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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

生徒たちに、よくこういう話をします。

賢い人間はすべて悪人とは限らないが、
悪人は、すべて賢い人間である。

べつに「悪」を賛美しているのではありません。悪事、というのは、やはり人の知恵の悪用であることに間違いはないと思うんですよね。

藤原頼長には、「悪左府」という称号がたてまつられました。

前にも申しましたように、こはにわは歴史人物弁護士です。「悪」とか「愚か」と言われる歴史上の人物を、そのまま放ってはおけません。

まず、この時代の「悪」という意味から…
現代人が用いる「悪」という言葉と、平安時代の「悪」という言葉は、ちょっぴり意味に差異があります。
この時代の「悪」というのは、「したたか」「きびしい」「やりて」、という意味合いが濃厚なんですよね。非常識である、ということは、逆にいえば、旧来の慣習にとらわれない、という意味もあり、「悪」というのは当時の常識とはかけ離れたものに冠される言葉でもあるんです。

ですから、後の時代に「悪左府」という言葉を聞いてしまうと、ついつい「極悪人」的なイメージで彼の業績を見てしまい、意識的に、あるいは無意識的に、「ひどい話」ばかりを抽出したり印象に残ったりしてしまっている場合も多いと思うんです。

そういう彼の「悪っぷり」を並べてみますと…

・鳥羽法皇の近臣、藤原家成の家を襲撃させる。
・仁和寺に検非違使を派遣し、僧たちと対立する。
・石清水八幡宮に逃げ込んだ罪人を逮捕しようとして流血の惨事を引き起こす。
・上賀茂神社の境内で興福寺の僧を逮捕する。
・天皇を呪って愛宕山の天公像の目に釘を打ちこむ。
・罪人が恩赦で釈放されたことが気にくわず、手下に命じて殺害させる。
・ついに謀反を企画して保元の乱を起こす。

う~ん… なかなかの「悪行三昧」ですね。

意外なことを言いますと、藤原頼長が尊敬していた政治家は、実は、

 聖徳太子さま

なんですよね。いや、ウソではありません。

彼は『台記』という日記を残しているのですが、

・学問の普及
・政治の刷新
・十七条の憲法に基づく綱紀粛正

ということを明言しています。ハッキリ申し上げますと、理想主義でかつ原理主義的なところを感じます。
院政が始まると、上皇たちの恣意的な(個人的な都合や人に対する好悪による)政治がおこなわれていた(というように頼長には思えた)こともあり、側近政治やゴマスリ政治家を一掃しようとたくらみます。
鳥羽法皇の近臣の藤原家成の家柄は、諸大夫(貴族ではあるが、高くても四位くらいまでしか出世できない家柄)であるにもかかわらず、権勢をふるっている様をみて、「こういう腐敗した政治を正す必要がある」と考えてしまったようです。
家成と頼長の従者たちが、揉め事を起こしたことをきっかけに、「目にものみせてやろう」と家を襲撃させました。

仁和寺、石清水八幡宮、上賀茂神社での事件は、罪人が逃げたり、罪人をかくまったりしたことに対する制裁や、警察権の行使で、院政期に上皇たちが、寺社保護政策をとったことに「つけあがり」、治外法権を主張して、場合によっては政道にも口をさしはさむ寺院たちに「一鞭」をくらわせる、という意図もあったと思います。

「何が悪い。おまえたちのほうが間違っているのだっ」

という確信すら感じます。

「天皇を呪って愛宕山の天公像の目に釘を打ちこむ」

という話に至っては、完全に、「ぬれぎぬ」です。

もちろん、頼長自身も“脇”が甘いことは確かで、『台記』に自分の私生活も含めて、秘事にしておかなくてはいけない色々なことを記してしまっているんですよね。
いろいろな貴族と男色関係にあったことや、自分の手下を使って、恩赦された犯罪人を殺害させたことなど、みな、つまびらかにしています。
「元祖・必殺仕事人」のようなことをしているわけですね。

「法の網の目をかいくぐって罪をまぬがれている者はゆるさんっ」

とばかりに、非合法的措置をとっているわけです。

こうして律令や慣例を無視した、頼長の復古的理想的政治は、みなが嫌悪するようになり、院の近臣などの下級貴族たち、寺院勢力などから総スカンをくらってしまうわけです。

これはそのまま、保元の乱の対立構造の背景を作り出してしまいました。

でも、頼長だけが悪いのではありません。
兄の藤原忠通に後継者がいなかったことから、一時、歳の離れた弟の頼長が忠通の養子になるのですが、忠通に子ができてしまい、忠通が自分の子を後継者としてしまったのです。
頼長は、たとえ一時でも自分の「父」となった忠通に対しては、殿中にあっては「父」としての儀礼で挨拶し、対応していたにもかかわらず、ことごとく無視されてしまいました。
近衛天皇にも嫌われ、殿中で天皇が階段をくだるときに、衣の裾をとろうとしたのに、うちはらわれてしまいます。
保元の乱も、頼長が謀反を企てたのでありません。
鳥羽法皇の崩御のタイミングにあわせて、

「崇徳上皇と藤原頼長が兵を動かそうとしている」

というデマが流れ、源義朝の兵が頼長の邸宅を接収する、という行動に出ているんです。

どう記録を見ても、頼長から何かをしかけている、ということはこの段階ではまったく無いのです。

むしろ身を守るための兵を集めた、という感じがします。
源為義、平忠正などなど、これって藤原氏が私的に雇っているような兵で、いわゆる公の武士団では実はありません。

教科書で習う「保元の乱」は、あたかも崇徳上皇と後白河天皇、平氏と源氏、の“対等”の戦いであったかのように説明されていますが、実体は、おいつめられた頼長が、身を守るために兵を集めたら、「それこそ謀反だっ」と言われて攻められた戦いだったのです。

圧倒的な兵力の差で、崇徳上皇、ならびに藤原頼長側の敗北となりました。

頼長は騎馬で脱出を図りましたが、首を射られて重傷をおいます。
出血は止まらず、意識が朦朧とするなか、奈良に避難していた父、忠実のもとを訪ねようとしますが、「謀反人」に会うわけにはいかぬと面会を断られてしまいます。
父の助けを得ようとした、というより、最期に父に一目会いたかった、というのが真相だったのではないでしょうか。

頼長は失意の中、死去しました。
37歳でした。

悪左府の排除「を」したようにみせかけて、悪左府の排除「で」得をする…
ほんとうの“悪”が別にいたような気がしませんか?
生徒たちに、こういう話をしたことがあります。

 コインを池に落としたとする。
 あ、しまった、と思ってあわてて手を入れて探そうとする。
 そうすると水底の泥が舞い上がり、探せば探すほど何も見えなくなってしまう…
 そんなときは、何もしないでしばらくじっと待つ
 すると舞い上がった泥もやがて落ち着き、キラリと水底にコインが光るのが見える。

 「何もしない」というのが最大の解決策である時があるんだよ。

さて、幕末です。
長州藩には、まさに“嵐”が渦巻いていました。

ペリーの来航以来、藩内の意見対立はかなり深刻な状態に陥ります。

 尊王はともかく、攘夷は無理だっ
 いや、攘夷をするのだっ

1858年、坪井九右衛門が引退し、周布政之助が登用され、攘夷が叫ばれます。
かと思うと、1861年、長井雅楽が登用され、朝廷・幕府との協調路線が進められます。
が、すぐに周布政之助と桂小五郎(後の木戸孝允)らがとってかわり、再び攘夷が叫ばれるようになります。
1862年、攘夷の決行が藩の方針となり、1863年には、外国船の打ち払いがおこなわれることになりました(下関砲撃事件)。
ところが都では、ひそかに長州排除の陰謀が進められており、「八月十八日の政変」が起こります。薩摩・会津両藩によって長州藩の勢力は京都を追放されることになったのです。
そして1864年には、京都で新撰組らによって多くの長州藩士が殺されたり逮捕されたりする事件も起こりました(池田屋事件)。

このままでは長州の“武門の意地”が立ちません。長州藩では、自重派と行動派の意見の対立が表面化しました。

「薩会ゆるすまじっ!」

と、久坂玄瑞らの行動派が京都に攻め上りますが、会津藩・薩摩藩などによって撃退されてしまいました(禁門の変)。
泣きっ面に蜂、とはこのことでしょうか。禁門の変の責任が追及され、第一次長州征伐がおこなわれ、さらには前の下関砲撃事件の報復として、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四国艦隊の攻撃を受けてしまいます(下関戦争)。
責任をとって、国司・益田・福原の3人の家老たちが切腹しました…

そうして椋梨藤太を中心とする保守派が長州藩の主導権を握りました。

これに対して、1865年、高杉晋作が立ち上がります(巧山寺挙兵)。武力クーデターによって保守派を打倒し、桂小五郎らの改革派が再び力を握り、大村益次郎を初め、伊藤・山県・井上と、後の明治政府を担う人材が登用されていくことになります。

 坪井→周布→長井→周布・桂→椋梨→高杉・桂

1858年から1865年まで、ほぼ1年ごとに何かが起こる、「激動の長州」の時代が続きました。

藩主、毛利敬親は、この大変動の嵐の中でいったい何をしていたのでしょうか?

    何もしていない

のです。

毛利敬親には、誰が呼んだか“そうせい侯”という異名がたてまつられていました。

 保守派が申し出ても、「うむ、そうせい!」
 改革派が申し出ても、「うむ、そうせい!」

で、最初の話なんです。

毛利敬親は、「何もしない、ということが、ときに最大の解決策なのである」ということをよくよく理解していた人物だったのではないでしょうか。

と、いうか…

これは毛利敬親の資質、というよりも、当時の日本の藩主たちの、もっとも模範的なあり方がこういうことだったのではないでしょうか。

 君臨すれども統治せず

何もしない、というのではないのです。
何もしない、ということを、する、ということです。

ものすごい動乱の中、ジタバタ、ああでもない、こうでもないと、何の専門性も持たないトップが介入すると、混乱に拍車がかかってしまうことがけっこう多いのです。
もちろん、それにともなう犠牲や損害も出るのでしょうが、結果としてあれこれ作為するよりも、犠牲も被害も最小に抑えられる場合があるんですよね…

薩摩藩も土佐藩も、藩主が“英明”でかつ“英邁”にふるまっていても、長州藩と同様、藩内の対立から多くの血が流れています…
藩政の改革、ということでは、島津斉彬よりも山内容堂よりも松平春嶽よりも、ずっとずっと毛利敬親のほうがコストパフォーマンスがよいんですよね。

毛利敬親は、長州藩の嵐の中心にふさわしく、徹底的に“真空”でした。
いや、物事を激しく回転させるときは、台風と同じで、その中心は真空でなければならないのかもしれません。

保守派も改革派も関係がありません。その時々に必要な、最も優秀な人材が、それぞれおもいっきり力を発揮できる状況を、自らを真空にすることによって毛利敬親は作り出せていたのです。

「何もしない、ということを、する」という達人の技…
なにせ見えない技です。毛利敬親にまつわる逸話の中に、チラチラと垣間見える程度なのですが、次の話の中にヒントがあるかもしれません。

毛利敬親は、明倫館という藩校の改革や、新しい藩校、有備館という藩校を建設しています。
そこでは、若くて優秀な人々が学ぶだけでなく、「藩主に発表する」という機会が与えられているんですよね。

“親試”

という制度で、いろいろな試験・試問の後、最後は藩主自らが「評価」する、というものです。

新入社員に、架空の新企画を立てさせてみて、社長にプレゼンさせてみる、という制度のようなもんです。

藩主に提案する、意見を言う、そしてそれが評価される、という“空気”を若いうちからたっぷりと呼吸させておくんですよね。

 おまえの話は、他の学者のだれよりもおもしろいぞっ!

吉田松陰は、この殿さまから言われたことを生涯忘れませんでした。

 うむっ そうせい!

と、言われたいがために、藩士たちは必死で吟味、研鑽して、「そうできる」ものしか殿さまには提案しなかったのだと思います。

薩摩や土佐が、泥の中に手をツッコミ、金貨はどこだっ と、探し回っている間に、じっと座って、舞い上がる泥が沈殿していくのを待つ…
そうして水底に、キラリと光る金貨を、いともたやすく、これとこれとこれね、と、つまみあげていく。

出てくる出てくる、木戸孝允、大村益次郎、伊藤博文、井上馨、山県有朋… というわけです。

「伊達」という名前を聞くと、あれ? 仙台藩の? と思う人が多いと思いますが、伊達宗城は、仙台藩の藩主ではなく、宇和島藩の藩主です。

宇和島伊達家と仙台伊達家はもちろん伊達政宗と関係があります。
伊達政宗には、秀宗、という長子がいたのですが、庶子でかつ豊臣秀吉にかわいがられていたこともあり、後の徳川政権に「遠慮」して秀宗には家を継がせませんでした。
大坂の役で活躍したことをきっかけに、秀宗も大名にしてやろう、と、将軍秀忠から宇和島藩の藩主に任じられました。

さてさて、伊達宗城ですが…
旗本の山口家の次男として生まれました。
実は、祖父が宇和島藩主伊達村侯の次男で旗本の山口家に養子に出されていた人物だったのです。本家の伊達宗紀に男子の後継者がいなかったことから、もっとも血縁の濃い、宗城が養子となって宇和島伊達家を継ぐ、ということになりました。

おもしろいもので、歴史に名を残す人物は「本来ならばその家を継ぐはずではなかった人」である場合が多いのですよね…
武田信玄、上杉謙信、徳川吉宗、井伊直弼などなど… 他にもたくさんそういう話はあります。

伊達宗城も、まさか宇和島藩の藩主になっちゃうとは思っていなかったでしょう。

そういうこともあってか、宇和島藩主となると、旧来の陋習にとらわれず、積極的な藩政改革に乗り出しました。

ろうの専売、石炭の採掘、蘭学の研究などなど… (案外と知られていないのですが、幕府の指名手配を受けた蘭学者の高野長英を宇和島に呼び寄せたりもしています。)

明治新政府に参加した元藩主、というのは少ないのですが、伊達宗城は違います。
“外交”“財政”に才能があったようで、鉄道建設に必要な費用をイギリスから借り受ける交渉に成功し、さらには日清修好条規を結んで中国と対等な関係を樹立しました。

ハワイの国王が来日したときに接待したのは伊達宗城で、他の列強の元首と差別しない待遇で迎えたため、その接待に感激したハワイ国王から勲章まで授かっています。

話を幕末にもどします。

伊達宗城が参勤交代で江戸にいたとき、ちょうどアメリカ合衆国の太平洋艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航しました。
すぐさま、浦賀へ“見学”に向かいます。

多くの大名が「黒船」に驚いていたなか、一人違う感想を持ちました。

「あれ、ほしいよなぁ~ ほしいほしい!」

で、宇和島に帰った時、藩の重臣たちを集めて話をしました。

「おまえら、蒸気船知っているか? すごいぞ~」

と、語り始めます。
殿の“お話し”です。はいはい、ほうほう、と感心したり興味深そうにしたりしながら聞いていた家臣たちは、次の殿の言葉に凍りつきました。

「…というわけで、わたしは蒸気船がほしい! 蒸気船をつくれ。以上。」

え… ま、ま、まじですかぁ~

えらいことになりました。殿のお言葉です。
まず、蒸気機関とは何なのだ?? ということになり、外国のもんだから長崎だろっ ということになり、長崎に「調査団」を派遣します。
なんとか専門書と設計図らしきものを手に入れました。
しかしオランダ語が読めない…

蘭学の医者なら読めるんじゃないか? となって、オランダ語の得意な医者を探し始めました。
で、見つかったのが、長州にいた医師、村田蔵六さんです。

 え… わ、わたし、医学しか知りませんが…

とにかくたのむっ! ということで翻訳をさせることになりました。

蒸気機関はどうしよう… とりあえず村田蔵六の翻訳で、しくみはわかったが、どうやって作るのか…

モノ作りは、やっぱ職人だろっ ということで、宇和島城下の提灯屋を呼び出して蒸気機関を作れっ と、命じてしまう。

 え… わ、わたし、提灯屋なんですけど…

とにかくやれっ! やれっていったらやれっ! と蒸気機関の研究をさせました。

もう、むちゃくちゃとしか言いようがありません。

が、しかししかし! なななななんと! たった三年でこの二人は蒸気機関を搭載した蒸気船を完成させてしまいました。

薩摩藩の島津斉彬が造船した蒸気船が日本初の蒸気船、とか言うておりますが、それはまちがいです。
島津斉彬は外国人技師に手伝わせていますが、宇和島藩は、日本人だけで(しかもほぼ専門外の人たちによって)作ってしまったのです。

村田蔵六は、これをきっかけに、軍事技術の研究に目覚め、その研究に力を注ぐようになりました。
この村田蔵六こそ、戊辰戦争のときの軍参謀、後の大村益次郎だったのです。彼は日本の軍隊制度の基礎をつくりあげることになります。

そして提灯屋の嘉蔵さん… 彼は、後の前原巧山。明治時代を代表する技術者で、ゲベール銃の国産化、木綿織機の製造、爆弾の雷管の作成などを手がけ、ミシンの製造にも成功しました。(ちなみにパンまで作ろうとして、これは失敗しますが…)

伊達宗城は蒸気船「を」つくったのではありませんでした。
蒸気船「で」多くの人材をつくった、というわけです。
古今東西、財政問題は政治の要で、財政=政治と考えてもよいくらい大切なことです。
諸大名たちは、つねに藩の財政をどうするかに頭を悩ませていました。

で、財政政策は、いつの時代でも二種類で…

 カネを使うか、カネを使わないか

の、どちらかです。

カネを使うことはカネを生み出すこと、というのが財政出動です。カネを使うことは何かを買う、ということで、それによって売り手が生まれて、経済がうるおいます。

「消費」がすなわちここでは政策になります。

カネを使わないということはカネを蓄えるということです。ムダをなくし、余剰を生み出してそれを蓄えていく…

「節約」がすなわちここでは政策になります。

薩摩藩第8代藩主、島津重豪は、前者の経済政策を展開しました。

というか… こんなおもろいオッサンはちょっといません。

重豪は、江戸で生まれ育ったこともあり、地元薩摩の土俗的とでもいうべき風習が大嫌いで、その後進性(ようするにド田舎の空気)を一掃しようとします。

江戸の爛熟した空気をいっぱい吸った重豪は、薩摩のひどい方言を上方言葉に矯正し、町並みも美しく整え、江戸で習った蘭学を通じて、薩摩に帰国後は長崎にまで出かけて「西洋文化」を取り入れようとしました。

医学も学び、ローマ字も書けるようになり、オランダ語も話せた、といいます。
植物園もつくり、黒砂糖や薬草(とくに朝鮮人参)も栽培する…

なにより、若いうちから薩摩の武士たちを「教育」しないと積年の泥臭さは消えないっ と考えて、学校をつくって武士の子弟を学ばせました。

江戸の文化がとにかく好き。
重豪の「中央指向(嗜好)」はそのまま幕府に接近することも意味しました。
そして自分の娘を将軍徳川家斉の御台所にすることにも成功します。

田舎臭い空気を消し飛ばすため、町人たちの他国への旅行、他国の商人たちの来訪を奨励、花火師も呼ぶし、芝居小屋を出すことも認める…

薩摩の地に“ミニ江戸”を再現したかのようでした。

こういうド派手なオッサンって、昔は親戚に必ず一人はいて、大人たちは、ちょっと敬遠しがちだけれど、子供にとっては大好きなタイプなんですよね。

この重豪に、めちゃくちゃかわいがられて、いっしょに風呂まで入って、おもしろい話を聞いて育ったのが、重豪の曾孫、

 島津斉彬

だったのです。

あきらかに“重豪おおじぃさま”の影響、モロに受けちゃいますよね。

でもね… 重豪さん、ちょっと「やり過ぎ」ました。

急速な改革は、頑迷な保守を生みます。

実際、息子の斉宣は、「西洋かぶれ」のこの父と、どうもウマが合わず、国学者の高山彦九郎(京都三条京阪の駅で、皇居にむかって拝んでいる人。けっして土下座しているのではない。)と親交を結ぶほどの「西洋嫌い」になっていました。
父が隠居して藩主の座を継ぐと、斉宣は、父の重豪の政策とは“逆コース”に舵を切るようになりました。

緊縮財政の展開です。

実際、重豪の「放漫財政」のおかげで藩財政は逼迫し、慢性的な赤字に陥っていました。
カネがかかる政策をすべて見直し、無駄な(と、斉宣には見えた)西洋化政策をことごとく停止してしまいました。

隠居していた重豪は当然ムカつきます。
自分を否定するような息子はゆるさんぞっ!!

たちまち息子を隠居させ、孫の斉興を藩主にしてしまいました。クーデターの実行です。

で、斉興が幼いことをいいことに、

「この子が大きくなるまでわたしが政治をするっ!」

と宣言して藩の実権を再び握ることになりました。

重豪は、なんと89才まで長生きします。このせいで、孫の斉興は42才まで政治をさせてもらえませんでした。
重豪は長崎で、あのシーボルトにも面会しているのですが、シーボルトは、

「え?! あの人、80才超えてるの?? 60才くらいかと思った~」

と、驚いたといわれています。かなりバイタリティーあふれる御老人だったのでしょう。

重豪の「影響」と「教育」で、島津斉彬は開明的で聡明な人格を形成することができましたが、思わぬ「悪影響」も斉彬におよぼしてしまいました。

一つは、父、斉興が、なかなか隠居せず政治を執り続けることになってしまう、ということを正当化してしまいました。
なんせ42才になるまで政治をさせてもらえなかったものですから、藩主の座と権力に執着がありました。
よって斉彬は40才になっても藩主にはなれなかったのです。

やりたいことはいっぱいあるのになかなかできない…
おおじいさんのせいだっ とは、言えないんですよね。そのおおじいさんのおかげで自分というものがあるのですから…

そしてもう一つは…
重豪の改革によって退けられていた藩内の保守派たちが、ムクムクと息を吹き返してしまいます。
保守派たちは、重豪にかわいがられていた斉彬が藩主になって再び改革を始めることをおそれるようになったのです。
で、嫡男の斉彬ではなく、側室の子、久光を後継者にする動きが藩内に起こるようになり、薩摩藩を二分する「御家騒動」を引き起こしてしまうことになりました。

ところがおもしろいことに、この問題を解決したのはやはり「重豪の影響」でした。

重豪の時代、薩摩藩は幕府に近い外交をしていたので、幕府としては旧重豪派(斉彬派)が薩摩藩の実権を握ってくれるほうがありがたいので、老中阿部正弘が、

 後継者は島津斉彬にせよ。

と裁定することになったのです。

こうして薩摩藩主となった島津斉彬は、次々と改革を進めていきました。

反射炉の建設、西洋艦船の造船、ガラス製品の製造、蒸気機関の国産化にも成功します。
そうして自分の娘(養女)を、将軍徳川家定の御台所にします…

…て、あれれ?? これってまさに島津重豪のやったこととソックリ同じですよね。

重豪が育てた若手の官僚たちが斉彬を支え、その若手官僚の子どもの世代に斉彬が「影響」をあたえていく…
島津斉彬の「西洋化政策」のきらびやかさと先進性に魅せられた下級武士たちがこうして育っていくことになりました。

西郷隆盛、大久保利通らがこうして造られていったのでした。
     すべてを求める者は、すべてを失う者である。

山名宗全。応仁の乱のときの西軍の総帥で、足利義政の後継者をめぐって東軍の総帥、細川勝元と対立した、と、よく説明されいます。

イメージ的には、粗暴で、礼儀を知らず、政治家としてよりも軍人としてのふるまいが目立ったように、ドラマや小説では描かれがちです。

ただ、この“イメージ”は、江戸時代のベストセラーとなった、

『偐紫田舎源氏』

という小説の中で、将軍の位をねらう悪い家臣、という役回りを与えられてしまったために、以後、どうしてもそういうバイアスがかかってしまい、江戸時代のフィルターを通じて、すっかり武断的な要素が誇張して引き伸ばされてしまいました。

嘉吉の変で、将軍足利義教を殺害した赤松満祐を討伐した後、いっきに旧赤松支配地域をおさえ、10ヶ国を一族で支配するようになりました。
ところが、その翌年あっさりと出家してしまいます(このときは宗峯と号します)。

足利義政と対立し、その不興をかうようになると、ぱっと転身してあっさりと政界から身を引きます。

「強欲」に何かを求めているようで、すべてを自分のものにすることなく、同族、子どもへの分配もしっかりとおこない、軍功においても、すべて山名軍で勝利せずに、大内氏などに勝ちを譲るような行動をしています。

勝ちすぎるとうらまれる…
とりすぎると疑われる…

そういう機微をよく知っていた武将のような気がします。

政治家よりも、軍人としてふるまった、ということは正しい指摘かもしれません。
軍人は、あたりまえですが、命をかけて戦うために、どうしても現実的で、実際的、そうして合理的になります。

『塵塚物語』に記されたこの言葉も山名宗全らしい言葉です。

 「例」という文字をば、向後は「時」という文字にかえて御心えあるべし。

応仁の乱の際、山名宗全に対して、先例をあげて(慣習や作法をふまえて)、戦いをおわらせるように申し出てきた公家に対して、

例という言葉はこれからは時という言葉に改めてお使いなさい。
先例にとらわれて時流ということを忘れるのは愚か。
先例先例と言っておるから貴族は没落し、わたしのような者があなたと対等に口をきいていることになっている、という現実を思い知りなさい。

と、たしなめたと言います。

     例という文字を時という文字にかえよ。

下剋上、実力主義の先駆け、応仁の乱の中心人物、山名宗全の言葉としてふさわしい響きがあります。