼は「ちゃ・か・ぽん」とあだ名されていました。
それにならって…

“ちゃかぽん村重”

と、こはにわは、呼びたいと思っています。
大河ドラマには、あたりまえですが、主役がいます。
小説にせよ、ドラマにせよ、主役が「主」である以上、必ず「副」を存在させます。
「副」の存在は、まぁ、手っ取り早く言っちゃうと、「引き立て役」です。

悪人で登場する場合もあれば、善人として描かれる場合もある人々…
でも、それゆえに、「一面的」に表現されたり、その人生の一部だけで顔を見せたり…

彼ら(彼女ら)の人物像は、「氷山の一角」で、全体の一部だけの顔みせ。そしてあくまでも主人公を際立たせる存在としてだけです。

本来なら主役になることも可能な、でも、そのドラマでは主人公を引き立てるためにとりあげられている人たちを、ちょっとずつ説明していきたいと思います。

そのドラマでは一瞬の登場かもしれませんが、「あ、そんな人だったんだ」と、関心をもってもらえればなぁ、と、思います。

さて、現在、大河ドラマは「軍師官兵衛」。

毛利と織田の“衝突点”で、歴史に躍り出てきたのが黒田官兵衛孝高。
この“衝突点”には、ほんとうに色々な人物が出てきます。その中で今回は

宇喜多直家

を紹介したいと思います。

ドラマや小説で取り上げられるこの人物像は、ほぼきまっています。

それを決定付けたのは、おそらく、小瀬甫庵だと思います。
この人物は『信長記』『太閤記』など、史実に基づきながらもたくさんのフィクションを挿入し、歴史をおもしろく語る記述をした人物(いわば歴史小説家)として有名です。

彼が、

「松永久秀、斎藤道三、宇喜多直家」

は、戦国の三大梟雄だ、と、評したことから、陰謀の限りをつくした人物、という「レッテル」が張られてしまいました。

宇喜多直家の“悪の肖像”を紹介しますと…

・自分より強い敵将には刺客を放って暗殺する。
・裏切りそうな、言うことをきかない家臣は毒殺する。
・いっしょに刈りに行こうと誘って、あ、鹿と間違えて射てしまった~
・男色家の敵将には、美少年を送り込んで懐柔したり殺害させたり…
・戦場には少し遅れて到着し、どっちか勝ちそうなほうに味方する。

う~ん… そらまぁ、ちょっと、お友達にはしたくないタイプですね。

西から毛利、東から織田の圧力がせまると、この二つのパワーをうまく自分の力としました。
もともと宇喜多家は、浦上家の家臣だったのですが、毛利の後援を受けて、主家の浦上氏を裏切り、毛利の力を利用して下剋上をおこないました。

また、毛利に尼子家を滅ぼされた、山中鹿介は、尼子家再興をもくろんで、西進する織田に接近して上月城にたてこもっていました。
宇喜多直家は、これを攻めて上月城を手に入れます。

ところが、織田軍が山中鹿介を支援して攻めてきます。その指揮官が羽柴秀吉でした。

宇喜多直家は、これと戦っても勝てぬと読むと、いとも簡単に上月城を放棄し、毛利に救援を求めます。

来援した毛利軍は、吉川元春、小早川隆景という、まさにエース級の投入。
もちろん、宇喜多直家も参戦するのがあたりまえ… と、思いきや、彼は「病気」と称して参加しませんでした。

「大」には「大」をぶつけてやる、という直家の“構想”です。

どっちが勝つかわからんのに、うっかり巻き込まれてたまるか、というしたたかな作戦。

ところが、秀吉は別所長治を攻めるための三木城攻めに手間取り、けっきょく「大」と「大」の衝突は実現せず、上月城は陥落し、山中鹿介および尼子勝久は非業の死をとげることになりました。

宇喜多直家は、ただちに「病気が回復しました!」と、毛利軍の勝利を祝いに吉川と小早川の陣におもむきます。
しかし、吉川も小早川も、稀代の名将たちですから、宇喜多直家の“魂胆”を見透かしており、儀礼的な挨拶を受けたにとどまりました。

直家は“空気を読める”人物です。

「あ、こりゃだめだな…」

毛利にいても、おれは使ってもらえないな、と、察知します。

ここでいっきに、織田方につくことに舵を切ることになりました。
そうして羽柴秀吉に仲介を依頼し、自分の息子を秀吉に「あずけ」て、織田に臣従することを誓いました。この息子が後の豊臣政権の五大老の一人、宇喜多秀家となるわけです。

梟雄と呼ばれた宇喜多直家ですが…

でもね、これくらいの“悪”は、大勢力と大勢力の狭間にあった小勢力は、戦国時代には誰でもやっていたことですよ。

武家の儒教道徳が広がる江戸時代には、二股、日和見、裏切り、下剋上は「悪徳」とされますが、ぎりぎりの生存をかけて、おいつめられた小勢力はみんなやっていることです。

信長が主人公となり、後の天下をとった人物と「接触」している人であるがゆえにその所業が記録に残されて脚色されて役割を与えられて“有名”になっているんです。

宇喜多直家“梟雄説”は、ちょっと誇張である、と、こはにわは考えています。

とくに尼子家再興をかけて、忠義をつくした山中鹿介とその悲劇は、武家の儒教道徳にとって「よき教材」です。そして、それを引き立てる悪役として、宇喜多直家もまた「よき教材」とされてしまいました。

また、信長は宇喜多直家をゆるさない、秀吉はなんとかゆるしてもらえるように奔走する、ということを描くことにより、信長の冷酷さを際立たせ、秀吉の寛大さを強調しようとする“演出”にも宇喜多直家は「利用」されています。

宇喜多直家は、なかなか“使える”武将、だったわけですね。
洞松院。
細川勝元の娘で、細川政元の姉です。
ただ、妹であった、という説もあります。番組では姉、という説で話を構成しておりました。

細川政元は、赤松政則を味方に引き入れるために、出家していた姉を還俗させ、そうして赤松家に嫁に出しました。

武家は、ときにこういう、現在の感覚では人権無視、女性蔑視的なことをやってのけます。
子が、「道具」として利用されていた時代…
親としての感情や愛というのがないのかっ と、憤られる方もおられたり、いや当時も親子の愛というのがあった、ゆえに悲劇的で悲しい想いがあったのだ、と、哀愁を感じたりする方もおられるとは思うのですが…

現在の慣習・価値観・倫理観で過去を考えるのは、ちょっと無理があると思うのです。
そういう時代に、そういう生活をして、そういう文化で育つと、「愛情」というものも、そういうカテゴリーの中で、形成されるので、そういうことも含めたことの中での「愛」という概念が生まれていたと思います。

さて、細川勝元は、自分の娘があまりにブサイクだから、という理由で出家させた、と、いわれています。
じっさい、赤松家に嫁に入ったとき、家臣たちから「鬼瓦が来た」と陰口をたたかれるくらいでしたから、当時の価値観からみて「美人」とはいえなかった人物だったようです。

1493年に赤松家に嫁入りしたと言われていますが、赤松政則との間に二人の子をつくっています。ただ、二人とも女子…

そして結婚3年で、夫の赤松政則が40代前半で死んでしまいました…
そこで親戚の子、赤松義村が、政則と洞松院との間に生まれた娘と結婚する、という形で後継者となることが決まりました。

これに反対する家臣もあらわれ、お家騒動となるのですが、

「この子が成人するまでわたしが政治をおこないますっ」

と、宣言しました。番組で紹介したにゃんたのマル秘ファイル『赤松盛衰記』では、

 国の政治は、洞松院とその娘の二人がとりしきっている…

と、記されていました。

この時代、領地の政治を「とりしきる」とは、家臣の相続を公認したり、領地あらそいの仲裁をしたり、手柄を吟味して褒賞をあたえたり、ということなのですが、その「書類」の名前には、ほとんど「洞松院」の名前が記されています。
発給書類の名が誰なのか、というところから、「政治をしている」と判断します。

赤松家の発給書類の16世紀に入ってからのものはすべて、洞松院の名で出されています。

細川家の後継者争いにも介入します。

弟の政元の暗殺後の争いは、政元の養子、細川澄之・細川澄元の間で起こります。澄元は、備中の親戚、細川高国と協力して澄之を討ちます。
ところが、この細川高国は、周防(山口県)の大内義興の後押しを受けて、澄元と対立して争うようになりました。

洞松院は、細川澄元を支援して、細川高国と戦います。
そうして、洞松院は、単身、細川高国の陣まで乗り込んでいって、なんと和平交渉を締結してしまうんですよね。

細川勝元の政治力と、弟、政元の“魔法”を兼ね備えた女性だったと思います。

一言申し上げておきますと…

江戸時代、女性蔑視の風潮が広がり(武家の中で。庶民は女性はわりと強かったのですが)、女性が大名となった過去の「例」というのは、あまり記録に残ってほしくはない「好ましくない例」であったため、鎌倉時代に女性の地頭がいたこと、室町時代に、守護の権限を女性が持っていたこと、などは、意識的に「無視」されるようになります。

室町時代、守護がいて、その守護の後継者が幼いとき、あるいはいないときには、「妻」が権限を代行していた例、というのは、記録されている以上にたくさんあった、と、こはにわは思っているんですよ。

昔は女性の地位が低かったのだ、女性が政治に関与するのは日本史ではあまりないのだ、という考え方は、ちょっと一方に偏り過ぎた極端な考え方だと思っているのです。

「思っている以上に」「昔から」女性の力はあったのだ、日本人が気づいていない、知っているのになかったことにしている、みたいな傾向があるような気がしてなりません。

話はすっ飛びますが、幕末から明治にかけて、開国後、江戸にやってきた多くの外国人たちが日本の様子を記録しておりますが、

「日本では、お店の主が女性であり、男を使用人として指図している」

ということに驚いている記述がたくさん見られます。

欧米では当時考えられない光景だったのでしょう。
形だけ女性の地位が高く、口だけで平等だ、人権だ、と、唱えていた階級社会の当時の欧米と比べて、日本は実質的には女性が力を持っていた社会のような気がします。

知られざる女性権力者、歴史に埋もれている女性の活躍、というのも、機会があれば発掘していきたいと思います。

洞松院さんのその後… 実は「不明」なのです。
義村が成人したから、引退したのか、はたまた病死したのか…
忽然と記録から「洞松院」の名がなくなりました。

記録から洞松院が消えた後、赤松義村は、やがて家臣に暗殺され、赤松家は衰退…

このことからも洞松院が有能であったことも、わかるような気がします。

洞松院が消えたころから、細川・斯波・畠山・一色・京極・赤松・山名・土岐の各氏は、みな家臣(守護代)に実権を奪われ、新しい戦国大名を生み出す母胎となりました。

あたかも腐って倒れた巨木が次の若木の肥しとなるように…
次の時代を生み出す“戦国の栄養素”をたっぷりと含んでいたのが、細川ファミリーだったような気がします。

(終わり)

細川政元は、たいへん興味深い人物です。しかし、学校の教科書では、ほとんど細川政元およびその専制政治の時代については説明がされません。

細川政元の、「おもしろみ」は、なんといっても、番組でも取り上げたように、

天狗になりたい

と、称して、“修験道”にのめり込んだことだと思います。
女色を断ち、天狗となって空を飛び、地を馬よりも速く駆けめぐりたい、と、それこそ真剣に考えて「修行」していたようです。

ただ、結果そのことによって(女性を退けたことによって)、「後継者」がいなかった、という、武家にあっては異常な事態をまねくことになります。

武家が(貴族もそうですが)、子どもをつくる、というのは、大きく二つの意味がありました。

一つは「家」の相続者の確保。
もう一つは政略結婚の“道具”として。

これは男女関係ありません。他家に嫁に出す、他家から嫁をもらう…

かりに男五人、女五人の子どもをつくっておけば、家督相続者の1名をのぞき、のこり9名は、何らかの形で「他家」との関係を広げる“道具”として利用できます。
従属の証としての人質、逆に相手を従属させるために人質をとるときの外面的口実(息子の嫁にとる)など、人的結びつきの多様な活用が可能となるわけです。

いわば武家の大切な“相続”と“戦略”という手法を放棄してしまっている、というところが「不思議」なところです。

将軍足利義稙を廃した後、赤松政則を味方に引き入れる際、本来なら自分の娘を嫁に出すなどするところですが、出家して尼さんになっていた姉をわざわざ還俗させ、赤松政則と結婚させているのは、子がいなかったからに他ありません。

ところで…
こはにわは、細川政元が、「天狗になりたい」と考えた理由として、ちょっと通説とは異なる、別の理由を考えているんです。

細川政元は、室町幕府の歴史上、家臣が将軍の位を恣意的にすげかえた最初の例で、「半将軍」(将軍も同然の、という意味)とまでよばれた“最高権力者”です。

独裁者がたいてい考えることは…

ちょっと話のスケールが大きくなってしまいますが、秦の始皇帝は、中国統一後、「不老不死」を求めて、仙人の術を体得しようとしています。
結果、始皇帝も明確な後継者を指名せず、後の混乱をまねいたのですが、もし、不老不死となったならば、後継者を心配する必要はなくなりますよね。
有能な政治家であった始皇帝としては、これほどの「ぬかり」はないのですが、ひょっとしたら細川政元も真剣に

「天狗になることができたら(不老不死の身となれば)、後継者なんか不要じゃんっ」

ということに“気づいて”いたんではないでしょうか。

始皇帝も細川政元も、あたりまえですが不老不死にはなれませんでした。
よってどちらも、後継者問題から、滅びる結果となります。

細川政元は、子どもをなすことができず、貴族や遠縁からそれぞれ養子をむかえてしまいますが、当然、これは家臣団を真っ二つに分けて対立させることになり、その争いにまきこまれて、政元は暗殺されてしまうのです。

“魔法使い”としてはこんなに「うかつ」な話はありません。(いや、魔法使いだからこそのうかつだったのでしょうか…)

細川政元が“魔法使い”“天魔”ともおそれられたのにはもう一つ理由がありました。

追放した足利義稙が、北陸地方に脱出、畠山氏や朝倉氏、それから比叡山の支援をうけて、京都をめざして侵攻してきたときのことです。
政元は、

「わたしに逆らうならば、比叡山など燃やしてしまえっ」

と、“比叡山の焼き討ち”を実行しているんです。
このとき、比叡山の伽藍は大部分が焼け落ちたといわれています。

おかげで後年、織田信長はずいぶんと「ぬれぎぬ」を着せられることになりました。

比叡山延暦寺の伽藍を焼き尽くしたのは織田信長だっ

ということされてしまいましたが、信長が延暦寺を攻撃させたときは、あんまり寺塔は残っておらず、小説に描かれているような「大破壊」は信長はやっていません。というか、できません。すでに多くが政元の時代に燃やされていたのですから…

ああ、すっかり洞松院の話から逸れてしまいました。すいません。

赤松家に嫁いだ洞松院さんですが、さすが、稀代の政治家細川勝元の娘にして、“魔法使い”政元の姉だけある、「活躍」をすることになります。
それは…

(次回でようやく細川ファミリー最終回)
細川政元の“魔法”の数々…

まだ9才だったのに、なんと山名政豊(隠居した持豊の孫? 子とのうわさも…)と和睦し、応仁の乱の第一期平安(1470年代)をもたらしました。

80年代、また争いが起こります。
畠山家の争い(政長と義就の争い)はまだ続いていたのですが…
父の代のとき、義就に奪われた摂津国の一部をとりもどしたいなぁ、と、思っていたらうまいぐあいに摂津国の国人たちが乱を起こす…
「義就をやっつけるの手伝うねっ だから攻めよう」と政長にもちかけ、二人が戦っているどさくさに義就に、「摂津国、返してくれたら河内の一部あげるから交換しよ」と持ちかけて、なんと和睦を結んでさっさと帰る…

このままじゃ管領、できないな… と、思っていたら、六角高頼が乱を起こします。足利義尚が追討に出かけたら、なんと義尚が病死…

次の将軍として義尚の従兄を立てようとします。
ところが、これは失敗… なんと足利義視の子で、義尚の従弟である足利義材(義稙)が将軍になってしまいました。

政元は突然、「旅に出る」と宣言して、なんと東国に行ってしまいます…
こうして一時期、政権の中心から消えてしまいました…

ところが六角がまた反乱を起こすと、細川家の軍事力をたよられ、将軍義材から帰国を求められます。で、帰国した後、また政権からは遠ざかっている…
すると、畠山義就が死んだ後、あとを継いでいた義豊が乱を起こします。

そして畠山政長と足利義材が、畠山追討のために京都に出たあと、なんと政元は、日野富子らとともにクーデターを起こします。(明応の政変)
そして義材の将軍廃位を宣言し、以前に立てたかった義尚の従兄を将軍にしました。これが足利義澄です。

これ、実はすべて、細川政元の“魔法”だったのです。
摂津国の乱も、六角高頼がうまいタイミングで乱を起こすのも、そして畠山義豊が乱を起こしたのも、みな政元が裏から手を回し(密約を結んで)、細川にとって都合がよくなるように、仕組んだことでした。

そうして、このとき、軍事力を確保するため、赤松政則を味方に引き入れるため、主家して尼さんになっていた自分の姉を還俗させ、赤松政則と結婚させたのです。

この姉こそ

洞松院

です。

(次回に続く)