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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

「時代考証」というのはなかなか難しいんですよね。

当時そんな習慣はないっ!
ということは、わかっていても、ドラマはドラマ、おもしろく作らなくてはならないし、少しぐらいよいか、堅いことは言わないで作っちゃえ、と、なっているところもあるかもしれません。

ちょっぴりそういうものを紹介してみたいと思います。

「握手」は江戸時代をふくめて存在しません。

戦国時代などのドラマで、主人公が誰かと手と手を取り合う、という場面があったとしたら、そんなことはありえません。
「握手」は欧米の習慣ですから明治時代以降、早くても幕末開国後のことです。

「一石二鳥だっ」なんて叫んでいる人がいたら、これもまたそんな言葉は江戸時代以前にはありません。
意外に思われるかもしれませんが、これ、英語のことわざの翻訳で日本にはもともとない諺なんですよね。

「畳」なのですが、一般住居に使用されるのは、江戸時代の中期以降。
畳の原料は「い草」なのですが、これは干拓の際の塩抜きに用いられる農作物です。
徳川吉宗の享保の改革のとき、干拓が積極的に進められ、同時に「い草」も大量につくられて価格が減少しました。
戦国時代の住居に「畳」が敷かれていたら、それはほとんどウソと言ってもよいでしょう。
それから、住居には「畳」は使用されましたが、実は「お城」には畳が用いられてはいませんでした。これも江戸時代以前には無いことです。

「時代劇」というと、江戸時代の話が中心です。

江戸時代は、女性が結婚すると、「お歯黒」を用いました。ですから、「歯が白い」ということはありません。

時代劇の中で、とくに「捕り物帳」系のものは、ウソだらけです。
与力や同心たちが刀を抜いて、盗賊たちと「切り合う」ということはありえません。そもそも捕り手は「刀」を用いず、いろいろな「道具」を用いて逮捕します。

ついでに、犯人逮捕のために、「御用」のちょうちんを持って出動したりしません。
犯人逮捕に行くときは、「捕り手」であることがわからないように、それぞれ町人などに扮装して接近します。
現在でも、犯人逮捕のために犯人の住むアパートに、パトカーのサイレン鳴らして、制服警官がドカドガっと、行列組んで出かけないでしょ? それと同じ。

ということは、『忠臣蔵』の題材となった、「赤穂事件」つまり「赤穂浪士の討ち入り」ですが、時代劇にみられるように、「火消」の装束で吉良邸に突入した、ということはありえません。
みな町人の姿に変装して、役人に気づかれないよう、こっそり集まってきて襲撃しています。

他にもおもしろい話がたくさんあります。
実は…

おっといけません。うっかり次回(4月19日)の放送のネタをバラしてしまいそうになりました。

次回は「風雲-大江戸武士道」です。
この続きは、次回の放送で。
どうかお楽しみに!
「歴史に残る名言スペシャル!」で、取り上げた一人が「奈良の尼さん」でした。

 ちんちんきたー!!

 と、奈良の尼さんが臨終に叫んだ、というちょっとお下品な内容でしたが…

 『古今著聞集』そのものは、鎌倉時代の説話集で、橘成季がまとめたものです。
 『今昔物語』『宇治拾遺物語』と並び、三大説話集ともいわれ、高校入試や大学入試によく出されるものです。

 原文は

 まらが来るぞよ、まらが来るぞよ。

 なのですが、「まら」は、もともとはサンスクリット語で“マーラ”すなわち悪魔を意味する言葉(仏教用語)でもあります。
 ブッダが、悟りを開こうとしているときに、何度も誘惑して堕落させようとする“悪魔”が現れたといいます。

 “悪魔よ去れ!”

 は、ブッダもイエスも叫んだ言葉なのです。

 よって、“マーラ(悪魔)”は、仏道の成就を妨げるもの、そこから転じて「男性性器」を意味する俗語となりました。

 ですから、この「奈良の尼さん」は、けっして、ちんちん来たー! と、叫んだわけではなく、

 「悪魔が来るぞ、悪魔が来るぞっ」

 と、叫んでいたわけです。

 しかし、一般庶民には、男性性器の俗語として用いられているので、「まらが来るぞよ、まらが来るぞよ」という叫びは、わかってはいるけど、実に滑稽な内容に聞こえるわけです。

 当時、読んだ人も、こらこら、そういう意味やないやろっ と、笑いながらツッコミを入れていたことでしょう。

 説話や当時の人々の話というのは、当時の習俗を知っていると、ああ、そういう意味だったのか、というのがけっこうあります。
 また、サンスクリット語など仏教用語や、仏教に関するさまざまな知識があると、ああ、なるほど、これのことか、というのもよくあります。

 番組の中でも、「空海」の回のときに、「肛門に山椒の粉を塗る」という話がありますが、インド古代の性愛の書“カーマストーラ”の中で、実は、薬物を用いた方法が紹介されていて、明らかにこれがあの話の元ネタだと思います。

 にゃんたのマル秘ファイルでも、「こういう表現にはこんな意味があります」と、これからも色々伝えていきたいと思います。

 さてさて、『古今著聞集』には、こはにわが好きな“名言”もあるので紹介しておきたいと思います。

六百四十六段

 草木に生枯あり 
 花に開落あり
 いずれも変衰のがれざる事

 春き桜梅桃李の花あり
 秋は紅蘭紫菊の花あり
 皆これ錦繍の色、酷烈の匂なり
 しかれども昨開き今落ち、遅速異なるといえども
 風にしたがひ露にまかせ、変衰のがれざる
 有為を楽しむに以て、無常を観ずべし。

 昨日咲いて今日散る花もある。
 風にしたがい露にまかせる…
 変化と衰退をのがれられないものなどない…

 まさに「歴史」そのもののことでしょうね。
以前に、肖像画の「そっくり」を紹介しました。

平資盛(赤間神宮蔵)と前田利長(魚津歴史博物館蔵)の肖像画が、ほとんど同じ、ということを申しました。
実は、この話、以前、生徒にもちょっと話したことがあったのですが…

子どもたちは実におもしろい。
いろいろ調べてくる子がおるんですよね~

「先生っ これとこの顔も似ている!」
「これなんかどっちがどっちか区別つかない。」

いろいろな肖像画の写真を見せてくれて「これとこれもそうだ」と教えてくれる子が続出しました。
ほんとに色々なんですよね。

以前に話した「神護寺三像」。生徒に平重盛の絵を見せたときも、「え、これ源頼朝とちゃうん?」となっていました。右向いているのと左向いているんの差だけのようにしか見えない、というわけです。(これは顔をよくみれば別人だとは思うのですが…)

さて、この「平重盛」さんなのですが…

「神護寺三像」以外にも有名な肖像画があるんです。

実は生徒の一人が「探して」きてくれたものがありまして。
『天子摂関御影』という肖像画集があるんですが(三の丸尚蔵館蔵)、ここの平重盛の肖像と、「悪左府」とよばれた藤原頼長の肖像(『公家列影図』)と、「顔面」がほぼ同じなんですよ。

「先生、こんなブサイクな特徴的な顔、似てるとかないよね。これ、同じ人の顔やんな。」

と、いうわけです。

これこれ、平重盛公をブサイクとは何事やっ と思ったわけですが…

「た、たしかにこの二つ… 顔は同じだよな…」

と、笑ってしまいました。

頼長が描かれている『公家列影図』は、京都国立博物館の重要文化財で、『天子摂関御影』とともに、鎌倉時代くらいにまとめられ始め、室町時代前期には完成したと考えられているものです。
いわばほぼ、同じ時代のセット物とでもいうべき絵の人物の顔がソックリである… そもそも像主も、ほぼ同じ時代の人です。
同じ時代の人を後年とはいえ、同じ時代に描かれた絵の人物の顔がほぼ同じ、というのはなんとも不思議な話です。

最初にお話しした、平資盛と前田利長の類似性については、「わからなくもない事情」があります。
前田利長の妻は織田信長の娘であった、織田信長は平資盛の庶子の子孫と言われている、よって前田利長の妻は、「御先祖様(平資盛)の絵」を所持していたものだから、後年の人が、「妻が持っている人物画だから夫のものだろう」と誤認して“前田利長”公としてしまった、という考え方もできます。

そもそも江戸時代、というのは、ほんとうにそれ以前の、とくに戦国時代の武将に関係するいろいろなことを「歪めてしまう」フィルターみたいなもので、江戸時代を通じてみる戦国時代の武将は、みな、実際の人物とは違う(誇張された)ものになってしまうんです。

江戸時代に、武士たちは戦国時代の武将たちに憧れる、という風潮が生まれました。各武将の「伝記」は飛ぶように売れ、肖像画などもずいぶんと描かれるようになりました。

自分の好きなキャラクターの「武将」を集める、みたいなことが大名たちの間で流行したんですよね。

これがきっかけにして、○○藩の藩主××が持っている(家臣が持っている)肖像画だから、本人の(主人の)肖像画だろう、ということになってしまったり、ひどい場合は、骨董商が、大名が戦国武将のだれだれの絵をほしがっているぞ、と、聞いて、とにかく誰でもよいから当時の武将の肖像画を探してきて、上から、だれだれ、と、勝手に書き込んで売りつける、みたいなことも横行したりしていたんです。

以前に、テレビ朝日のQさまの「教科書スペシャル」に出演させていただいたときに、基本的に

「肖像画はすべてあやしい」

と、申し上げたのは、こういう理由があるからなんです。

著作や絵画、というものに“著作権”という概念が無い時代で、詐欺が罪になる、とか丸写しがいけない、という倫理観が希薄な時代ですから、けっこう「やりたいほうだい、しほうだい」というところもあります。

頼長の肖像がみつからなかったのか、重盛の肖像がなかったのか…
どちらかの絵が欠落してしまうので、「こっちの顔をこっちに使っておけ」とでも思ったとしたら、ずいぶんとひどい話です。

さてさて、重盛と頼長、どちらがどっちをマネして転用されてしまったのやら…

「神護寺三像」の絵は、重盛の肖像でないかもしれませんが、重盛の容貌を伝える絵はもちろん他にもあります。(平家贔屓で、重盛が好きな私としましては、ちょっぴり無意識に「男前」な記録を選んでいるかもですが…)

ちょっとマニアックなのですが、

俵屋宗達が「平治合戦」を屏風にしていて、それを蒔絵にした「待賢門院合戦蒔絵硯箱」というのがあるんですよね。

そこに平重盛が出ています。
この平重盛はなかなか勇壮でカッコイイ若武者に描かれています。
『天子摂関御影』の重盛は、頼長の絵じゃろっ 重盛はもっと男前だったはず… と、勝手に思っています。
第41回は、「歴史に残る名言スペシャル!」でした。が…
たいていの方は、

どこが名言やねんっ

と、ツッコミが入るような内容だったかもしれません。まさに“迷言”の数々…

その“名言”を述べた人物の一人として、

安倍晴明

をとりあげました。

安倍晴明は、小説にもなりましたし、ドラマや映画にもなりました。
イケメンで、次々と怨霊を退治していく陰陽師、というイメージを持たれている方も多いと思います。

ただ、先に申し上げますと、番組でも少し説明したように、彼の“不思議”な“なぞ”の“神秘”な逸話は、『今昔物語』『宇治拾遺物語』『十訓抄』という、ちょっと「盛り」が入った、「おもしろおかし誇張」の書にももちろん記されているのですが、

『小右記』『御堂関白記』『大鏡』

などの史料にも、キッチリと書かれていることがあるんですね。
ほんまにそんな能力があったんちゃう? と、思うような印象をぬぐえません。

その、「記録」にも残るスーパー陰陽師として活躍は、実は、かなり歳をとってから(当時の年齢からいえば、ほぼ老年世代)のことです。

天徳四年、といいますから、西暦では960年で「天文得業生」になっています。
これ、陰陽寮で、天文博士から天文道を教えてもらえる「学生」のことなんですよ。
このときが40歳。

天文道を40歳で学び始めた、ということです。かなり出世は遅れている、というべきか…
藤原氏以外の貴族の悲哀と現実がよく示されているところだと思います。

50歳をすぎたころに「天文博士」となっていますが、村上天皇から依頼された「星占い」が高く評価されたから、と言われています。

そして色々な「記録」に晴明の易占、陰陽道の術の数々がみられるようになるのは、天元二年あたりで、それは西暦で979年ですから、なんと59歳、ということになります。

テレビやドラマで取り上げられている「逸話」の数々は59歳以上になってからの話ばかりなのです。

『小右記』では、一条天皇の病を祈禱によってたちまち回復させた、という有名な逸話は正暦四年のこと。西暦で993年。74歳ということになります。

『御堂関白記』では、雨乞いによって、長期にわたる旱(ひでり)を終わらせたことがわかりますが、これが寛弘元年。西暦では1004年ですから85歳のときです。

陰陽師、というのは、かなりの下級貴族で、どれだけ出世しても位階は七位が限界だったのですが、従四位、という殿上人にまでのぼりつめました。

さてさて、番組で取り上げた晴明の「名言」は、

   そろばん(算木)で爆笑をとってみせましょう。

でした。

実は、天文道では、「計算」がたいへん重要で、晴明はかなり算術が得意だったようで、陰陽寮から、なんと

主計寮

に勤務するようになります。穀物院の別当、という経済官僚(現在で言えば食糧庁長官)となっています。
計算力の高さをかわれてどんどん出世…

そろばんで、笑いがとまらなかったのは、実は安倍晴明だった? という話です。
大河ドラマに豊臣秀吉が取り上げられたことは、かなりの数にのぼります。

「秀吉」はもちろんそうですし、「信長」でも登場しました。「徳川家康」でもむろん登場しますし、古くは「おんな太閤記」「黄金の日々」でも出てきます。

それらの中で、「それなりの」役どころとして登場するのが秀吉の弟、

豊臣秀長

です。

ただ、実はわからないことが多いんですよね。
まず、いったい「誰」なのか… 秀吉の異父弟と考えられていましたが、最近は同父弟という考え方もあんがいと有力になってきました。

「豊臣一家」は、秀吉の妻おねも含めて、誰がどこの子どもてあったか親戚だったか、彼らの「若いころ」の話は不明なことが多いのです。

桶狭間の戦い以降、信長の美濃攻めのあたりから秀吉に仕えている、と、考えておくのが無難なところでしょうか…

「小一郎」

という呼称もドラマではよく使用されていますが、これは、秀吉が記している手紙(彼は筆まめでけっこう手紙が多い)のうち、黒田官兵衛に宛てたものにも

「おまえは、弟の小一郎と同じように心ゆるせる存在だ。」

と、記しています。

臣下をくすぐる「おせじ」だとしても、

「弟の小一郎のように心ゆるせる」という表現は裏をかえせば、秀長は秀吉にとって、「心ゆるせる存在」であったことの証でもあったわけです。

おおむね、歴史小説家の「秀長」の扱いは、平清盛における重盛のような扱いで、

「秀長が秀吉の暴走をくいとめていた。」
「秀長が秀吉をたすけていた。」
「秀長が長生きしていたら豊臣政権は安泰だった。」

ドラマや小説でよく使用される「たら・れば偉人」の扱いです。

もしこの人が生きていたら… 惜しいことをしたなぁ~

という役割です。

また、作家の堺屋太一さんが「ある補佐役の生涯」と副題をつけた『豊臣秀長』という小説は、たいへんおもしろい視点で「秀長」を主役とした小説に仕上げておられました。

「参謀」と「補佐役」

この二人は欠かせない存在であるとともに、同じものではないのだ、ということを見事に(小説として)描いておられます。

秀吉の「参謀」は黒田孝高。
秀吉の「補佐役」は豊臣秀長。

という視点です。

参謀とは、方向性や知恵、判断材料を司令官に提供する役割です。ピンチを嗅ぎ取りチャンスを教える… 司令官を動かす役割でもあります。

補佐役は、参謀とは違うのだ、ということです。司令官の決めたことを運用するにあたって、円滑により確実に進行できるようにする… 決断した司令官や動いている司令官の迷いを軽減する役割もしなければなりません。

堺屋太一さんの小説が、ちょっと手元に見当たらないので正確には引用できなくて申し訳ないのですが、備中高松城での水攻めのとき、本能寺の変を告げる使者を受けたときの、官兵衛、秀長の二人の対応が、参謀と補佐役の違いを見事に描いていて、たいへん印象的でした。

官兵衛は、「好機到来。殿が天下人になれるときがきました。今、ここからすぐに引き返して明智を討てば天下は殿のものになりますぞ!」と、“きわどい”言葉で秀吉を動かそうとしました。智謀と悪謀、ギリギリの献策です。

秀吉は、「そのとおり!(でも…それはそうなのだが…)」と思います。

秀長は、「兄上は、上様(信長)からひとかたならぬご恩を受けて参りました。今日あるのはすべて上様のおかげでございます。仇をうち、お恨みをおはらし申し上げずに何といたしますか。他の者に上様の仇をうたれてしまっては、あの世で上様にお会いしたとき、兄上は何と申し開きをなさるおつもりですか。」と言います。

これなんですよね、このあたりが「参謀」と「補佐役」が違うところです。

司令官の決断に決意をともなわせる。うしろめたさを消し、自信を持たせる…

「補佐役」は、司令官に逆らったり、司令官が一度決めたことをくつがえしたりする役割ではありません。
よく、秀吉に唯一意見が言えた男、などと表現する場合がありますが、秀長は秀吉に「意見」して、その考え方や行動を戒めたことはありません。
「補佐役」は、司令官が決めたことをそのとおりに、「うまく」実行するように進めるのが主な役割。諌止や補正は「参謀」が提案すべきことなんです。

ただ…

こはにわは、歴史ファンのみなさんには申し訳ないのですが、黒田官兵衛は秀吉の「参謀」でもなかったし、秀長は「補佐役」というほどのものでもなかったと考えている派なんですよ。(官兵衛の話は以前にこのブログで「黒田官兵衛 もう一つの顔」でいたしましたので、同じことは申しませんので、こちらを再度参照してください。)

豊臣秀長は、豊臣秀吉の弟です。

こはにわは、それだけでも、大きな意味があった、と、思っています。
武略も、智謀も、他の秀吉の配下の家臣とこの際、同程度で十分なんです。

比較的ワンマンな社長がいて、その弟が副社長についている… 
なんだかこの人に相談すれば、なんとな~く、社長に通じそう…
この人の前でがんばっておけば、社長にも伝わりそう…

この“空気感”は重要です。

いやいや、大和国など、いろいろな勢力がたくさん揉め事を起こしている場所を見事に治めた手腕はすごいでしょ、という話もよく聞きます。(司馬遼太郎さんなんかはこういう説明をされていますよね。)

もともと大和国は、鎌倉時代、興福寺が守護を担当する特殊な地域で、都の貴族はもちろん、寺院の荘園が多く、室町時代になると、そこには自治性の強い村があらわれ、地元の有力者(国人)が成長し…

そこに、大名の新旧交代がおこり、いろいろな勢力が入り込んできて、もともといた旧勢力がそれら新勢力に激しく抵抗していたわけです。世は戦国時代で、新勢力が力で旧勢力をおさえこんでいた、というわけです。
織田信長の時代は、たとえば松永久秀が「大和一国の切り取り次第」を信長にみとめられ、大和を支配するようになりました。

Aという旧勢力がBという新勢力におさえられ、AとBが激しく争っている…
この状態が「大和国」が「おさめにくい」と評されていた理由です。

豊臣秀吉は、朝廷の権威かりて、寺院や下級貴族も利用して朝廷をうまく利用して政治を薦めました。
大和においては旧寺院勢力も味方に引き入れ、新勢力のBを駆逐して、いわばAを回復させることで大和国を秀長に治めたさせたわけです。
大和国を「おさめにくくしていた」勢力の敵を取り除いたわけですから、そりゃ秀長の支配を歓迎しますよね。

秀長が「大和国」をうまく統治できたのは、あたりまえ、とまでは低く評価しませんが、ものすごい内治の手腕があったというわけでもないと思うのです。

しかし、秀吉が「心ゆるせる」と信頼し、自分の代理人として秀長を用いていたことは確かです。

四国征伐のときには秀吉の代理として軍事をまかされています。
徳川家康が上洛してきたときも、家康は秀長の邸宅に宿泊しています。

大友宗麟が九州から秀吉に援助を求めてやってきたとき、秀吉はこう述べたと言われています。

 内々の儀は宗易、公儀の事は宰相に

と述べたと言われています。

 裏の話は千利休に、表の話は秀長に…

自分を消して秀吉の代理ができる人物… 秀長の魅力はこのあたりにあるような気がします。