空海を生んだもの… | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

第39回は「空海」でした。

空海… 弘法大師さまです。
聖徳太子以後で最大の宗教家といってもさしつかえはないでしょう。

そして『空海の風景』。司馬遼太郎の有名な小説です。
べつに司馬遼太郎さんを批判するつもりなどはありません。でも、彼が描いた歴史上の人物は、あくまでも「小説」としての人物なのですが、それが実在の歴史上の人物の理解に大きな影響をあたえていることは確かです。

坂本龍馬、斎藤道三など、小説を通じてこれらの人物を「知った」人も多いと思います。
でも、龍馬の実績は現在ではかなり再修正されていますし、斎藤道三にいたっては、二人(父と子)いたことがわかっていて、「国盗り」は父子二代の産物であるとがわかっています。
(詳しくは拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』「斎藤道三は二人いた?」「薩長は薩長同盟の前から同盟していた」の項をお読みください。)

さて、空海です。

空海の“伝説”(実話も含めて)には、やたら井戸を掘る話が出てきます。
奈良時代の行基もそうですが、農民のために各地に井戸を掘り、ため池をつくる…

治水事業と空海は密接な関係があります。
まさに「布施業」ですね。

空海は、佐伯田公(さえきのたきみ)の子として生まれました。
幼名は

真魚(まお)

です。

思いっきり時代を昔に飛ばしますが…

佐伯氏は讃岐の豪族です。
佐伯氏の祖は、『日本書紀』によると、ヤマトタケルノミコトが東征したさいに捕えた人々であったとされています。
伊勢神宮や三輪山に仕えさせたところ、昼夜騒いで人々に迷惑をかけた、よって景行天皇によって、彼らが讃岐・播磨・伊予・安芸・阿波の五か国にうつされた、と、いう話になっています。

うるさいっ 騒ぐな!

さわぐ、が転じて、「さわき」→「さえき」となった、という話です。

この「佐伯」と名をたまわった東国の人々なのですが…

常陸国『風土記』に、おもしろい記述があります。

 香島郡に、岩穴を掘って住む人々がいる。
 ヤマトの黒坂命がこの穴を閉じたので、穴に入れず討ちとられた。

佐伯の人々は、「穴を掘る」人々で、実際、讃岐・播磨・伊予・安芸・阿波で金属資源、砂鉄などを採取する、仕事に従事しています。

はるか後の世にうまれた空海は、空と海しか見えない岩窟の中で、口の中に明星が飛び込んで悟りを開いたと言われています。その後、諸国をめぐって、農民のために井戸を掘っていく、という話と、なにやらつながっているようでなんともおもしろいところです。

「魚」が「水」をもとめて井戸を掘ったりため池をつくったりした、という話ですね。

さて、司馬遼太郎の『空海の風景』なのですが…

司馬遼太郎さん、ちょっとひどいんですよ。あくまでも小説、として読まなければ、空海さんの人物像がずいぶんと変なことになってしまいます。

『三教指帰』は18才で著したみたいに書いてあるんですが、これ、24才の著作なんです。なんで18才としているんでしょう…(初版ではそうなっています。もう訂正されているのでしょうか…)

たぶん、空海は大学を18才のときに中退して、それを父に怒られるんですが、その弁明として著したのが『三教指帰』なので、そのときに書いた、と、思ってしまっているのでしょうか…

そしてその中退の理由を「性欲」のせいにしているんですよ。
何度も強調しておきますが、『空海の風景』は小説です。
空海が大学をやめた理由については研究者の間でいろいろ議論されていますが、こんな話は無いと思うのですが…

正式な僧(得度を受けた官僧)になるまでは、私度僧といいます。「僧」となったのは遣唐使の船に乗る直前でした。
18才で大学をやめて私度僧となって30才で正式な僧となる…

性欲になやんで大学をやめ、修行して性欲を克服して、正式な僧になった、みたいに『空海の風景』では書かれているんですが、え~ そんなふうな理解でほんとによいの??

と、思います。

「かれが正規に得度して官僧になるのは、遣唐使船に乗る前年である。」
「このころになってようやく僧になる自信を得たかとおもわれる。」

「禁欲についての自信を得たということではなく、禁欲という次元からはるかに飛翔し、欲望を絶対肯定する思想体系を、雑密を純化することによってかれながらに打ち樹てることができたときに僧になってもいいと思ったに違いない。」

司馬遼太郎さん独特の文体と術語で「それらしく」説明されちゃっていますが…
あくまでも『空海の風景』は小説です。「…おもわれる」「…違いない」というのはあくまでも司馬遼太郎さんのお考えです。

こはにわは、そんなに複雑に考えなくてもよいと思っています。

おシャカさまの事績に空海はならったんでしょ。
おシャカさまは、18才で出家して30才で悟りを開いた、というのが日本に伝わっている“伝説”です。

空海さんは、この12年間に修行なさっていたんですよ。突然、官僧になったのではなく、私度僧だけれど、仏教界ではそれなりに有名な人物であったと現在では考えられています。

「ほんの一年か二年前までは山野を放浪する私度僧だった…」わけではありません。

空海の乗った遣唐使船が到着予定地ではないところにたどりついたとき、なかなか上陸許可が出ませんでした。
このとき、大使にかわって、彼が文章を作成して提出すると、たちまち上陸の許可が出た、というのは有名な話です。
そこでも司馬遼太郎さんは、空海に“難癖”をつけているかのようです。

「大使の葛野麻呂のうろたえる姿を見つつ、手をさしのべなかったことについて、かれの奥床しさと見るのは、空海の性格からやや遠い。」

え… どういう根拠で??

「空海の生涯の行蔵からみて、謙虚という、都会の美学はもっていなかったと思われる。」
「かれがのちに謙虚さをみせる言動が多少あるにせよ、それは駆引きからくる演出にすぎなかったであろう。」

ひどいひどい! なんでこんなこと言うんでしょう…
空海さんがかわいそうになってきました。

空海は、農民のために「満濃池」を修築したことは有名です。讃岐の国司が都におくった書状には

「百姓恋ヒ慕フコト父母ノ如シ」

と記されています。

でも、満濃池の話のところでは、

「空海のずるいところであり、もし空海が大山師とすれば、日本史上類のない大山師にちがいないという側面が、このあたりにも仄見えるようでもある。」

これ、ひどくありませんか?

何度も何度も何度も申し上げますが『空海の風景』は小説です。

「謙虚という、都会の美学はもっていなかった」
「駆け引きからくる演出」
「日本史上類のない大山師」

『空海の風景』の中の「空海」さんについては、こはにわは“冤罪”が多いと思っています。