ごちそうさん最終回に寄す もう一つの民族大移動 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

人気の朝ドラ、「ごちそうさん」がついに最終回でした。

“満州の豚の丸焼き”

こはにわは、祖父を思い出してしまいました。
祖父は満州からの「引揚者」で、軍関係の仕事をしていたようです。

「軍閥の××(何と言うていたか記憶がないのですが)に料理をごちそうになったことがあったな。相手はえらいさんや。同席なんかはでけなんだけれど、そら豪勢な料理やったで。」

と、話してくれました。

その中で、豚の丸焼き、というのが出てきたそうです。
子どものときに何度もその話を聞かされ、「食べたいなぁ」とずっと思っていました。

最終回のあの「豚さん」は料理されてしまったのでしょうか… できれば、おいしい豚料理をみんなで囲んでおしまい、という場面が見たかった気がしますが、「復員兵」「引揚者」と、残された家族との再会、ということを粗描したあの最終回の場面に感動した人も多かったことでしょう。

さて、番組を通じて「復員」「引き揚げ」という言葉が出てきましたが、ちょっとこのあたりの話は、実は学校教育ではあまりクローズアップされていないところなので、今回、ちょっと説明しておきたいような気がしました。

日本は、ポツダム宣言を受諾しました。そして、降伏、ということになったのですが、この段階で、海外に在住していた日本人は、軍および民間人、合計670万人であったと推定されています(諸説あり)。

このとき、連合軍側は、世界史上、類例のない「作戦指令」を出したことは知られていませんし、あ、そうだったんだ、と思われる方も多いので取り上げておきますと…

この660万人をすべて日本に帰還させる、ということをしたのです。

え?? そういわれても、それがそんなにすごいことなの?

という反応の方が多いのですが、いろいろな意味で第二次世界大戦後の日本に対する「処置」は特別なものでした。

かつて戦争において、本国が他国との戦争に敗れたという理由で、外国に住んでいる人たちがすべて帰国させられた、という例が無い、ということをご存知だったでしょうか?

日本人は「まぁ、戦争に負けたんだから、しょうがないか」というめちゃくちゃ「大きな感覚」ですべてを受け入れていますが、ずいぶんと「特殊な事例」が戦後から独立までの間に起こっているんですよ。

600万人をこえる民族の大移動が始まりました。

GHQの指示のもと、全国に帰国者(以後、引揚者と申します)専用の寄港地が10ヶ所指定されました。
うちの祖父の話をもとに、以下、続けていきたいので、祖父が帰還した舞鶴港での話が中心となります。

引き揚げは昭和20年から33年まで続きました。そして、引揚者のための港の最後の港が舞鶴港です。

外国には670万人の日本人(半数が民間人)、国内には朝鮮人・中国人250万人が住んでいて、軍隊は

 ポツダム宣言第9条

によって、復員させられていきましたが、なんと一般人は「自分で」日本に帰国しなくてはならなかったのです。

昭和21年の段階で、500万人の引き上げが完了、朝鮮人・中国人も120万人が送還されています。
わずか一年間で620万人以上の大移動が起こったのでした。

引き揚げさせるための船なんかほとんどありませんでした。すべての船舶あわせても130隻しかなく(終戦直前の日本の状態が推測できます)、当然、経済活動のために必要な輸送船などを差し引くと、引き揚げに使用できる船などありません。

そこでGHQが、病院船6隻を含む191隻の船を用意して、日本政府に供与しました。

海外に残っていた日本人居住者の区域は、GHQ指令第1号によって5つの軍管区に分けられます。

小笠原諸島、南太平洋諸島、フィリピン、朝鮮半島南部は、アメリカ軍管区で99万人。この管区の引き上げがもっともスムーズで昭和22年で完了しました。

オーストラリア軍管区はボルネオやニューギニア、ソロモン諸島などで14万人。これも昭和23年には引き上げが終わりました。同じく、東南アジア・ホンコンなどはイギリス・オランダ軍管区で、75万人の引き上げが昭和23年に完了しています。

かなり遅れるのが、中国軍管区とソ連軍管区です。

台湾・中国(満州のぞく)・北ベトナムには200万人いましたが、昭和24年にはここから270万人が帰国しています。

あれれ?? 70万人、増えてますよね… なんだこりゃ… と、思ったら、これが祖父と同じルートによる引揚者で、ソ連が満州に侵攻する前(あるいはその日)に中国へ逃げた人たちです。

満州から中国へ逃げ、そうして日本に帰る、という「回避」ルートをとった70万人なんですよね。
もっというと、ソ連が満州から撤退した後、さらに中国へ逃れて出てきた人たちがいました。この人たちの帰還が昭和33年までかかったのです。

ソ連軍管区は最悪でした。満州・朝鮮半島北部・樺太および千島。
ここにも300万人近い人々がいたはずなのですが、ソ連は日本に対してまったく何の情報も伝えてこなかったのです。

満州には160万人ほどいたはずですが、そのうち17万人が戦後に死亡しています… 戦争が終わってから、この地で在留邦人の約10%が亡くなっているんですよ!

10%の死亡、といえば、ソ連軍は占領地域から60万人をシベリアへ連行し、強制労働に従事させ、そのうち、6万人が死亡しています…

さて、「復員」というのは、軍人を民間人に手続き上戻す、という意味です。
陸軍省は第一復員局、海軍省は第二復員局、というように改組され、昭和21年には

復員庁

が設立され、全員帰還をめざしてその業務が遂行されていきました。
詳しくは知りませんが、祖母の話では、舞鶴での復員者の事務をしばらく祖父本人だったか祖父の友人だったかが手伝っていたようなのですが、詳しい話はいっさいしてはくれておりません。

たった一言。「舞鶴でたくさんの人が死なはったんやで。」

港に着いて、そこで亡くなった人が300人ほど、舞鶴にもどる船の中で死んだ人が60人ほどいたそうです…

昭和25年のことです。ソ連は突然、

「ソ連占領地域からの日本人の引き上げは完了した。」

と、一方的に通知します。40万人近くが帰還していないというのに…

あのときの戦争はまだ「歴史」にはなっておりません。
多くの人の「記憶」である以上、感情的にならずに議論することは「まだ」できないのでしょうね。