藤原頼長はそんなに「悪」なのか?? | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

生徒たちに、よくこういう話をします。

賢い人間はすべて悪人とは限らないが、
悪人は、すべて賢い人間である。

べつに「悪」を賛美しているのではありません。悪事、というのは、やはり人の知恵の悪用であることに間違いはないと思うんですよね。

藤原頼長には、「悪左府」という称号がたてまつられました。

前にも申しましたように、こはにわは歴史人物弁護士です。「悪」とか「愚か」と言われる歴史上の人物を、そのまま放ってはおけません。

まず、この時代の「悪」という意味から…
現代人が用いる「悪」という言葉と、平安時代の「悪」という言葉は、ちょっぴり意味に差異があります。
この時代の「悪」というのは、「したたか」「きびしい」「やりて」、という意味合いが濃厚なんですよね。非常識である、ということは、逆にいえば、旧来の慣習にとらわれない、という意味もあり、「悪」というのは当時の常識とはかけ離れたものに冠される言葉でもあるんです。

ですから、後の時代に「悪左府」という言葉を聞いてしまうと、ついつい「極悪人」的なイメージで彼の業績を見てしまい、意識的に、あるいは無意識的に、「ひどい話」ばかりを抽出したり印象に残ったりしてしまっている場合も多いと思うんです。

そういう彼の「悪っぷり」を並べてみますと…

・鳥羽法皇の近臣、藤原家成の家を襲撃させる。
・仁和寺に検非違使を派遣し、僧たちと対立する。
・石清水八幡宮に逃げ込んだ罪人を逮捕しようとして流血の惨事を引き起こす。
・上賀茂神社の境内で興福寺の僧を逮捕する。
・天皇を呪って愛宕山の天公像の目に釘を打ちこむ。
・罪人が恩赦で釈放されたことが気にくわず、手下に命じて殺害させる。
・ついに謀反を企画して保元の乱を起こす。

う~ん… なかなかの「悪行三昧」ですね。

意外なことを言いますと、藤原頼長が尊敬していた政治家は、実は、

 聖徳太子さま

なんですよね。いや、ウソではありません。

彼は『台記』という日記を残しているのですが、

・学問の普及
・政治の刷新
・十七条の憲法に基づく綱紀粛正

ということを明言しています。ハッキリ申し上げますと、理想主義でかつ原理主義的なところを感じます。
院政が始まると、上皇たちの恣意的な(個人的な都合や人に対する好悪による)政治がおこなわれていた(というように頼長には思えた)こともあり、側近政治やゴマスリ政治家を一掃しようとたくらみます。
鳥羽法皇の近臣の藤原家成の家柄は、諸大夫(貴族ではあるが、高くても四位くらいまでしか出世できない家柄)であるにもかかわらず、権勢をふるっている様をみて、「こういう腐敗した政治を正す必要がある」と考えてしまったようです。
家成と頼長の従者たちが、揉め事を起こしたことをきっかけに、「目にものみせてやろう」と家を襲撃させました。

仁和寺、石清水八幡宮、上賀茂神社での事件は、罪人が逃げたり、罪人をかくまったりしたことに対する制裁や、警察権の行使で、院政期に上皇たちが、寺社保護政策をとったことに「つけあがり」、治外法権を主張して、場合によっては政道にも口をさしはさむ寺院たちに「一鞭」をくらわせる、という意図もあったと思います。

「何が悪い。おまえたちのほうが間違っているのだっ」

という確信すら感じます。

「天皇を呪って愛宕山の天公像の目に釘を打ちこむ」

という話に至っては、完全に、「ぬれぎぬ」です。

もちろん、頼長自身も“脇”が甘いことは確かで、『台記』に自分の私生活も含めて、秘事にしておかなくてはいけない色々なことを記してしまっているんですよね。
いろいろな貴族と男色関係にあったことや、自分の手下を使って、恩赦された犯罪人を殺害させたことなど、みな、つまびらかにしています。
「元祖・必殺仕事人」のようなことをしているわけですね。

「法の網の目をかいくぐって罪をまぬがれている者はゆるさんっ」

とばかりに、非合法的措置をとっているわけです。

こうして律令や慣例を無視した、頼長の復古的理想的政治は、みなが嫌悪するようになり、院の近臣などの下級貴族たち、寺院勢力などから総スカンをくらってしまうわけです。

これはそのまま、保元の乱の対立構造の背景を作り出してしまいました。

でも、頼長だけが悪いのではありません。
兄の藤原忠通に後継者がいなかったことから、一時、歳の離れた弟の頼長が忠通の養子になるのですが、忠通に子ができてしまい、忠通が自分の子を後継者としてしまったのです。
頼長は、たとえ一時でも自分の「父」となった忠通に対しては、殿中にあっては「父」としての儀礼で挨拶し、対応していたにもかかわらず、ことごとく無視されてしまいました。
近衛天皇にも嫌われ、殿中で天皇が階段をくだるときに、衣の裾をとろうとしたのに、うちはらわれてしまいます。
保元の乱も、頼長が謀反を企てたのでありません。
鳥羽法皇の崩御のタイミングにあわせて、

「崇徳上皇と藤原頼長が兵を動かそうとしている」

というデマが流れ、源義朝の兵が頼長の邸宅を接収する、という行動に出ているんです。

どう記録を見ても、頼長から何かをしかけている、ということはこの段階ではまったく無いのです。

むしろ身を守るための兵を集めた、という感じがします。
源為義、平忠正などなど、これって藤原氏が私的に雇っているような兵で、いわゆる公の武士団では実はありません。

教科書で習う「保元の乱」は、あたかも崇徳上皇と後白河天皇、平氏と源氏、の“対等”の戦いであったかのように説明されていますが、実体は、おいつめられた頼長が、身を守るために兵を集めたら、「それこそ謀反だっ」と言われて攻められた戦いだったのです。

圧倒的な兵力の差で、崇徳上皇、ならびに藤原頼長側の敗北となりました。

頼長は騎馬で脱出を図りましたが、首を射られて重傷をおいます。
出血は止まらず、意識が朦朧とするなか、奈良に避難していた父、忠実のもとを訪ねようとしますが、「謀反人」に会うわけにはいかぬと面会を断られてしまいます。
父の助けを得ようとした、というより、最期に父に一目会いたかった、というのが真相だったのではないでしょうか。

頼長は失意の中、死去しました。
37歳でした。

悪左府の排除「を」したようにみせかけて、悪左府の排除「で」得をする…
ほんとうの“悪”が別にいたような気がしませんか?