「伊達」という名前を聞くと、あれ? 仙台藩の? と思う人が多いと思いますが、伊達宗城は、仙台藩の藩主ではなく、宇和島藩の藩主です。
宇和島伊達家と仙台伊達家はもちろん伊達政宗と関係があります。
伊達政宗には、秀宗、という長子がいたのですが、庶子でかつ豊臣秀吉にかわいがられていたこともあり、後の徳川政権に「遠慮」して秀宗には家を継がせませんでした。
大坂の役で活躍したことをきっかけに、秀宗も大名にしてやろう、と、将軍秀忠から宇和島藩の藩主に任じられました。
さてさて、伊達宗城ですが…
旗本の山口家の次男として生まれました。
実は、祖父が宇和島藩主伊達村侯の次男で旗本の山口家に養子に出されていた人物だったのです。本家の伊達宗紀に男子の後継者がいなかったことから、もっとも血縁の濃い、宗城が養子となって宇和島伊達家を継ぐ、ということになりました。
おもしろいもので、歴史に名を残す人物は「本来ならばその家を継ぐはずではなかった人」である場合が多いのですよね…
武田信玄、上杉謙信、徳川吉宗、井伊直弼などなど… 他にもたくさんそういう話はあります。
伊達宗城も、まさか宇和島藩の藩主になっちゃうとは思っていなかったでしょう。
そういうこともあってか、宇和島藩主となると、旧来の陋習にとらわれず、積極的な藩政改革に乗り出しました。
ろうの専売、石炭の採掘、蘭学の研究などなど… (案外と知られていないのですが、幕府の指名手配を受けた蘭学者の高野長英を宇和島に呼び寄せたりもしています。)
明治新政府に参加した元藩主、というのは少ないのですが、伊達宗城は違います。
“外交”“財政”に才能があったようで、鉄道建設に必要な費用をイギリスから借り受ける交渉に成功し、さらには日清修好条規を結んで中国と対等な関係を樹立しました。
ハワイの国王が来日したときに接待したのは伊達宗城で、他の列強の元首と差別しない待遇で迎えたため、その接待に感激したハワイ国王から勲章まで授かっています。
話を幕末にもどします。
伊達宗城が参勤交代で江戸にいたとき、ちょうどアメリカ合衆国の太平洋艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航しました。
すぐさま、浦賀へ“見学”に向かいます。
多くの大名が「黒船」に驚いていたなか、一人違う感想を持ちました。
「あれ、ほしいよなぁ~ ほしいほしい!」
で、宇和島に帰った時、藩の重臣たちを集めて話をしました。
「おまえら、蒸気船知っているか? すごいぞ~」
と、語り始めます。
殿の“お話し”です。はいはい、ほうほう、と感心したり興味深そうにしたりしながら聞いていた家臣たちは、次の殿の言葉に凍りつきました。
「…というわけで、わたしは蒸気船がほしい! 蒸気船をつくれ。以上。」
え… ま、ま、まじですかぁ~
えらいことになりました。殿のお言葉です。
まず、蒸気機関とは何なのだ?? ということになり、外国のもんだから長崎だろっ ということになり、長崎に「調査団」を派遣します。
なんとか専門書と設計図らしきものを手に入れました。
しかしオランダ語が読めない…
蘭学の医者なら読めるんじゃないか? となって、オランダ語の得意な医者を探し始めました。
で、見つかったのが、長州にいた医師、村田蔵六さんです。
え… わ、わたし、医学しか知りませんが…
とにかくたのむっ! ということで翻訳をさせることになりました。
蒸気機関はどうしよう… とりあえず村田蔵六の翻訳で、しくみはわかったが、どうやって作るのか…
モノ作りは、やっぱ職人だろっ ということで、宇和島城下の提灯屋を呼び出して蒸気機関を作れっ と、命じてしまう。
え… わ、わたし、提灯屋なんですけど…
とにかくやれっ! やれっていったらやれっ! と蒸気機関の研究をさせました。
もう、むちゃくちゃとしか言いようがありません。
が、しかししかし! なななななんと! たった三年でこの二人は蒸気機関を搭載した蒸気船を完成させてしまいました。
薩摩藩の島津斉彬が造船した蒸気船が日本初の蒸気船、とか言うておりますが、それはまちがいです。
島津斉彬は外国人技師に手伝わせていますが、宇和島藩は、日本人だけで(しかもほぼ専門外の人たちによって)作ってしまったのです。
村田蔵六は、これをきっかけに、軍事技術の研究に目覚め、その研究に力を注ぐようになりました。
この村田蔵六こそ、戊辰戦争のときの軍参謀、後の大村益次郎だったのです。彼は日本の軍隊制度の基礎をつくりあげることになります。
そして提灯屋の嘉蔵さん… 彼は、後の前原巧山。明治時代を代表する技術者で、ゲベール銃の国産化、木綿織機の製造、爆弾の雷管の作成などを手がけ、ミシンの製造にも成功しました。(ちなみにパンまで作ろうとして、これは失敗しますが…)
伊達宗城は蒸気船「を」つくったのではありませんでした。
蒸気船「で」多くの人材をつくった、というわけです。