徳川慶喜率いる幕府軍は、大坂城に入っていました。
大坂城は、もともとは豊臣秀吉が建てた城ですが、大坂の役の後、再建されました。
江戸時代には大坂城代が座し、西国の要として重要な位置にあったことは、豊臣時代とは変わっていませんでした。
この大坂城に幕府軍が入った、ということは、淀川をのぼり、京都へ軍をのぼらせることが可能になるわけで、新政府に対しては大きな圧力となります。
そして実際、幕府軍は鳥羽・伏見で新政府軍で激闘することになったのですが、新政府軍が「錦の御旗」(天皇が認めたことの証。新政府軍が官軍で、幕府軍が賊軍となったという意味。)を掲げたことで、徳川慶喜は「賊軍」になることをおそれ、撤退を命じることになりました。
「錦の御旗」効果か、諸藩も寝返り始め、橋本と八幡での戦闘で敗れ、じりじりと退きながら枚方を防衛ラインとして踏みとどまっていました。
戦術的には、ここでさらに大坂城から、さらなる兵力を投入(後詰の兵の投入)すれば、十分押し返すことも可能だったかもしれないのですが、徳川慶喜の「撤退命令」が出されました。
ただ、これも、別に悪い作戦でも実はありません。
いっそ大坂城にまで撤退して態勢を立て直し、温存されている日本最大の海軍を大阪湾に展開させる、ということも可能です。
事実、慶喜は全兵に対して「徹底抗戦」を発令したのですが、なんと、その夜…
慶喜は大坂城から“逃亡”
してしまいました…
小説やドラマなどでは、
「うえさま! なぜでございますか! 今ここで戦えば、かならず逆転できまするぞ!」
「むりだっ しょせん新政府軍には勝てぬ!」
「どうしてでございますかっ われらには難攻不落の大坂城、最強の海軍があるではございませぬかっ!」
「何をいう。われらには大久保や西郷のようなものがおらぬわっ」
という場面が演じられるところです。
これが果たしてほんとうだったかどうかはわかりません。
とりのこされた、会津・桑名・大垣などの諸藩兵、新撰組や陸軍伝習隊は呆然としてしまいます。
慶喜は、大阪湾に停泊していた開陽丸に乗り込んで、たった一隻でさっさと江戸城に帰ってしまい、その他の幕府の役人たちも、残された艦艇に乗り込んで引き揚げます。
こんなばかなことがあるか!!
と、怒りがおさまらなかったのが榎本武揚…
というか、彼は「あきれかえって」しまったのかもしれません。大坂城には、武器はもちろん、文化財とでもいえるべきさまざまなものが放置されていただけでなく、20万両近い御用金がそのまま残されていたからです。
榎本武揚は、これらをすべて運びだし、富士丸に乗って大坂から出ます。
(ちなみにこの船には新撰組の近藤勇と土方歳三が乗船していました。)
大阪の人でも、あんがい知らない人が多いのですが、玉造口に「残念さん」と呼ばれたお墓があります。
幕府や諸隊が引き上げた後、新政府軍に大坂城を奪われるのは口惜しい、と、大坂城に残って火を放って切腹した武士たちがいました。
逃亡した多くの幕府・諸藩の兵に比べて、なんと立派な者たちだ、ということで、新政府軍によって彼らは丁重に葬られることになります。
(「城中焼亡埋骨墳」と記されているので、豊臣滅亡の大坂夏の陣のときの墓かな? と誤解している方もおられると思うので、ちょっと書いてみました。)
この徳川慶喜の“逃亡”によって、新政府側に大きく時流が変わることになりました。
様子見をしていた諸藩はもちろん、商人たちも「新政府は買いだっ」となり、新政府は財政援助も得やすくなったといいます。
それだけではありません。徳川慶喜自身が、幕府の中での(というか徳川一族の中の徳川宗家としての)精神的な求心力を落としてしまう、重大な失態をしでかしてしまいました。
『金扇馬標』
を、大坂城に「置き忘れて」きてしまったのです。
これこそ、神君家康公以来受け継がれてきた馬標(大将の位置を本陣に示すもの)なのです。
小牧長久手の戦いでも、関ヶ原の戦いでも使用され、徳川ここにあり、と、諸大名を睥睨してきた「権威の象徴」です。
これはまずい… こんなものが新政府軍の手にわたったら、もはや終わり…
「やろうども! 徳川さまの一大事だっ おめぇたちの命、このおれにくれ!」
と、『金扇馬標』奪回のミッションを引き受けたのが、町火消の親方、
新門の辰五郎
でした。
(次回に続く)
現在の教科書からは、
「士農工商」
という表現は消えました。また、これと関連して明治維新の「四民平等」という言葉も使用されなくなっています。
先にお断りしておきますが、これは「身分制度がなかった」という意味ではありません。
☆「士農工商」が身分の序列を意味する言葉ではない
ということを知っておかなくてはなりません。
武士が支配者として、人々の「上」に立っていたことは確かですが、武士の次に農民があり、その次が職人で、商人が最下層だった、というような、古代インドのカースト制度(ヴァルナ)のようなものではなかった、ということです。
「農民から年貢をとらなくてはいけないから、他の身分より上だよ、と、農民たちに説明して、不満を抱かせないようにしていた。」
というように習った人もいるかもしれませんが、現在ではことさらこのような説明はしませんし、これを示す明確な史料は存在していません。
「工商」は、職人と町人ですが、二つの身分間に「差異」は皆無で、そもそも江戸時代では「町人」としてひとくくりにされている存在です。
「士農工商」
という言葉は序列をあらわすことばではなく、あまねくすべての人々、という意味を持つ表現なのです。
武士も農民も職人も商人も… という言葉を単に「士農工商」とまとめて言うている言葉にすぎないのです。
ですから、同様に、「四民平等」という表現も、「みんな平等」という意味でしかなく、あまりに「四民平等」といってしまうと、あたかも「農民や職人や商人の間に序列がある」かの誤解を抱かせてしまうので、誤解をあたえないように、明治時代の「政策」を示す言葉として用いなくなったのです。
ですから、「士農工商の身分に分けられ…」という昔の教科書で説明されていたようなことは現在ではおこないません。
たしかに武士は、その他の人々より上位におかれていましたが、案外と「身分の壁」は低く、お金を払うと武士になれましたし(士分は購入できました)、鎌倉時代の武士たちが農業を生業にしていたことから、帰農、と言って、武士が農民になることは恥ではありませんでした。
江戸時代の中期までは、「脱藩」は臣下の身分で主を見捨てる、という行為であることから重罪とされましたが、後期になると各藩も、財政難のところが増え、下級武士が「武士をやめます」「浪人になります」というのを咎めるどころか、むしろ歓迎していたところもあるくらいです。
幕末になると、「脱藩」して(藩士の身分のまま行動すると主家に迷惑がかかるので)江戸・京都で「政治活動」をおこなう“志士”が増えました。しかし、ドラマや小説にみられるような脱藩者に対する厳しい弾圧、執拗な追及、というのは、江戸後期では数少ない例となっていたのが実際です。(長州藩の高杉晋作などは計6回、脱藩をしているんですよ。)
また、かつての教科書には「武士の特権」というのが明記されていました。
しかし、申しましたように、お金を払うと名字も帯刀も許されている例も多いため、とりたてて「名字・帯刀」が特権だった、と強調する意味もなくなっています。
「切り捨て御免」
というのも、徳川吉宗の時代に、公事方御定書などに記されるようになりましたが、実際、うっかり「切り捨てる」と、厳しい詮議を受け、何らかのお咎めがあったこともあり、武士たちは安易に刀を抜きませんでした。
以前に説明しましたように、「警察官が安易に発砲することを禁じられている」ということと、よく似ています。
街中で、抜刀して武士どうしがケンカする、というようなこともほとんどなく(そんなことをす藩士がすれば、藩のとりつぶしにもつながる可能性があり)、「刀」は武士の象徴的なモノとなっていきました。
さて、農民に関する説明も、しだいに変化してきました。年貢なども、
「四公六民」「五公五民」
という比率が明示されていましたが、中学生の教科書からはほとんどなくなってしまいました。
もともとこれは、幕府の直轄地(天領)に適用されたレートであって、全国の他の藩の農民には適用されていないことなので、
「年貢の比率などは、各藩などによって異なりました。」
と、わざわざ説明されるようになっています。
時代劇でよく登場する「悪代官」もほとんど存在していません。
むしろ、良吏が多く、村々をよくめぐり、農民の話を聞き、いろいろな農民の申し出を吟味して、生活が成り立つように、“配慮”しているケースが多くみられました。
現代でも、社長と従業員の関係を「主従関係」として説明すると違和感がありますよね?
従業員の生活が成り立つようにいろいろ考えて、自分の給料を下げても雇用を守ろうとする社長さん、いらっしゃいますよね?
日本は、マルクスが説明するような、階級闘争、奴隷的支配などはほとんど無く、そのように日本の近世を説明してしまうと、当時の社会の実態を見落としてしまいます。
農村における代官と農民の関係は、「親子」「家族的」な関係であるところも多かったのです。
実際、大政奉還後、戊辰戦争が起こって、旧幕府の直轄地の天領に官軍が攻めていったとき、農民たちの多くが「御代官さま、お逃げください。」と、代官の家族をかくまったり、代官を逃がす手引きなどをしたりしています。また、捕えられた代官の助命嘆願などを、村をあげて官軍にうったえている地域もあるんですよ。(このあたりは、拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』に詳しく説明しています。是非、お読みください。)
「一揆」
という言葉に関しても、今後、記述が変わってしまうでしょう。
「一揆」というと、農民が年貢や負担の減免を求めて「武力蜂起」したかのように(あたかも封建支配に抵抗した民衆運動であったかのように)説明してしまいますが、「一揆」とは「心を一つにした」という意味で、現代の「労働三権」とほぼ同じようなものだったのです。
団結しても
団体で交渉そても
団体で行動しても
あるいは代官所に陳情に行っても
記録の上では、みな「一揆」と記されているんですよ。
「一揆」は合法的に認められている行為で、抗議集会やデモ行進のようなもので、ちゃんとルールが決められていました(もちろん、現代でも、そういう行為の最中にハメを外して暴力的な行動に出てしまう場合もありますよね? 一揆もそういうときもありました)。
支配者の「悪」や「横暴」もあったでしょう。
でも、それを言うなら、被支配者の「愚」や「卑劣」だってたくさんあったにきまっています。
一方的に「支配者は悪」「被支配者は善」という考え方、見方は、一つの偏見である、と、考えてほしいところです。
「士農工商」
という表現は消えました。また、これと関連して明治維新の「四民平等」という言葉も使用されなくなっています。
先にお断りしておきますが、これは「身分制度がなかった」という意味ではありません。
☆「士農工商」が身分の序列を意味する言葉ではない
ということを知っておかなくてはなりません。
武士が支配者として、人々の「上」に立っていたことは確かですが、武士の次に農民があり、その次が職人で、商人が最下層だった、というような、古代インドのカースト制度(ヴァルナ)のようなものではなかった、ということです。
「農民から年貢をとらなくてはいけないから、他の身分より上だよ、と、農民たちに説明して、不満を抱かせないようにしていた。」
というように習った人もいるかもしれませんが、現在ではことさらこのような説明はしませんし、これを示す明確な史料は存在していません。
「工商」は、職人と町人ですが、二つの身分間に「差異」は皆無で、そもそも江戸時代では「町人」としてひとくくりにされている存在です。
「士農工商」
という言葉は序列をあらわすことばではなく、あまねくすべての人々、という意味を持つ表現なのです。
武士も農民も職人も商人も… という言葉を単に「士農工商」とまとめて言うている言葉にすぎないのです。
ですから、同様に、「四民平等」という表現も、「みんな平等」という意味でしかなく、あまりに「四民平等」といってしまうと、あたかも「農民や職人や商人の間に序列がある」かの誤解を抱かせてしまうので、誤解をあたえないように、明治時代の「政策」を示す言葉として用いなくなったのです。
ですから、「士農工商の身分に分けられ…」という昔の教科書で説明されていたようなことは現在ではおこないません。
たしかに武士は、その他の人々より上位におかれていましたが、案外と「身分の壁」は低く、お金を払うと武士になれましたし(士分は購入できました)、鎌倉時代の武士たちが農業を生業にしていたことから、帰農、と言って、武士が農民になることは恥ではありませんでした。
江戸時代の中期までは、「脱藩」は臣下の身分で主を見捨てる、という行為であることから重罪とされましたが、後期になると各藩も、財政難のところが増え、下級武士が「武士をやめます」「浪人になります」というのを咎めるどころか、むしろ歓迎していたところもあるくらいです。
幕末になると、「脱藩」して(藩士の身分のまま行動すると主家に迷惑がかかるので)江戸・京都で「政治活動」をおこなう“志士”が増えました。しかし、ドラマや小説にみられるような脱藩者に対する厳しい弾圧、執拗な追及、というのは、江戸後期では数少ない例となっていたのが実際です。(長州藩の高杉晋作などは計6回、脱藩をしているんですよ。)
また、かつての教科書には「武士の特権」というのが明記されていました。
しかし、申しましたように、お金を払うと名字も帯刀も許されている例も多いため、とりたてて「名字・帯刀」が特権だった、と強調する意味もなくなっています。
「切り捨て御免」
というのも、徳川吉宗の時代に、公事方御定書などに記されるようになりましたが、実際、うっかり「切り捨てる」と、厳しい詮議を受け、何らかのお咎めがあったこともあり、武士たちは安易に刀を抜きませんでした。
以前に説明しましたように、「警察官が安易に発砲することを禁じられている」ということと、よく似ています。
街中で、抜刀して武士どうしがケンカする、というようなこともほとんどなく(そんなことをす藩士がすれば、藩のとりつぶしにもつながる可能性があり)、「刀」は武士の象徴的なモノとなっていきました。
さて、農民に関する説明も、しだいに変化してきました。年貢なども、
「四公六民」「五公五民」
という比率が明示されていましたが、中学生の教科書からはほとんどなくなってしまいました。
もともとこれは、幕府の直轄地(天領)に適用されたレートであって、全国の他の藩の農民には適用されていないことなので、
「年貢の比率などは、各藩などによって異なりました。」
と、わざわざ説明されるようになっています。
時代劇でよく登場する「悪代官」もほとんど存在していません。
むしろ、良吏が多く、村々をよくめぐり、農民の話を聞き、いろいろな農民の申し出を吟味して、生活が成り立つように、“配慮”しているケースが多くみられました。
現代でも、社長と従業員の関係を「主従関係」として説明すると違和感がありますよね?
従業員の生活が成り立つようにいろいろ考えて、自分の給料を下げても雇用を守ろうとする社長さん、いらっしゃいますよね?
日本は、マルクスが説明するような、階級闘争、奴隷的支配などはほとんど無く、そのように日本の近世を説明してしまうと、当時の社会の実態を見落としてしまいます。
農村における代官と農民の関係は、「親子」「家族的」な関係であるところも多かったのです。
実際、大政奉還後、戊辰戦争が起こって、旧幕府の直轄地の天領に官軍が攻めていったとき、農民たちの多くが「御代官さま、お逃げください。」と、代官の家族をかくまったり、代官を逃がす手引きなどをしたりしています。また、捕えられた代官の助命嘆願などを、村をあげて官軍にうったえている地域もあるんですよ。(このあたりは、拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』に詳しく説明しています。是非、お読みください。)
「一揆」
という言葉に関しても、今後、記述が変わってしまうでしょう。
「一揆」というと、農民が年貢や負担の減免を求めて「武力蜂起」したかのように(あたかも封建支配に抵抗した民衆運動であったかのように)説明してしまいますが、「一揆」とは「心を一つにした」という意味で、現代の「労働三権」とほぼ同じようなものだったのです。
団結しても
団体で交渉そても
団体で行動しても
あるいは代官所に陳情に行っても
記録の上では、みな「一揆」と記されているんですよ。
「一揆」は合法的に認められている行為で、抗議集会やデモ行進のようなもので、ちゃんとルールが決められていました(もちろん、現代でも、そういう行為の最中にハメを外して暴力的な行動に出てしまう場合もありますよね? 一揆もそういうときもありました)。
支配者の「悪」や「横暴」もあったでしょう。
でも、それを言うなら、被支配者の「愚」や「卑劣」だってたくさんあったにきまっています。
一方的に「支配者は悪」「被支配者は善」という考え方、見方は、一つの偏見である、と、考えてほしいところです。
かつて、慶安の御触書、というと、江戸時代のお勉強の中では欠かせぬ「歴史用語」でした。
昔の説明で言うと、1649年に、徳川家光によって発令されたものである、として農民の日常生活を細かく規定したものとして、江戸時代の「農民支配」を説明する史料として取り上げられてきました。
中学入試はもちろん、高校入試、大学入試でも「慶安の御触書」という言葉は出題されませんし、もし、出題していたとしたら、この“事実”を知らずに「出してしまった」ということになります。
ただ、何といえばよいのか…
自分が「そう習ってしまった」からついつい、「同じように説明して」しまって、誤りが訂正されずにどんどん再生産されてしまう、という塾業界や学校の中で脈々と続いてしまう「あるある話」なんですよね。
コヤブ歴史堂でも、かつて「平賀源内」の回で説明しましたが、彼はエレキテルを発明していません。でも、たいていの方は「そう習った!」「発明したと教科書にも書いてあった!」と思ってしまうかもしれませんが、それは1980年くらいまでの話で、それ以後はそういう記載はなく、「エレキテルで実験した」くらいの記述にかわっています。
そう習った先生や塾の講師が、もう変わっているのに、そう教えてしまった…
そういう誤謬の再生産の結果です。
「慶安の御触書」
は、現在では教科書から消えましたが、その中身は消えていません。
は?? どゆこと?? となりそうですが…
現在の教科書では、「農民に出されたお触れ書」として紹介され「慶安の」が消えています。
「幕府が出した命令」ではなく、各藩や、そして村の中で、「村のおきて」として自発的に出されたものが、いつしか「お上からの御命令」として伝えられていった、というようなものらしいのです。
村長 「こういうことを守りなさい。」
村人 「え~ めんどくさいなぁ」
村長 「こら。これは上からのお達しだっ」
村人 「え… そうなんですか。」
責任の所在を消しつつ、違う権威を用いて、自分のやりたいことを伝えていく…
そういう空気を察知して(ときに、気をまわしすぎて誰も言うていないのに)、こうせねばならないと伝えていく…
実に現代の日本にも通じる、日本的な「きまりごと」なんですよね。
笑ってしまうのは、地方の役人や代官もその「空気」に流された、というところです。
村長 「代官さま、となりの国ではこんなお達しが幕府からあったらしいのですが…」
代官 「え…(ちょい、おれ、知らんで…)」
村長 「これを村人に伝えてよろしいでしょうか」
代官 「お… おう。そうせよ。(とにかくそうしとこ)」
こんな話もあったかも…
ですから、教科書では、幕府からの命令としての「慶安の御触書」は消えてしまい、「農民がまもっていたきまり」(小学校の教科書)、「百姓への御触書 岩村藩で示されたもの」(中学の教科書)という表現に変わっています。
☆「慶安の御触書」は存在せず、徳川家光が発令した幕府の命令ではない。
ということに現在ではなっています。
おもに信濃国や美濃国など、岐阜県や長野県、そして北関東あたりの「村」や「藩」で出されたものが、伝えられたものであるような感じです。
一 朝は早く起きて草をかり、昼は田畑を耕し、夜は縄や俵をつくれ
一 酒・茶を買って飲んではならない
だいたいこの部分は「共通して」記されています。
広がった時期も違います。
1649年に出された、といわれていましたが、1830年ころに出されているので、江戸時代の終わりごろ、というのが通説になりました。
詳細は
『慶安の触書は出されたか』(山本英二 山川出版「日本史リブレット」)
などをお読みください。新しい、近世農民史の研究が概観できます。
ちなみに、もう一つ、消えたものもあります。「御触書」の「御」です。
「御触書」と記しているものは少なくなり、現在では「触書」という表記が一般的です。そして、多くの方が学生時代に習った明治時代のオープニングを飾る入試必出史料、
「五箇条の御誓文」
も、現在では「御」がとれてしまい、
「五ヶ条の誓文」
となっております。以上、蛇足まで…
昔の説明で言うと、1649年に、徳川家光によって発令されたものである、として農民の日常生活を細かく規定したものとして、江戸時代の「農民支配」を説明する史料として取り上げられてきました。
中学入試はもちろん、高校入試、大学入試でも「慶安の御触書」という言葉は出題されませんし、もし、出題していたとしたら、この“事実”を知らずに「出してしまった」ということになります。
ただ、何といえばよいのか…
自分が「そう習ってしまった」からついつい、「同じように説明して」しまって、誤りが訂正されずにどんどん再生産されてしまう、という塾業界や学校の中で脈々と続いてしまう「あるある話」なんですよね。
コヤブ歴史堂でも、かつて「平賀源内」の回で説明しましたが、彼はエレキテルを発明していません。でも、たいていの方は「そう習った!」「発明したと教科書にも書いてあった!」と思ってしまうかもしれませんが、それは1980年くらいまでの話で、それ以後はそういう記載はなく、「エレキテルで実験した」くらいの記述にかわっています。
そう習った先生や塾の講師が、もう変わっているのに、そう教えてしまった…
そういう誤謬の再生産の結果です。
「慶安の御触書」
は、現在では教科書から消えましたが、その中身は消えていません。
は?? どゆこと?? となりそうですが…
現在の教科書では、「農民に出されたお触れ書」として紹介され「慶安の」が消えています。
「幕府が出した命令」ではなく、各藩や、そして村の中で、「村のおきて」として自発的に出されたものが、いつしか「お上からの御命令」として伝えられていった、というようなものらしいのです。
村長 「こういうことを守りなさい。」
村人 「え~ めんどくさいなぁ」
村長 「こら。これは上からのお達しだっ」
村人 「え… そうなんですか。」
責任の所在を消しつつ、違う権威を用いて、自分のやりたいことを伝えていく…
そういう空気を察知して(ときに、気をまわしすぎて誰も言うていないのに)、こうせねばならないと伝えていく…
実に現代の日本にも通じる、日本的な「きまりごと」なんですよね。
笑ってしまうのは、地方の役人や代官もその「空気」に流された、というところです。
村長 「代官さま、となりの国ではこんなお達しが幕府からあったらしいのですが…」
代官 「え…(ちょい、おれ、知らんで…)」
村長 「これを村人に伝えてよろしいでしょうか」
代官 「お… おう。そうせよ。(とにかくそうしとこ)」
こんな話もあったかも…
ですから、教科書では、幕府からの命令としての「慶安の御触書」は消えてしまい、「農民がまもっていたきまり」(小学校の教科書)、「百姓への御触書 岩村藩で示されたもの」(中学の教科書)という表現に変わっています。
☆「慶安の御触書」は存在せず、徳川家光が発令した幕府の命令ではない。
ということに現在ではなっています。
おもに信濃国や美濃国など、岐阜県や長野県、そして北関東あたりの「村」や「藩」で出されたものが、伝えられたものであるような感じです。
一 朝は早く起きて草をかり、昼は田畑を耕し、夜は縄や俵をつくれ
一 酒・茶を買って飲んではならない
だいたいこの部分は「共通して」記されています。
広がった時期も違います。
1649年に出された、といわれていましたが、1830年ころに出されているので、江戸時代の終わりごろ、というのが通説になりました。
詳細は
『慶安の触書は出されたか』(山本英二 山川出版「日本史リブレット」)
などをお読みください。新しい、近世農民史の研究が概観できます。
ちなみに、もう一つ、消えたものもあります。「御触書」の「御」です。
「御触書」と記しているものは少なくなり、現在では「触書」という表記が一般的です。そして、多くの方が学生時代に習った明治時代のオープニングを飾る入試必出史料、
「五箇条の御誓文」
も、現在では「御」がとれてしまい、
「五ヶ条の誓文」
となっております。以上、蛇足まで…
「ABC感謝祭2014マイドほたるまち!」が来る5月5日・6日に開催されます。
なんとコヤブ歴史堂も参加。
みなさん、是非、お越しくださいませ。
『月刊コント』はほんとうに楽しかったです。
こはにわはすっかりクセになりそうです。
映画にせよ、ドラマにせよ、「脚本」が勝負、とよく言われます。
脚本が良い映画・ドラマがすべて素晴らしいとはいえませんが、素晴らしい映画・ドラマは間違いなく脚本がすぐれています。
その点、お~い!久馬さんは、見事な脚本家であるといえます。
コヤブ歴史堂の中でも、こはにわ先生とにゃんたの「からみ」が時々みられます。
本番収録前に、最後の打ち合わせがおこなわれますが、実は、その場には当日のゲストやコヤブさんは同席されていません。
「台本」はあるのはあるのですが、たとえば「にゃんたクイズ!」や「マル秘ファイル」は、コヤブさんもゲストの方々もどんなものが出るのか、その時にならないとわからないのです。
コヤブさんやゲストの方が、どんな質問をするのか、どんな反応をするのか、にゃんたもこはにわもわからないのです。
ほんとにその場、その場で、にゃんたはギャクを飛ばしたりボケを入れたり…
臨機応変に対応していきます。
このあたりも、コヤブ歴史堂の「おもしろみ」でもあります。
さ、ディレクターさんとプロデューサーさん、こはにわ、にゃんたで直前、最後の打ち合わせをします。一通り話が終わったころ、
ちょっと先生、いいですか?
と、久馬さんがわたしに話しかけます。
プロデューサーさんも、ディレクターさんも、静かにその場から消えていきます。
「二人のコント」の「うちあわせ」を、お二人はあえて聞かずに、じゃましないよ~に、席を外されます。もちろん、スタッフも加わらない。
本番でどんなことになるか、あえてそのまま撮ってしまおう、というわけです。
わたしは久馬さんの言われるまま、用意されている「脚本」どーりにやっちゃいます。
脚本家には、何も考えずに踊らされておく…
ここが一番大切なところだと思うんですよね。
話はすっ飛びますが、こはにわの親戚で、昔、京都の政治家をしていた者がおりました。
その人が、選挙のときに、おもしろい話をしてくれました。
神輿は、軽くて、パ~がええ
え? どゆこと??
かつがれる人が重いのは困る。
いったんかつがれたら、何も考えないほうがよい。
という意味らしいのです。
「センタイとかぁちゃんとヒショの言うまま、ハイハイと連れられて選挙区を回っていく。それでよいんや。」
センタイとは選挙対策本部長。
かぁちゃんは奥さん(後援会の人などふだんお世話になっている人を知っている)。
ヒショは秘書です。
任せられる人を信頼して任せる、これが一番うまくいくのだ、ということらしいのです。
卑弥呼の政治。
でも、卑弥呼には、彼女を世話する一人の男と、弟がいました。
卑弥呼をかついで、この二人が脚本・演出家だった可能性があります。
推古天皇の時代。
でも、推古天皇には、摂政聖徳太子と、大臣蘇我馬子がいました。
推古天皇をかついで、この二人が脚本・演出家だった可能性があります。
斉明天皇の時代。
でも、斉明天皇には、中大兄皇子と、中臣鎌足がいました。
斉明天皇をかついで、この二人が脚本・演出家だった可能性があります。
すぐれた劇とすぐれた演技者の裏には、必ずすぐれた脚本家がいます。
コヤブ歴史堂で、事件、できごとの「歴史の脚本家」たちを、カーテンコールのときに、表舞台に連れ出してみたいと思っています。
ちょっと先生、いいですか?
きたきた、今日はどんなことだろう?
こはにわ先生、にゃんたのミニコントもお楽しみ?に~
なんとコヤブ歴史堂も参加。
みなさん、是非、お越しくださいませ。
『月刊コント』はほんとうに楽しかったです。
こはにわはすっかりクセになりそうです。
映画にせよ、ドラマにせよ、「脚本」が勝負、とよく言われます。
脚本が良い映画・ドラマがすべて素晴らしいとはいえませんが、素晴らしい映画・ドラマは間違いなく脚本がすぐれています。
その点、お~い!久馬さんは、見事な脚本家であるといえます。
コヤブ歴史堂の中でも、こはにわ先生とにゃんたの「からみ」が時々みられます。
本番収録前に、最後の打ち合わせがおこなわれますが、実は、その場には当日のゲストやコヤブさんは同席されていません。
「台本」はあるのはあるのですが、たとえば「にゃんたクイズ!」や「マル秘ファイル」は、コヤブさんもゲストの方々もどんなものが出るのか、その時にならないとわからないのです。
コヤブさんやゲストの方が、どんな質問をするのか、どんな反応をするのか、にゃんたもこはにわもわからないのです。
ほんとにその場、その場で、にゃんたはギャクを飛ばしたりボケを入れたり…
臨機応変に対応していきます。
このあたりも、コヤブ歴史堂の「おもしろみ」でもあります。
さ、ディレクターさんとプロデューサーさん、こはにわ、にゃんたで直前、最後の打ち合わせをします。一通り話が終わったころ、
ちょっと先生、いいですか?
と、久馬さんがわたしに話しかけます。
プロデューサーさんも、ディレクターさんも、静かにその場から消えていきます。
「二人のコント」の「うちあわせ」を、お二人はあえて聞かずに、じゃましないよ~に、席を外されます。もちろん、スタッフも加わらない。
本番でどんなことになるか、あえてそのまま撮ってしまおう、というわけです。
わたしは久馬さんの言われるまま、用意されている「脚本」どーりにやっちゃいます。
脚本家には、何も考えずに踊らされておく…
ここが一番大切なところだと思うんですよね。
話はすっ飛びますが、こはにわの親戚で、昔、京都の政治家をしていた者がおりました。
その人が、選挙のときに、おもしろい話をしてくれました。
神輿は、軽くて、パ~がええ
え? どゆこと??
かつがれる人が重いのは困る。
いったんかつがれたら、何も考えないほうがよい。
という意味らしいのです。
「センタイとかぁちゃんとヒショの言うまま、ハイハイと連れられて選挙区を回っていく。それでよいんや。」
センタイとは選挙対策本部長。
かぁちゃんは奥さん(後援会の人などふだんお世話になっている人を知っている)。
ヒショは秘書です。
任せられる人を信頼して任せる、これが一番うまくいくのだ、ということらしいのです。
卑弥呼の政治。
でも、卑弥呼には、彼女を世話する一人の男と、弟がいました。
卑弥呼をかついで、この二人が脚本・演出家だった可能性があります。
推古天皇の時代。
でも、推古天皇には、摂政聖徳太子と、大臣蘇我馬子がいました。
推古天皇をかついで、この二人が脚本・演出家だった可能性があります。
斉明天皇の時代。
でも、斉明天皇には、中大兄皇子と、中臣鎌足がいました。
斉明天皇をかついで、この二人が脚本・演出家だった可能性があります。
すぐれた劇とすぐれた演技者の裏には、必ずすぐれた脚本家がいます。
コヤブ歴史堂で、事件、できごとの「歴史の脚本家」たちを、カーテンコールのときに、表舞台に連れ出してみたいと思っています。
ちょっと先生、いいですか?
きたきた、今日はどんなことだろう?
こはにわ先生、にゃんたのミニコントもお楽しみ?に~
『太平記』は、もちろん軍記物なのですが、史料としても当時の武家などの様子を知ることができるもの。大学入試などでもとりあげられ、「それをどう読み解くか」ということが問われます。
東大や京大などの入試でもとりあげられるところなので、受験生のみなさんにも役立つように、ちょっと「史料としての『太平記』」について説明しておきたいと思います。
康永元年、といいますから、1342年。「ある事件」が起こりました。
光厳上皇の一行が、京都の五条あたりにさしかかったときのことです。
二人の武士と遭遇しました。
それが土岐頼遠と二階堂行春。
二人は、東山のふもとで「笠懸」を楽しみ、その後、しこたま酒を飲んで、騎馬で、ええ調子になって帰ってくるところ(飲酒運転かっ)でした。(二人とも守護大名です。笠懸をする、というのは、まぁ、現在で言えば政治家のゴルフみたいなもの。)
院の警護の武士たちが、
「何ものだっ すみやかに下馬せよっ」
と、二人を咎めます。
二階堂行春は、ヤバっ と思って下馬してかしこまる…
ところが土岐頼遠は、ふんっ 何だというのだ、という感じで、知らぬ顔。
「田舎ものめっ! 上皇さまの行列だぞっ」
この言葉でカチンときた土岐頼遠、ハデにやっちゃいます。
(原文)
何に院といふか、犬といふか
犬ならば射て落とさん
「はぁ? イン? え? イヌ? ああ、犬か。じゃあ犬なら射たるっ」
と、上皇の車に矢を放ち、車の軸は折れてしまい、車は倒され、あはれ上皇は涙ながらに御殿に逃げ帰りました…
という話です。
激怒したのが、足利直義(足利尊氏の弟)です。
「ふざけるなっ なんたることだっ!」
と、二階堂は讃岐に流罪、土岐は六条河原で首をはねられました。
ところが、直義の「処分」は頼遠に対してだけのことで、兄の子に家を継がせたばかりが所領が奪われるわけでもなく、土岐の幕府内での役職もそのまま残されました。
(読み取れること)「鎌倉以来の公家・武家の法秩序を守る」
足利直義は、伝統の権威などを利用しつつ、守護などの武家の権利は保障する、という方針を持っていて、新旧の勢力の調和を図る政治をめざしていた。
「伝統・権威を否定してはいけないが武家の所領は守る」ということです。
公家は公家、武家は武家、というスタンスですね。
実際、直義は「尊敬する政治家は北条泰時。」と述べていて、鎌倉幕府の再建、鎌倉時代の良き時代の復活、ということをめざしていたと考えられます。
足利尊氏が征夷大将軍となった後に、この足利義直と政治を分担したのが
高師直・師泰
の兄弟でした。
この「事件」の話を聞いた高師直は、こう述べたと『太平記』は記しています。
「都に王がいて、所領を持ち、内裏だの院だのという存在があって、いちいち馬から降りなければならないなんて、めんどくせ~」
そしてその後にこう続けました。
(原文)
もし王なくてかのふまじき道理あらば
木を以て作るか金を以て鋳かして
生きたる院・国王をば何方へも流して捨て奉らばや
ものすごい発言です。
王がいなくて困るなら、木や鉄でそんなもんを作り、生きている院や国王はどこでもよいから流して捨ててしまえばよいんだっ わはははは
という感じでしょうか… 直義とはまったく違う考え方です。
弟の高師泰もまた、なかなかすごいことを言うています。
ちょっと恩賞としての土地が少ないのですが… と言うてきた武士たちに対して、
(原文)
何を少領と嘆き給う
其の近辺の寺社・本所の所領あらば
境を越えて知行せよ
え… まじか… 近所の寺社や貴族の土地を奪ってしまえっ と言うているのと同じですよね。
(何度も申し上げますが、記録などを残すのは貴族や僧。そりゃ高師直らは「悪口」を書かれてしまいます。新しい時代の開拓者として高師直派は評価すべきだと思います。)
(読み取れること)「新興勢力の台頭と武力による所領拡大」
高師直は、伝統・権威を否定し、在地の新興武士団の武力を背景とした新しい秩序を確立しようとしていた、ということがわかるのです。
「観応の擾乱」
この対立構造の背景は、まさにこれらで説明可能なのです。
鎌倉以来の法秩序を重んじる足利直義と武力による所領拡大を願う新興勢力を代表する高師直の対立が激しくなり、やがて1350年に両者が戦闘を開始する…
『太平記』は「観応の擾乱」、南北朝の争乱をこのようにも記しています。
(原文)
将軍兄弟も、敬い奉るべき一人の君主を軽んじ給えば
執事そのほか家人らもまた将軍を軽んじ候こと
これ因果の道理なり
『太平記』に見える歴史の弁証法です。
東大や京大などの入試でもとりあげられるところなので、受験生のみなさんにも役立つように、ちょっと「史料としての『太平記』」について説明しておきたいと思います。
康永元年、といいますから、1342年。「ある事件」が起こりました。
光厳上皇の一行が、京都の五条あたりにさしかかったときのことです。
二人の武士と遭遇しました。
それが土岐頼遠と二階堂行春。
二人は、東山のふもとで「笠懸」を楽しみ、その後、しこたま酒を飲んで、騎馬で、ええ調子になって帰ってくるところ(飲酒運転かっ)でした。(二人とも守護大名です。笠懸をする、というのは、まぁ、現在で言えば政治家のゴルフみたいなもの。)
院の警護の武士たちが、
「何ものだっ すみやかに下馬せよっ」
と、二人を咎めます。
二階堂行春は、ヤバっ と思って下馬してかしこまる…
ところが土岐頼遠は、ふんっ 何だというのだ、という感じで、知らぬ顔。
「田舎ものめっ! 上皇さまの行列だぞっ」
この言葉でカチンときた土岐頼遠、ハデにやっちゃいます。
(原文)
何に院といふか、犬といふか
犬ならば射て落とさん
「はぁ? イン? え? イヌ? ああ、犬か。じゃあ犬なら射たるっ」
と、上皇の車に矢を放ち、車の軸は折れてしまい、車は倒され、あはれ上皇は涙ながらに御殿に逃げ帰りました…
という話です。
激怒したのが、足利直義(足利尊氏の弟)です。
「ふざけるなっ なんたることだっ!」
と、二階堂は讃岐に流罪、土岐は六条河原で首をはねられました。
ところが、直義の「処分」は頼遠に対してだけのことで、兄の子に家を継がせたばかりが所領が奪われるわけでもなく、土岐の幕府内での役職もそのまま残されました。
(読み取れること)「鎌倉以来の公家・武家の法秩序を守る」
足利直義は、伝統の権威などを利用しつつ、守護などの武家の権利は保障する、という方針を持っていて、新旧の勢力の調和を図る政治をめざしていた。
「伝統・権威を否定してはいけないが武家の所領は守る」ということです。
公家は公家、武家は武家、というスタンスですね。
実際、直義は「尊敬する政治家は北条泰時。」と述べていて、鎌倉幕府の再建、鎌倉時代の良き時代の復活、ということをめざしていたと考えられます。
足利尊氏が征夷大将軍となった後に、この足利義直と政治を分担したのが
高師直・師泰
の兄弟でした。
この「事件」の話を聞いた高師直は、こう述べたと『太平記』は記しています。
「都に王がいて、所領を持ち、内裏だの院だのという存在があって、いちいち馬から降りなければならないなんて、めんどくせ~」
そしてその後にこう続けました。
(原文)
もし王なくてかのふまじき道理あらば
木を以て作るか金を以て鋳かして
生きたる院・国王をば何方へも流して捨て奉らばや
ものすごい発言です。
王がいなくて困るなら、木や鉄でそんなもんを作り、生きている院や国王はどこでもよいから流して捨ててしまえばよいんだっ わはははは
という感じでしょうか… 直義とはまったく違う考え方です。
弟の高師泰もまた、なかなかすごいことを言うています。
ちょっと恩賞としての土地が少ないのですが… と言うてきた武士たちに対して、
(原文)
何を少領と嘆き給う
其の近辺の寺社・本所の所領あらば
境を越えて知行せよ
え… まじか… 近所の寺社や貴族の土地を奪ってしまえっ と言うているのと同じですよね。
(何度も申し上げますが、記録などを残すのは貴族や僧。そりゃ高師直らは「悪口」を書かれてしまいます。新しい時代の開拓者として高師直派は評価すべきだと思います。)
(読み取れること)「新興勢力の台頭と武力による所領拡大」
高師直は、伝統・権威を否定し、在地の新興武士団の武力を背景とした新しい秩序を確立しようとしていた、ということがわかるのです。
「観応の擾乱」
この対立構造の背景は、まさにこれらで説明可能なのです。
鎌倉以来の法秩序を重んじる足利直義と武力による所領拡大を願う新興勢力を代表する高師直の対立が激しくなり、やがて1350年に両者が戦闘を開始する…
『太平記』は「観応の擾乱」、南北朝の争乱をこのようにも記しています。
(原文)
将軍兄弟も、敬い奉るべき一人の君主を軽んじ給えば
執事そのほか家人らもまた将軍を軽んじ候こと
これ因果の道理なり
『太平記』に見える歴史の弁証法です。