山内容堂。
第15代土佐藩の藩主です。
学校の教科書では、
将軍徳川慶喜は、前土佐藩主の山内容堂の意見を入れて、大政奉還をおこなった。
という趣旨の説明がおこなわれています。
いわば大政奉還の立役者、という扱いです。
子どものとき、二つのことが気になりました。
一つは、「前土佐藩主」というところ。
あれ? 土佐藩主じゃないんや… 引退してたのに将軍に意見できたんか??
もう一つは、どんな「意見」を言うたら、慶喜は幕府をやめちゃう気になったんやろ、というところです。
よく申しますように、本来、後継者になるはずでなかった人、というのは歴史に名を残している人物が多いんですよね…
山内容堂もまさにそういう人です。
第13代豊煕が死去した後を継いだ第14代豊惇は、な、なんとわずか12日で急死…
これ、ふつうなら山内家はとりつぶしの断絶です。
豊惇の弟が血統的には近いのですが、わずか3歳…
ところが幕府の老中阿部正弘が、ものすごい技を出して山内家の危機を救いました。
「豊惇は死んではおらぬ。隠居だな。」
としたうえで、分家の山内豊信を、豊惇の弟が成人するまでの間、“中継ぎ”の藩主として豊信が第15代土佐藩藩主となったのです。
もともと藩主になることなどありえないはずの人物。
しかもまだ22才という若さ。
いわば、まぁ、酒と趣味をして暮らしていた“遊び人”が突如、藩主となったわけです。
実際、酒が大好きで、会議の場でも休日でも、いつでも酒を飲んでおり、自ら
「鯨海酔侯」
と名乗っていました。
もちろん、土佐藩の古いしきたり、慣習にはとらわれない、古い考え方の重臣たちに気兼ねすることもほとんどない…
よって、思い切った「改革」に乗り出せました。
1853年、といいますから、ペリー来航と同じ年です。
藩内の若手改革派のグループ「新おこぜ組」を取り立て、そのリーダーであった
吉田東洋
を、仕置役、という藩主の命を直接実行にうつす執政官に任命して改革を断行させていきました。
西洋式の軍備導入
海上防衛の強化
身分制度の改革
吉田東洋は、東洋ではなくまさに“西洋”というべき開明的改革をめざしました。
吉田東洋の功績は、藩士の中から、後藤象二郎と福岡孝弟を見出して引き上げたことだと思います。
自分を藩主にしてくれた老中阿部正弘とはたいへん親しく、越前の松平春嶽、宇和島の伊達宗城、薩摩の島津斉彬らとともに、幕府の改革と、その強化によって、「新しい国家」をつくる、という構想を持つようになりました。
病弱だった第13代将軍家定の後継に一橋慶喜を立てて、幕府の近代化=「新しい国家」建設を企画しましたが、大老についた井伊直弼は、徳川慶福(後の14代家茂)を将軍に立ててしまいます。
容堂はすばやく、隠居を申し出ます。
翌年、「安政の大獄」が始まり、謹慎の命令が出されますが、山内容堂にはそれほど厳しい処分はくだされなかったのも、先手をうった転身が功を奏したともいえます。
ところがこの謹慎中に、大事件が起こりました。「桜田門外の変」で井伊直弼が暗殺されたのです。
ここから「尊王攘夷」の嵐が全国に吹き荒れました。
土佐藩の中では、武市半平太(武市瑞山)を首領とする土佐勤王組が勢力を伸ばしていました。
土佐勤王党は、吉田東洋を暗殺して、藩政を主導し、「開明」から「攘夷」へと転換してしまいました。
ところが、1863年、八月十八日の政変で、攘夷の急先鋒の長州が京都から追放され、朝廷の空気が「攘夷」から「公武合体」へと転換するようになります。
謹慎を解かれた山内容堂は土佐にもどると、土佐藩内の「攘夷」を一掃すべく、土佐勤王党の弾圧と粛清を開始しました。
そうして、朝廷の参与会議に参加するが気に入らず欠席…
そうして、薩摩藩を中心とする四侯会議に参加するが気に入らず欠席…
そんなとき、後藤象二郎から、一つの「案」を見せられます。
それが
「船中八策」
です。坂本龍馬が考えたものを、後藤象二郎が容堂に示したわけです。
一 大政奉還
一 議会の設置
一 人材登用
一 条約改正
一 憲法制定
一 海軍増強
一 固有の軍事力
一 金銀交換レートの変更
これこれ! これだっ
と容堂は思ったのでしょう。とくに最初の三つの項目に容堂は魅かれました。
もともと「幕府」は、天皇から政権を委任された政府にすぎない。だったらいったん天皇に政権を返し、あらためて天皇が「新しい政府」に政権を委任すれば、「幕府」という名前はなくなっても、それは「幕府の近代化」と同じである、と、考えたのです。
「議会」の議長が征夷大将軍で、諸侯の代表として政治を続ける…
理念にすぎない「公武合体」を、まさに実体化したものだっ と、思ったわけです。
山内容堂は「酔えば勤王、覚めれば佐幕」と揶揄されたり、西郷隆盛に「何をかんがえているのかわからぬ。単純な佐幕を主張する者のほうが与しやすい」嘆かれたり、まるで「酔っ払い」のように、「尊王」やら「攘夷」やら「佐幕」やらをふらついているかのように見えますが、よくよく考えてみると、激動の幕末で、まったく「公武合体」からブレていないのがわかります。
彼は一貫して「公武合体」で「公武合体」がどうしたら一番いい形になるか、ずっと動き回っていた、と、いえるんです。
見方を逆転させれば、攘夷だ、開明だ、と、激しく揺れているのは長州や薩摩、そして幕府のほうだったともいえます。
新政府の夢に酔いながら、ふらふら千鳥足。
でも、手に持つ杖の名は「公武合体」。
しっかり支えられて歩いていた、というわけです。