第38回は「上杉謙信」でした。
これはもう、戦国大名ベスト10、どころか、場合によってはトップ3の人気に入ってくる武将ですよね。
ほぼ国民的ヒーローかもしれません。
もちろん実在の人物ですが、こはにわとしてはできるだけ「等身大」の謙信を紹介したいと思います。
『戦争論』で有名なクラウセヴィッツは
戦争の勝敗は、その戦争目的を達成したか否かにある。
と申しております。極論を言うと、その戦いで何か目的が達成できたならば、戦いそのものは敗北でもよい、という意味です。
このあたりは、謙信のライバルと言われてきた武田信玄はハッキリしていて、川中島の戦いなどでも、負けて引き上げている回があるようにみえますが、それは関東に攻め込んだ上杉軍を越後に引き上げさせるために川中島に進出し、同盟国を助ける、という作戦として展開していたもので、信玄の「負け」とカウントしたとしても、信玄の戦争目的が達成できていたとするなら信玄にとっては「勝ち」でもあるわけです。
江戸時代に流行した「甲州軍学」は、この点、クラウセヴィッツ型の戦争論です。
「甲州軍学」は、幕府の旗本・御家人、譜代大名の間で流行しましたが、それもそのはず、家康の家臣団は三河以来の武士たち以外にも旧武田家配下の武士たちも多く、「おれたちの御先祖さまは家康公も一目置く存在だったのだ」というのを「お家の誇り」としていました。
上杉謙信は、反クラウセヴィッツ的で、「戦争そのものに勝つ」ことが重要で、その後どうなるか、ということはいちいち考えない、とにかく「目の前の戦い」を一つ一つ勝っていくのだ、という感じです。
おもしろいことに、「甲州軍学」に対して、「越後軍学」というのも江戸時代流行しました。
武田信玄に対しては上杉謙信だっ という考え方ですね。
こちらは、謙信の家臣、宇佐美定行の子孫を自負する宇佐美定祐が始めたもので、彼は紀州藩の家臣でした。
徳川秀忠直系の本家筋が断絶すると、紀州家から吉宗が将軍となります。紀州家で始まった「越後軍学」は、従来の「甲州軍学」と対抗して広がるようになりました。
有名な「川中島合戦屏風」が和歌山にある理由がこれでおわかりでしょうか。
さぁ、ここから両派による、武田信玄・上杉謙信リスペクト合戦が始まります。
甲州軍学派は信玄だけでなく謙信も名将として描きます。
だって、相手がすごくて強いほうが、こちらの値打ちもあがるからです。
越後軍学派も謙信だけでなく信玄を名将として描きます。
だって、相手がすごくて強いほうが、こちらの値打ちもあがるからです。
こうして相互が相手と違う、「すごさ」と「強さ」を描いて強調していくようになり、現在に伝わる「信玄像」「謙信像」が完成していきました。
信玄・謙信両ファンの方には申しわけないところですが、二人の戦いの数多くの逸話は、虚構とは申しませんが、かなりの誇張として描かれていくようになりました。
二人の合戦史料の多くは江戸時代、それも18世紀に記されたものが多いのです。
ただ、当時の一級史料(同時代の記録)として知られる山科大納言言継の『言継卿記』には川中島の戦いの記録はみられ、
謙信は「自ら手を砕いていた」と記されているので、直接指揮で先頭きって戦っていたことは確かでしょうが、ただ、残念ながら、謙信・信玄の一騎打ちは、宇佐美定祐の“創作”です。
なるほど、実はたいしたことがなかったんだな~
そらそうだよな、よく考えたら、上杉謙信、あんだけ戦ったのに領土は増えていないもん。
と、逆に謙信を侮ってはいけません。
江戸時代のフィルターで歪められた戦国武将像は実に多いのですが、そのフィルターのせいで、かえってほんとうの「ものすごさ」「おもしろみ」が消えてしまうんですよね。
上杉謙信は、以前にもちょっと紹介したように、「戦国資本主義」をよく理解していた「経済大名」でもありました。
「あおそ」という繊維原料を交易品として輸出し、越後沿岸の港の「使用料」をとって、越後を日本海交易のハブとすることに成功していました。
謙信の軍資金は、この交易からあがる利益によって支えられており、本拠地の春日山城には、多くの金銀とそれによって購入された武器・武具が山積みされていたといいます。
いや、でも、領地がぜんぜん増えていないよね。おかしいやんっ
というツッコミは江戸時代にもされていたようで、だから作り上げられた伝説が、
「謙信公は義の人だ。私益ではなく義で動く。」
「たのまれたら何の得にもならなくても兵を率いて戦う」
となるわけです。
これだと領土が広がっていなくても、まったく問題はないわけですからね。
でも… 果たしてそんな「リクツ」をコネないと、謙信の領土が広がってない、ということに対する「言い訳」ができないのでしょうか?
H・U・ヴェーラーという歴史学者がいます。
彼は「社会帝国主義」という考え方を提唱していて、かんたんに言うと、
「国内のさまざまな分裂、対立している社会階層を一つにまとめるために、対外戦争を利用する。」
というものです。
つまり「共通の敵をつくると団結できる」の法則を用いる、という方法です。
越後は、山沿いは盆地も多く、それぞれの村が独立し、地元の有力者(国人)が多数存在していました。
それらを一つにまとめるのは容易なことではありませんでした。陰湿な内部対立や、足の引っ張り合い、というのがあり、なかなか「まとまり」をみせられません。
しかし、「外に敵をつくる」ことによって、国内を一つにまとめる、ということは、こういう環境下にはよく起こることなのです。
これは、越後だけの問題ではありません。
中国地方もよく似た情勢で、「だれか」強い存在にまとめてもらおう、という意識が働く場合もあるのです。
越後の場合は、それが謙信のキャラクターと相まって、苛烈に表現されました。
内にあっては経済政策を充実させ、外にあっては「敵」をつくって、内部の対立を解消する、という方法です。
よって謙信は戦い続けました。
場合によっては強引な理由をつけてでも…
家臣たちもそうしなければ、細かい利害対立が相互にあり、まとまらなくなって分裂・崩壊してしまいます。
それが証拠に、一時、謙信が国内の内部対立に腹を立て、ストライキ(引退)を宣言したことがあります。
これには、家臣・豪族たちは参りました。「共通の敵」と戦うためには「共通の盟主」が必要なのです。
すでに、謙信なくては国内がまとまらないことがわかっていたのです。
謙信に誓紙を差し出し、「もうしわけありませんでした。今後はこのようなことがないようにいたします。どうか盟主となってください。」と一同頭を下げるハメになりました。
関東に攻め入り、信州に乗り込み、一見、何の利益にもならないのに謙信に率いられて出撃しながら、越後の細かな利害対立を乗り越えて(忘れて)団結していく、ということが進行していくことになりました。
その点、謙信もクラウセヴィッツ的だったわけです。
領土なんか増えなくても、戦争によってそれ以上の利益と統合を国内にもたらす。
「戦争目的」は達成していたのですから。
ただね…
やはり上杉謙信はすごいのですよ。凡人では戦国社会帝国主義は実行できません。
カリスマ性、指導者としての魅力、そのようなところがなくては「共通の敵」を倒す「共通の盟主」とはなりえません。
それに、きっと彼自身、戦う、ということが好きだったのだと思います。
この点、打ち合わせのとき、プロデューサーの奈良井さんが実に巧みに表現してくださいました。
「そうですよね~ 最初は儲けるつもりで始めた株のトレーディングが、そのうち儲け抜きで、トレーディングそのものがおもしろくなってしまって、利益はどうでもよくてトレーディングそのものに没頭するという人、出てきますもんね~」
そういう謙信のキャラクターが、「戦国社会帝国主義」の実行にピッタリだったのだと思います。
大車輪で回転していた上杉謙信…
突然、彼は倒れました… 卒中であったと言われています。
織田信長を倒すために西征する前日だったとも、関東地方への遠征を再開する前日だったともいわれています。
なんと彼が死んだその日に、後継者争い、「御館の乱」が起こりました。たちまち家中が分裂…
共通の敵をつくって団結させていた盟主が消えた瞬間、分裂が始まる…
やはり越後はこの方法でなければまとまっていなかった、という明白な証拠だと思うんですよね。
とにかく戦うのだ。
その後にどうなるかは問題ではない。
目の前の戦い、一つ一つに勝っていくことが重要なのだ。(上杉謙信)