細川家の都合… その5 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

細川政元の“魔法”の数々…

まだ9才だったのに、なんと山名政豊(隠居した持豊の孫? 子とのうわさも…)と和睦し、応仁の乱の第一期平安(1470年代)をもたらしました。

80年代、また争いが起こります。
畠山家の争い(政長と義就の争い)はまだ続いていたのですが…
父の代のとき、義就に奪われた摂津国の一部をとりもどしたいなぁ、と、思っていたらうまいぐあいに摂津国の国人たちが乱を起こす…
「義就をやっつけるの手伝うねっ だから攻めよう」と政長にもちかけ、二人が戦っているどさくさに義就に、「摂津国、返してくれたら河内の一部あげるから交換しよ」と持ちかけて、なんと和睦を結んでさっさと帰る…

このままじゃ管領、できないな… と、思っていたら、六角高頼が乱を起こします。足利義尚が追討に出かけたら、なんと義尚が病死…

次の将軍として義尚の従兄を立てようとします。
ところが、これは失敗… なんと足利義視の子で、義尚の従弟である足利義材(義稙)が将軍になってしまいました。

政元は突然、「旅に出る」と宣言して、なんと東国に行ってしまいます…
こうして一時期、政権の中心から消えてしまいました…

ところが六角がまた反乱を起こすと、細川家の軍事力をたよられ、将軍義材から帰国を求められます。で、帰国した後、また政権からは遠ざかっている…
すると、畠山義就が死んだ後、あとを継いでいた義豊が乱を起こします。

そして畠山政長と足利義材が、畠山追討のために京都に出たあと、なんと政元は、日野富子らとともにクーデターを起こします。(明応の政変)
そして義材の将軍廃位を宣言し、以前に立てたかった義尚の従兄を将軍にしました。これが足利義澄です。

これ、実はすべて、細川政元の“魔法”だったのです。
摂津国の乱も、六角高頼がうまいタイミングで乱を起こすのも、そして畠山義豊が乱を起こしたのも、みな政元が裏から手を回し(密約を結んで)、細川にとって都合がよくなるように、仕組んだことでした。

そうして、このとき、軍事力を確保するため、赤松政則を味方に引き入れるため、主家して尼さんになっていた自分の姉を還俗させ、赤松政則と結婚させたのです。

この姉こそ

洞松院

です。

(次回に続く)