こはにわ歴史堂のブログ -95ページ目

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

山内容堂。
第15代土佐藩の藩主です。
学校の教科書では、

 将軍徳川慶喜は、前土佐藩主の山内容堂の意見を入れて、大政奉還をおこなった。

という趣旨の説明がおこなわれています。
いわば大政奉還の立役者、という扱いです。

子どものとき、二つのことが気になりました。
一つは、「前土佐藩主」というところ。
あれ? 土佐藩主じゃないんや… 引退してたのに将軍に意見できたんか??

もう一つは、どんな「意見」を言うたら、慶喜は幕府をやめちゃう気になったんやろ、というところです。

よく申しますように、本来、後継者になるはずでなかった人、というのは歴史に名を残している人物が多いんですよね…
山内容堂もまさにそういう人です。

第13代豊煕が死去した後を継いだ第14代豊惇は、な、なんとわずか12日で急死…
これ、ふつうなら山内家はとりつぶしの断絶です。
豊惇の弟が血統的には近いのですが、わずか3歳…

ところが幕府の老中阿部正弘が、ものすごい技を出して山内家の危機を救いました。

「豊惇は死んではおらぬ。隠居だな。」

としたうえで、分家の山内豊信を、豊惇の弟が成人するまでの間、“中継ぎ”の藩主として豊信が第15代土佐藩藩主となったのです。

もともと藩主になることなどありえないはずの人物。
しかもまだ22才という若さ。
いわば、まぁ、酒と趣味をして暮らしていた“遊び人”が突如、藩主となったわけです。
実際、酒が大好きで、会議の場でも休日でも、いつでも酒を飲んでおり、自ら

「鯨海酔侯」

と名乗っていました。

もちろん、土佐藩の古いしきたり、慣習にはとらわれない、古い考え方の重臣たちに気兼ねすることもほとんどない…
よって、思い切った「改革」に乗り出せました。

1853年、といいますから、ペリー来航と同じ年です。
藩内の若手改革派のグループ「新おこぜ組」を取り立て、そのリーダーであった

吉田東洋

を、仕置役、という藩主の命を直接実行にうつす執政官に任命して改革を断行させていきました。

西洋式の軍備導入
海上防衛の強化
身分制度の改革

吉田東洋は、東洋ではなくまさに“西洋”というべき開明的改革をめざしました。
吉田東洋の功績は、藩士の中から、後藤象二郎と福岡孝弟を見出して引き上げたことだと思います。

自分を藩主にしてくれた老中阿部正弘とはたいへん親しく、越前の松平春嶽、宇和島の伊達宗城、薩摩の島津斉彬らとともに、幕府の改革と、その強化によって、「新しい国家」をつくる、という構想を持つようになりました。

病弱だった第13代将軍家定の後継に一橋慶喜を立てて、幕府の近代化=「新しい国家」建設を企画しましたが、大老についた井伊直弼は、徳川慶福(後の14代家茂)を将軍に立ててしまいます。

容堂はすばやく、隠居を申し出ます。
翌年、「安政の大獄」が始まり、謹慎の命令が出されますが、山内容堂にはそれほど厳しい処分はくだされなかったのも、先手をうった転身が功を奏したともいえます。

ところがこの謹慎中に、大事件が起こりました。「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺されたのです。
ここから「尊王攘夷」の嵐が全国に吹き荒れました。
土佐藩の中では、武市半平太(武市瑞山)を首領とする土佐勤王組が勢力を伸ばしていました。
土佐勤王党は、吉田東洋を暗殺して、藩政を主導し、「開明」から「攘夷」へと転換してしまいました。

ところが、1863年、八月十八日の政変で、攘夷の急先鋒の長州が京都から追放され、朝廷の空気が「攘夷」から「公武合体」へと転換するようになります。

謹慎を解かれた山内容堂は土佐にもどると、土佐藩内の「攘夷」を一掃すべく、土佐勤王党の弾圧と粛清を開始しました。

そうして、朝廷の参与会議に参加するが気に入らず欠席…
そうして、薩摩藩を中心とする四侯会議に参加するが気に入らず欠席…

そんなとき、後藤象二郎から、一つの「案」を見せられます。
それが

「船中八策」

です。坂本龍馬が考えたものを、後藤象二郎が容堂に示したわけです。

一 大政奉還
一 議会の設置
一 人材登用
一 条約改正
一 憲法制定
一 海軍増強
一 固有の軍事力
一 金銀交換レートの変更

これこれ! これだっ

と容堂は思ったのでしょう。とくに最初の三つの項目に容堂は魅かれました。

もともと「幕府」は、天皇から政権を委任された政府にすぎない。だったらいったん天皇に政権を返し、あらためて天皇が「新しい政府」に政権を委任すれば、「幕府」という名前はなくなっても、それは「幕府の近代化」と同じである、と、考えたのです。

「議会」の議長が征夷大将軍で、諸侯の代表として政治を続ける…

理念にすぎない「公武合体」を、まさに実体化したものだっ と、思ったわけです。

山内容堂は「酔えば勤王、覚めれば佐幕」と揶揄されたり、西郷隆盛に「何をかんがえているのかわからぬ。単純な佐幕を主張する者のほうが与しやすい」嘆かれたり、まるで「酔っ払い」のように、「尊王」やら「攘夷」やら「佐幕」やらをふらついているかのように見えますが、よくよく考えてみると、激動の幕末で、まったく「公武合体」からブレていないのがわかります。

彼は一貫して「公武合体」で「公武合体」がどうしたら一番いい形になるか、ずっと動き回っていた、と、いえるんです。
見方を逆転させれば、攘夷だ、開明だ、と、激しく揺れているのは長州や薩摩、そして幕府のほうだったともいえます。

新政府の夢に酔いながら、ふらふら千鳥足。
でも、手に持つ杖の名は「公武合体」。
しっかり支えられて歩いていた、というわけです。
岩波文庫から『太平記』が刊行されました。

は? それがどうした? と、なりそうなのですが… それを記念して…

以前、ちょっとこはにわの子どものころの話をさせてもらったことがあります。
いっしょに暮していたおじさんが、かなりのインテリで、漢文の教養も深く、日本の古典などもそらんずる、という昔の人にありがちな人でした。
家には『史記』や『平家物語』、『太平記』などがズラっと並んでいて、「おじさんの本棚」は、なかなかの威容でした。

小学校の低学年の子どもに、『史記』『平家物語』『太平記』を原文で説明するって、ちょいすごい人だったと思います。もちろん、ちんぷんかんぷんでしたが、「訳」を平易に説明してくれて、小学校の高学年になったころには、「訳」された話がしだいにおもしろくなってきました。

『太平記』、というと、つい子どものころが懐かしく思い出されます。(どんな子どもやねんっ)

『史記』は、逸話的には『太平記』と関わりが深いものです。というか、『太平記』の中に『史記』に関係する話がちょろっと出てきます。

 天、勾践をむなしゅうするなかれ
 時に范蠡、なきにしもあらず

御醍醐天皇が隠岐に流される場面の話に出てくるのですが(詳細は申しません。これから太平記を読んでみようかな、と、思う方のネタバレになってしまうので。)、「勾践」と「范蠡」の話を『史記』で知っていれば、ぐっとこの話も「深く」楽しめます。

おじさんは、この場面のときに、勾践と范蠡の話もしてくださいましたが、その「脱線」がまた長い。越王と呉王の対決の話、そして「臥薪嘗胆」の話など、どんどん広がる広がる…

日曜日の朝のおひるごはんまで、庭の縁側で日向ぼっこしながらそんな話をほぼ毎週聞いていました。

『太平記』は、いろんな話が出てきておもしろいんですよ。
なんと「聖徳太子」さままで登場してるんです。聖徳太子が、楠木正成の決心を促した、というと大げさですが、そのような場面もあります。
初めて読まれる方は、それがどこのことなのか、ちょっと気にしてみてください。

おじさんの「語り」で印象的なのは、

「桜井の別れ」

でした。
ただ、今から思えば、これは戦前の修身の教科書には必ずとりあげられていたエピソードなので、おじさんの世代は、みんな知っていた話なんでしょう。

楠木正成が、あたかもナポレオンを迎え撃つロシアのクツーゾフ将軍のような、都そのものを囮と罠にする作戦を御醍醐天皇に献策するが退けられてしまいます。

そして子の正行と、今生の別れとなる…
父といっしょに戦うという息子を諭し、

一族郎党、みな永らえて生きよ、生きていつか朝敵をほろぼすのだっ

まさに

花は散る
幹・根は残す
武家の家

です。

正成が正行に、菊水紋の小刀を渡す場面の説明のときには、縁側に腰掛けているおじさんが、庭に座っているわたしに、ぐっと扇子を差し出して正成を模して話してくれました。
いやいやなかなかの気持ちの入れようですよね。

正行の戦いぶりは、少数を率いての(というか兵力差はあきらかに北朝方が有利だったのですが)一撃離脱戦法で、摂津四天王寺と住吉浜の戦いで、山名・細川連合軍を撃退しています。

このとき、正行は、川でおぼれたり負傷したりしている兵を助け、衣服まで調えてやって敵陣にかえしてやっています。
中世の残照を感じさせます。
いったん戦さが決した後は、敵を徹底的には滅ぼさない、身を処する最期の決定は、本人にゆだねてやる…

実に日本的な、という武家の作法と情けが美しく描かれています。

こういう話を聞いて育った子というのは、たとえケンカをしても、仲直りや陰湿なイジメにはおよばぬ精神構造が育つような気がします。(戦前教育を賛美しているのではありませんよ。)
池に落ちた者をそれ以上叩いてはならぬ、というところでしょうね。現代は、ちょっとこの精神を忘れているような気がします。

さて、おじさんに連れられて吉野の桜を見に行ったことがあります。
行ったところは、吉野の如意輪時。

そこにいくまでの間に電車で話してくれたのは

 四条畷の戦い

でした。

弁内侍という絶世の美女が、高師直に連れ去られようとするのを正行が助ける、という話があるんですが…

今も昔もこんな話、ドラマではありますよね。高師直が悪役にされちゃう理由の一つでもあります。何度も強調しておきますが、高師直はそんなに悪人ではありません。非常に能力の高い武将です。昔の話は、一方を悪、一方を善、として描くので仕方がありません。
(南北朝期の足利ファミリーは、必ずコヤブ歴史堂のほうでもとりあげたいと思います。)

その美女は、後村上天皇が正行と結婚させようとします。ところが…

 とても世に
 永らふべくもあらう身の
 仮のちぎりを
 いかで結ばん

という歌を詠んでこの申し出を断りました。死を決して朝敵と戦うことの表明です。

そんな話を聞きながら、よいタイミングで、如意輪堂にたどりつく。

で、壁板に刻まれた歌をおじさんは教えてくれるわけです。

 かへらじと
 かねて思へば梓弓
 なき数にいる
 名をぞとどめる

壁板に刻まれた文字ですが、矢じりで刻んだと言われています。
こうして正行の最終決戦、四条畷の戦いにおもむくわけです。

和歌を矢で記す…

子どもながらにしびれるようなカッコよさを感じました。
みなさんも機会があれば吉野の如意輪寺へ行ってみてください。
醍醐天皇と藤原時平。
この二人には、おもしろいエピソードが残っています。

ある時、藤原時平が、宮中に派手なカッコをしてやってきました。
うわっ ちょ、時平さん、それ、ちょっとアカンのとちゃいますか? と、他の貴族は驚きました。しかし、相手は、権力者、藤原時平… 誰も文句は言えませんでした。

ところが醍醐天皇がそれを見て

「なんという派手なカッコをしているのだっ つつしみなさいっ」

と一喝なさいました。
たちまち時平は平伏し、「もうしわけありませんでしたっ」となり、しばらく自宅謹慎を命じられるのです。

お~ やっぱり天皇さまはすごいっ
あの藤原時平ですら醍醐天皇の前ではああなるのか、と、宮中ではもっぱらその“噂”でもちきりでした。

ところがこれ、実は、醍醐天皇と藤原時平の“お芝居”だったのです。
二人はあらかじめしめしあわせて、このような演劇を仕組んだのでした。

一つは天皇の権威を高め、醍醐天皇による「親政」(天皇自ら政治をおこなうこと)をおこなうため。
醍醐天皇によるこの時代の政治は、後に「延喜の治」とたたえられますが、藤原時平によるプロデュースだったんですよね。

もう一つは… 当時、宮廷経費が増えていたので、経費節減を図るため、宮中で蔓延していた贅沢を禁止するため、このような“芝居”をうったというわけです。

あの時平さんまで怒られるなんて… と、効果テキメンで、たちまち貴族たちは奢侈をひかえるようになりました。

でも…
藤原時平さんが醍醐天皇に怒られた、というカッコでどんなのだったのでしょうか?

実は、奇抜なカッコをしていたのではなく、実は服の「色」に問題があったのです。

貴族の服装に関しては「衣服令」というドレスコードがあり、宮中ではそれに従うことになっていたのですが、時代が進むにつれてしだいにそれが守られなくなり、華美になっていきました。

実は、醍醐天皇のときだけでなく、

桓武天皇の783年
清和天皇の870年

にも、「派手な色を用いてはいけない」という禁色(きんじき)令が出されています。
ほぼ1世紀中に1回、というところでしょうか…

「派手なカッコ」というのは色のことで、派手な色を用いてよいのは天皇さまだけだったのです。

聖徳太子さまの、「冠位十二階」以来、位階に応じた「色」の服を貴族は宮中で着用していました。

実務官僚に多い六位の貴族はだいたい緑色。
三位、四位あたりの貴族は紫色でした。

で、天皇さんの色がなかなかおもしろい。

天皇さんは黄色
皇族はオレンジ色
上皇は赤色

なんですよ。

これ、どういう意味が、よ~く考えるとわかりませんか?

実は「太陽の色」をあらわしているんです。

夜明けのころの太陽はオレンジ色、日中は黄色で、夕陽は赤色…
太陽カラーの時間的推移をあらわしている、と、考えるとおもしろいでしょう?
こういう説を唱える研究者がおられて、こはにわも深く同意しております。

これらの色は、貴族たちは使用を控えなくてはならなかったのです。

藤原時平。

歴史の話としては、ついつい菅原道真を左遷したため、怨霊に祟られた話ばかりが有名ですが、政治家としてはなかなか優秀な人物でした。
醍醐天皇と藤原時平の政治と貴族の生活に関しては拙著『超軽っ日本史』に詳しく説明していますので、機会があれば是非、読んでみてください。
貴族の話、平家の話、そして南北朝時代は、とくに念入りに説明させていただいております。
こはにわは、なんと、にゃんたに『月刊コント』にお招きいただきました。
ほんとに楽しい120分。

コヤブ歴史堂でコントを演じてくださっている、おなじみの芸人さんたちも出演していました。

こはにわは、昔はけっこう「劇場」で、新喜劇を観に行っていたんですよ。
小学生から高校生にかけて、吉本新喜劇や松竹新喜劇を観に行ったことがあります。もちろん、テレビでも土曜日・日曜日は楽しんでおりました。

松竹新喜劇、というと、藤山寛美さん。
あの人はすごい芸人さんでした。

「悲しい話で笑わせることができたらそれこそが芸の極致や。」

という話をおっしゃっていて、こはにわはすごく感動したことをおぼえています。
松竹新喜劇の女優さんで、御陵多栄子さんという方がおられたのですが、こはにわの母親の小学生時代だったか中学生時代だったかの友人で、その縁もあってよく観に行っておりました。
楽屋まで連れて行ってもらった記憶も残っています。

吉本新喜劇は、花紀京さんや岡八郎さんの時代です。
とくに花紀京さんが大好きで、あの味のあるボケっぷりは今でも忘れられません。

芸人さんたちの“芸”というのは、テレビなどでも、もちろんおもしろいのですけれど、ライブと言いましょうか、ナマで劇場で観るほうがはるかにおもしろい。

ただ、いつも思うのですが、お笑い芸人さんたちは、ほんとうに“プロ”だ、ということです。
みな、それぞれがよく練られており、しっかりと計画されている。
むろん、その日のうちに、「おもいつき」で付け加えられるネタもあれば、本番中のアドリブなどもあるのですが、それはそれでまた、プロの経験からくる閃きに裏付けられているもので、芸人さんたちが「テキトーにやってます」「思いつきのええかげんなこと」などとおっしゃるのは、ご謙遜というもの。

舞台というのは、“一体芸術”です。

大道具さん、小道具さん、照明さんや音響さんなどのチームプレーの総合力で「一つ」の芸が完成しています。
実際に演じる人も主役や脇役などと配列されていますが、それは脚本の中だけのことで、それぞれの役割はすべて「主」で、脇役だから手を抜いてよいのではありません。

「歴史」もまた、一つの「演劇」です。

織田信長の歴史、というのがあるのではありません。
織田信長が動かす、織田信長を動かす、脚本・大道具・小道具・音響・照明、すべてそろって一つの舞台。

コヤブ歴史堂では、ふだんとりあげられない歴史の裏方などにもスポットを当てられたらなぁ、と改めて思いました。

“お~い!久馬さん”、お招きいただきありがとうございました。
この場でもお礼を申し上げます。そしてこれからも、よろしくお願いいたします。
幕末の歴史をふりかえって思うことは…

 走り出してから考える長州藩
 走りながら考える薩摩藩
 考えてから走る肥前藩

という印象です。

その肥前佐賀藩の中心人物が藩主鍋島直正でした。

授業をしていても、子どもたちにとって、肥前は印象が薄いことがわかります。

 明治政府で活躍した人で、肥前出身は誰だろう???

と、なるようです。

よく“佐賀の七賢人”という言い方があるのですが… 一人は鍋島直正。あとの六人は、

島義勇
佐野常民
副島種臣
大木喬任
江藤新平
大隈重信

なのですが…

小学生ならば大隈重信は知っています。中学生になると江藤新平を習い、高校生になると副島種臣が教科書に出てきます。でも、あとはちょっと知らないなぁ~ となる生徒が多いようです。
そもそも副島種臣が肥前出身、ということを知らない高校生もいます。

さて、その「七賢人」の一人、大隈重信は、鍋島直正に対しては“批判的”で、

「かの御仁は、やらねばならぬときに動かず、やらずともよいときに動いた。」

と、後年、述懐しています。

大隈重信の記憶で、「やらねばならぬとき」とはいつだったのでしょうか。
おそらく、薩摩と長州が倒幕の姿勢を鮮明にし、同盟を結んで手を携えて行動を開始したときだったのだと思います。
もし、あのときいっしょに行動していれば、明治新政府の中で、佐賀出身者はもっと重要な地位を得ていて政治に深く参画できた、という思いがあったのでしょう。

大隈重信の記憶で、「やらずともよいとき」とはいつだったのでしょうか。
おそらく、戊辰戦争が始まり、ほぼ態勢が決まってから官軍として参加し、肥前藩が参加しなくても新政府側の勝利が確定しているタイミングで、上野の彰義隊などを撃滅させたことでしょうか…

そんなときに参加するなら、もっと早くに旗幟を鮮明にしておいてよっ!

という思いが大隈重信にはあったのかもしれません。

偉大な大隈公にたてつくつもりはありませんが、この認識は正しくないと思います。

肥前藩は、「薩長土肥」の雄藩の中で、ちょっと(というかかなり)異質な存在でした。
それはまさしく鍋島直正の個性そのもののあらわれだったともいえます。

鍋島直正にしてみれば、薩摩も長州も、

「おまえらそんなんでよう外国と戦うって言うてんなぁ~」

という嘲笑の対象だったのかもしれません。

鍋島直正は、佐賀一国を、完全武装の“独立王国”に鍛え上げた人物なのです。

肥前藩は、長崎を領域内に持ち、隔年でその警固を担ってきた藩です。フェートン号事件も目の当たりにし、長州のような観念論的な“夷狄”ではなく、実体的・現実的な“外国”を認識していました。
すぐれた外国文化・技術に早くから接し、それを積極的に(ごくごく自然に)吸収してきました。

 反射炉(製鉄のための炉)の設置
 アームストロング砲などの西洋軍事技術の国産化
 蒸気機関・蒸気船の完成

教育にも力を入れ、「弘道館」はもちろん、日本で最初の医学校とでもいうべき「医学館」も設立しています。(そのカリキュラムは、近代の教育制度のものとよく似ていました。)
案外と知られていませんが、天然痘に有効な「種痘」技術を最初に輸入したのは肥前藩で、大坂の緒方洪庵に提供しているんです。
肥前藩の医療技術と緒方洪庵の頭脳が出会わなければ、天然痘で亡くなる人の数は倍増していました。

幕末、諸外国が日本に来航しはじめたころ、長崎にはすでに肥前藩が用意した鉄製大砲が大小の島に200門近く配備されていて、長崎に来航した外国船もその威容に驚いています。
(開国をもとめて来航したロシアのプゥチャーチンとの交渉を有利に進められたのも、背後にこの大砲たちがチラついていたことも大きかったのですよ。)

幕府へも、その大砲の技術を惜しみなく技術提供していて、江戸湾に砲台が作られた(台場のこと)のですが、それらは肥前藩が調えたものでした。

鍋島直正は、ペリーの砲艦外交に強く憤り、攘夷を唱えたことで有名です。
しかし、肥前の“攘夷”は、長州のような空想的“攘夷”てはなく、強力な軍事力に裏付けられた科学的“攘夷”だったのです。

内政においても、窮乏していた小作人を自作農にする均田制を導入し、砂糖・茶・ろうなどの専売と殖産興業を進めて成功していました。

そして鍋島直正の肥前藩では、薩摩藩や長州藩、土佐藩で起こっていたような、藩内の血で血を洗う抗争はまったく起こっていません。
鍋島直正を“啓蒙専制君主”とする一つの国家が成立していたようなものでした。

少し大げさな表現ですが、後に実現する「明治国家」の縮小版を、すでに20年ほど前に前倒しでつくりあげていたのです。

 いったい佐幕なのか、倒幕なのか…

そのどっちつかずな、とらえどころのない態度から、鍋島直正は“妖怪”と呼ばれますが、「どっちつかず」でもなければ「佐幕」「倒幕」でもないのです。

“独立”国家として、幕末の混迷期に、肥前藩は屹立していました。

戊辰戦争開始時、薩摩と長州の中では、態度不明な肥前藩を征伐すべしっ という意見が出たのですが、木戸孝允も西郷隆盛も、けっきょく佐賀征伐をおこないませんでした。というより、手出しができなかったのです。

まるで鋼鉄の塊のように不動で、独立が維持できたのは、すなわち近代化された軍事力でした。

かつて、鍋島直正は、「京都守護職をわたしに命じなさい。なんだか300人くらいで都を守っているようだが、近代化した佐賀兵ならば、50人で十分だ」と豪語しています。
佐賀の軍備に比べれば、薩摩・長州のそれは、まだ中世・戦国時代と変わらない貧粗なものに見えたことでしょう。

ドタバタ、ドタバタと動き始めた薩摩・長州に対して、ゆっくりむつくりと肥前は動き始めます。
明治の軍事制度は、長州の大村益次郎の頭脳と、肥前の技術の“出会い”で開花しました。

上野での彰義隊との戦いにおいて、大村益次郎の指揮の下、肥前のアームストロング砲が火を噴いた瞬間、日本の近代が始まった、と、言えば言い過ぎでしょうか…

薩摩・長州が、維新の「頭」と「体」なら、肥前は「道具」。三つそろって明治近代国家は作り始められたのです。