春が来ました。
各地で桜が咲き始めています。
花は桜木
人は武士
という言葉があります。
潔く美しく散る… 花ならば桜で、人ならば武士、という意味です。
江戸時代からの言葉なのかな、と、思っていたのですが、文献的には平安時代の末期からあるようで、あんがいと古い言葉です。
命を惜しまず、戦いにのぞむ、という精神は、儒教道徳が武士階級に広がる江戸時代より以前からあるようです。
よって武士は桜を好みました。
ところが、潔く散る、というのは武士個人の問題であって、「家」は存続させなくてはなりません。
死をおそれぬ武士も、家が絶えてしまうことはおそれていたようで、10代後半には結婚して子をつくる、というのが通常で、30才代で「孫」がいる、という武士も少なくありませんでした。
桜を好むのは“個人の精神”においてのみ。よって「家」の象徴たる家紋には、武士は「桜」を用いません。
そりゃそうです。家が潔く散ってもらっては困るからです。
平安末期の、源平の争いなどにおいても、相手の家をつぶす、というような絶滅戦はけっこう避ける場合が多く、おもしろいことに、一族の中で、必ず誰か敵側にまわっている場合が多いのです。
「敗戦処理のときは、敗戦した側の家の断絶を図るような厳しい処断はしない。」
「どちらが勝っても、勝った側にいる人間が自らの手柄の一つの要求として、同じ一族の助命嘆願をする。」
「どちらかの家がどちらかの勝利で残る場合は参加する。」
という暗黙の“武士の作法”がありました。
保元の乱でも、
(後白河天皇方)源義朝・源頼政・平清盛・平信兼
(崇徳上皇方) 源為義・源頼憲・平忠正・平家弘
というように、源平いずれも敵側に存在しています。
しかし、このときは勝った後白河上皇方は、信西と清盛の“陰謀”で、
「自分もおじを斬るから、おまえも父を斬れ」
というような、旧来の作法を破って清盛が源氏の勢力削減を図った、と、言われています。
(このあたりの経緯は、拙著『超軽っ日本史』で詳細に扱っているので、源平の争乱に興味ある方は是非お読みください。)
平治の乱では、源頼政は、源義朝には従わず、平清盛に味方しており、平氏政権下では、源氏の長老として従三位という高位についています。
べつに平清盛は、源氏を断絶しようとしてはいません。後の「源頼朝」の系統からみたリクツであるだけなんです。
保元・平治の乱にこじつけるつもりはありませんが…
はるか後年、関ヶ原の戦い…
真田昌幸とその子、信之と信繁(幸村)…
昌幸と信繁は西軍に、信之は東軍に、それぞれ父子・兄弟、分かれて戦うことになります。
これも、考えようによっては中世以来の武家の作法にのっとった考え方のもので(血縁関係もふくめて)、同じような家中の「分裂」はよくみられます。
息子や娘を「人質」として差し出す、他の家に養子に出す、というのも、よく考えると、敵側に自家の血を注ぎ込むことによって「家」の存続をはかることができる制度でもあります。
人質に差し出す、一族の誰かは敵側にいる、そうして自分は「潔く美しく散る」ことができ、「武士個人」としての美学を貫けて、そうして「家」「血」は残すことができる。
相手を攻める側も、「滅ぼす」のではなく、ちゃんと「家」や「血」を残してやれる…
武士の戦いをみていると、何やら兄弟・親子の「骨肉の争い」のように見えますが、あんがいとうまく「家」と「血」を残すように「組み合わせられている」ことがわかります。
自分は死んでも、家と血は残す…
よって、その死にざまは、潔く、美しい、と、言われるわけです。
花は散る。
幹、根は残る。
武家の家。