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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

第37回は、菅原孝標女でした。『更級日記』という、入試でもよく出る古典が今回のにゃんたのマル秘ファイルです。

唐突ですが… みなさんはベートーヴェンという作曲家はご存知ですよね。どのような曲を知っておられますか?

彼は交響曲を九つ、書いています。

ああ、『運命』って知っている! ジャジャジャジャ~ンっ でしょ?

有名ですよね。でも、あの曲、ベートーヴェン自身が『運命』って名付けていないんですよ。弟子に冒頭の、ジャジャジャジャ~ン、の、意味を問われて

「運命は、こんなふうに扉を叩いてやってくるんだ」

と、言ったとか言わなかったとか… ここから「運命」と名前が付けられました。
「運命」は交響曲第五番、です。

第三番は「英雄」ですが… これも実は「英雄」という題名ではありません。
「ある英雄の思い出のために」と記されているから「英雄」と呼ばれているだけです。
ベートーヴェン自身が付けた題名では「田園」くらいといってもよいでしょうか…

ピアノ協奏曲の第五番も「皇帝」と呼ばれていますが、これもベートーヴェンが付けた名前ではありません。
ピアノ・ソナタの「月光」も、そんな名前、ベートーヴェンは付けていません…

後世の人が勝手に名前をつけちゃう、というのはよくある話… 以前にも「紫式部日記」は紫式部が書いたかどうかはわからない、だってほんとうの題名は「紫日記」です、という説明をしたことがあります。

さてさて、菅原孝標女が書いた『更級日記』ですが…

実は、この題名『更級日記』というのは彼女が付けた名前かどうか、まったく不明なんです。
どこをどう読んでも、『更級』という言葉は一言も出てきません。

 月も出でて
 闇にくれたる姥捨てに
 なにとて今宵
 たづね来つらむ

という歌があります。これから『更級』日記という名前になった、と、言われています。

はぁ?? なんでこの歌で「更級」になるねんっ と、ツッコミが入るところですが、古今和歌集に

 わが心
 なぐさめかねつ
 更級や
 姥捨て山に照る月をみて

という歌があり、『更級日記』の歌は、この歌をもとにして作った(本歌取りした)といわれています。

だから、『更級日記』という題名になった、と、いわれてます。

え、ええ? だから、と、言われても… というところですよね。(じゃあ『姥捨山日記』でもええがなっ となりそうです。)
藤原定家の写本に『更級日記』と書いてあるのですが、それより前にそのような題名があったかどうかはまったくわからないんですよ。

それから、「日記」と言われていますが、『更級日記』は、「回顧録」です。この時代の日記文学には、毎日少しずつつけている、というものだけでなく、「回顧録」や「日記のふりをした物語」みたいなものもけっこうあります。

『更級日記』は13才から50過ぎまでの回顧録、といってもよいと思います。

『源氏物語』にハマった少女時代
身内が死去する悲しいできごと
宮仕えの夢と現実の差に苦しむ
結婚と夫の病死
巣立っていった子どもたちと老後
孤独の中への仏教への信心

ざっくりこんな流れで書かれています。

番組でも説明されていましたが、オタク少女の現実との衝突、が生み出した作品、ともいえます。

「ひきこもり」「オタク」というのは現代病でもなんでもなく、平安時代からずっと存在していることなんですよね。

ケタ外れに何かに没頭してしまう…

妄想、というより、超現実、とでもいうべきなのでしょうか… 何かにハマって何かの世界に没入する、というのは妄想ではありません。

菅原孝標女は、「すがわらのたかすえのむすめ」と読みます。

女性の本名はこのとき、表には出てきません。彼女の本名もわかっていません。

菅原といえば、あの菅原道真さんの菅原で、父の孝標は道真の曾孫の子に該当します。
代々学問の家柄ですが、孝標は蔵人頭と文章博士になってはおりません。

これは菅原家にとっては、屈辱、とは申しませんが、彼には無念の思いがあったかもしれません。上総介、常陸介に任じられて、地方の長官ばかりやっています…

とくに、常陸介の任務終了後、もうおれ、引退かな、と、思っているときにさらに国司に任命されちゃって、え… これ、生きて帰られないよな… と、覚悟をし、家族と今生の別れを惜しむ、というシーンが『更級日記』に記されていて、カンドーの場面なのですが、実際は元気にかえってきます。
さらにおもしろいことを付け加えますと、菅原孝標は、藤原実資の娘の家庭教師兼お世話係に任命されています。
そう、つまり、あの「かぐや姫」藤原千古に仕えるんですよね。
(ありゃ、つながった。コヤブ歴史堂の登場人物たちは深いところでみな不思議とつながっていきます。)

この地方長官の任命だけでなく、「家族」の問題が、娘の「教育」と「成長」に大きな影響をあたえました。

上総介に任命されて、「東下り」をすることが決まったところ、妻がなんと

「わたし、そんな田舎、行かないっ」

と、ダダをこねてしまいます。『更級日記』の中で、母のことを書いているのですが、

「ママって、時代遅れで頑固だからっ」

という表現は古文では「古代の人」となっています。(頭の古い時代遅れの人には「古代の人」って言ってあげてください。)
『更級日記』によると、母は近所の神社にも出かけないという人物だったらしいのです。
(いやいや、これ、頭が古いじゃなくて単なるめんどくさがりでしょ。どうやら母の遺伝子が娘に受け継がれたようです。)

え~ ちょっと待ってよね… と、菅原孝標は困ります。
家族を残して地方に行く、というのはいろいろな点で問題がありました。

まず第一は「治安がよくない」ということです。
主のいない貴族の家、というのはよく野盗に襲撃されました。
それから教育の問題もありました。
学校や塾が無い時代。おまけに菅原家の娘が和歌や文章のたしなみが無い、というわけにはいきません。本来なら自分が教養を授けるところですが国司というのは、かなり多忙な仕事で、地方官では家でのんびり、ということもできません。

で、別の「妻」をもうけて、上総に向かうことにします。

この時代は「婚姻」という制度も「離婚」という制度も「制度」として明確に存在している時代ではありません。
この「新しい妻」は、菅原孝標の目がねにかなった教養のある女性だったらしく、「上総大輔」とよばれる和歌の名人でもありました。

この「新しい母」の系図をたどると、叔父さんにあたる人の妻が、なんと紫式部の娘に該当します。

はは~ん… こりゃ、まちがいなく、『源氏物語』や都の宮廷の話を仕込んだのはこの「新しい母」ですよね。

ところが、この「新しい母」は、都に帰ってからつらい目にあいます。

菅原孝標が都にもどると「前の妻」は何事もなかったように家にもどってきて、「わたしは正妻です」とふるまいます。
菅原孝標は、「新しい妻」には、前の妻とは京都にもどったら別れるからね、と、言っていたにもかかわらず現実は違いました。

 思ひしにあらぬことどもなどありて
 世の中うらめしげにて外にわたる

「話がちがうではありませんか」という悲しみの言葉が聞こえてきそうです。

「新しい母」は去っていくことになりました。

 都に帰ってきたときの記述はこのようにあります。

「いと暗くなりて三条の宮の西なるところに着きぬ」

一家が都に帰り着いた時、京都三条の家は、草がボウボウにはえて、都とは思えない!と記しています。
(この実家は、中京区の舟屋町の西にあったろうと考えられています。)

 春ごとに、一品の宮をながめやりつつ
 咲くと待ち散りぬと嘆く春はただ
 わが宿がほに花を見るかな

春が来るたびに、お隣さんの桜が咲くかな、散っちゃうかな、と、自分の家の桜みたいにながめていました、と、述べています。

 源氏を一の巻よりして
 人も交らず
 几帳のうちにうち臥して
 ひき出でつつ見る心地
 后の位も何にすはせむ

 源氏物語を読むのって、どんだけ幸せって、お姫様より幸せ!

 われはこのごろわろきぞかし
 盛りにならば、かたちも限りなくよく
 髪もいみじく長くなりなむ
 光の源氏の夕顔
 宇治の大将の浮舟の女君のようにこそあらめ

 わたしは、まだ子どもでちっとも可愛くないっ
 だけどだけどぉ!
 大人になったら可愛くなると思うのっ
 源氏物語のあの登場人物たちのように!

 たぶん、目の中に星が飛んでいて、はるかかなたを見つめていたのでしょう。

 晩年、ああ、『源氏物語』なんか読まずにまじめに生きていればよかった… などと記すことになるとは夢にも思っていなかったのでしょうね…
こはにわは、学生時代、塾の講師をしておりました。
中学受験のための塾です。
ここで、教えていると、子どもたちの「素朴な」質問、というのにずいぶんと困らされました。
でも、たいへん勉強になったことも確かです。
かつて自分も子どもであったことがあったのに、子どもの視点や気持ちをすっかり忘れて大人になってしまったことがよくわかりました。

いろいろ素朴な質問がありました。その一つが…

「忠臣蔵は、なんで『蔵』なん? 話に『蔵』なんか出てこないやん。」

え… いや、それは…

恥ずかしながら、学生時代の私には即答できませんでした。

「そんなん考えたことないな… なんでや? 上野介がつかまったところが蔵やったからか?」

と、間抜けなことを考えてしまいました。

「忠臣蔵」は、「赤穂事件」をもとにした歌舞伎の脚本です。

『仮名手本忠臣蔵』の通称。

「赤穂事件」は、浅野匠頭が、吉良上野介に殿中で刃傷におよび、とりつぶされたところから始まります。大石内蔵助率いる旧浅野家の家臣たちが、主の敵を討つべく吉良邸を襲撃し、上野介を討った、という事件です。
この処分をめぐって、幕府内はいろいろとモメたこともあり、この事件そのものの詳細を明らかにすることはタブーとなりました。
事件は、民衆の知るところとなり、幕府に対する不満とともに賛美され、それが竹田出雲・並木千柳によって演劇化、脚本化されました。

ですから、なんせうっかり扱いを間違うと幕府批判になる題材。よって登場人物の名前はすべて実在の者とは違う名前に変えられています。
観た人たちが、「はいはい、これ、あの話ね。おもろいぞっ もっとやれっ」となるような仕掛けになっているわけです。

大石内蔵助 → 大星由良助
浅野匠頭  → 塩冶判官
吉良上野介 → 高武蔵守師直

「赤穂事件」を、もう一つの事件、『太平記』二十一巻「塩冶判官讒死の事」と重ね合わせたものなのです。

高師直が、出雲守の塩冶判官の妻に一目ぼれ、『徒然草』で有名な吉田兼好に代筆させてラブレターを書いてもらうのですが、見事にフラれてしまいます。
恨んだ師直は(え… 恨みも何も…)、足利尊氏や足利直義に塩冶判官が謀反を企んでいる、と、ウソをでっち上げ、塩冶判官もその妻も非業の死を遂げる…
という事件を題材にして、「赤穂事件」をあらわしたわけです。

『仮名手本忠臣蔵』の作者は、別に高師直のことを悪人に仕立てるつもりはなかったのですが、「赤穂事件」だけではなく、一般庶民にも『太平記』そのものをよりいっそう普及させ、「上野介、悪いやっちゃな~ ええぞ四十七士!」というだけでなく

「高師直、悪いやっちゃな~」

と、いうことも広めてしまう思わぬ“効果”を生み出してしまいました。

付けて加えて、戦前の教育で「朝敵、足利尊氏」が強調され、「悪の尊氏」、その手下の高師直は「悪の悪」というように、二重に“悪行”が重ねられてしまいました。

前にも申しましたように、こはにわは、自称“歴史人物弁護士”です。

高師直の“冤罪”

とまでは言いませんが、実際以上に歪められた“高師直”像を少し矯正したいと思います。

比喩的に説明しますと…

テレビドラマでは「校長先生が良い人、教頭先生が悪い人」の法則があります。

1970年代以降、学園モノのドラマが流行しますが、どういうわけか校長先生は話のわかるよい人が多く、教頭先生は頭が固い、なんだか悪い人、みたいに演出されています。
サラリーマンのドラマでも、部長はいい人、でも課長や係長はちょと意地悪、小さい人物、というような感じに描かれます。

足利尊氏の執事(後に管領という名称に変わります。実際は微妙に違いますが…)、高師直は、「中間管理職」というか、実際に政治を担当する役職ですから、武士たちを「査定」する立場にある人物でした。
そもそも、領地や手柄の訴訟を被告・原告両方満足いくような裁定は下せません。尊氏が認定したものであっても、

「こんな決定しやがって!」

と、恨みは総大将の尊氏には向かわず、目の前の高師直に恨みは集中します。
高師直そのものも、足利家を盛り立てようと、「汚れ役」を自ら引き受けているようなところもありました。

豊臣政権における石田三成もおそらく、そんな立場にあって、必要以上に大名たちから嫌われていた、と、みたほうが辻褄が合うところもあります。

歴史は、誰かを「悪人」にしたうえで、何かを説明してしまおう、とする“力学”が働きます。
人は、何かに「腑に落ちたい」んですよね…

南北朝時代の“観応の擾乱”、という、かなりややこしい話を、どうやったらうまく説明できるか、というところで、その回転軸となる悪役担当に、高師直がバッチリはまってしまったんですよね…

だいたい人に嫌われる、ということは、それだけ仕事をしている、ということです。
賢者はすべて悪人ではありませんが、悪人は100%賢者です。
初期の室町政権は高師直無しでは回転しませんでした。高師直は「功労者」ですよ。

主人の足利尊氏が「悪人」として扱われていた時代は、高師直はそれを助けた「悪人」で『太平記』と『仮名手本忠臣蔵』によって増幅された「悪行」が重ねられます。

足利尊氏の評価が変わり、実は立派な人だ、と、なったときは、その尊氏の良さを引き立てるために、かえって高師直が尊氏の悪い部分の業績をすべて引き受けたかのように説明されてしまう…

高師直の評価をもっともっと転換しないといけません。

ちょっとちょっと、こはにわ先生っ 今日の話の題名は

「もう一つの二・二六事件」

じゃないですか。いったいどこが二・二六事件なんですよっ!

と、みなさんのお怒りが聞こえそうです。

いやいや、それよりもっ 『忠臣蔵』の「蔵」のことも解決してませんよっ!

と、イライラしているみなさんもおられるかもしれません。

す、すいません。え~と… ではまず『忠臣蔵』のほうから…

もうしましたように「赤穂事件」そのものは当時扱えません。でも、“メッセージ”も込めなくてはなりません。

「塩冶判官」の「塩」は明らかに、赤穂の塩から浅野匠頭を連想できるようになっています。
「高師直」の「高」は明らかに、「高家」(幕府の儀礼担当官)筆頭、吉良上野介を連想できるようになっています。
では、「忠臣蔵」の「蔵」は? 簡単です。

「天下の忠臣、内蔵助」。

モロにこんな題名にしたら幕府に怒られますからな。それにしても、昔の人のシャレは効いております。

さてさて、足利尊氏と、弟、足利直義が争った内部対立が「観応の擾乱」なのですが、打出浜の戦いで、直義が勝利し、その講和条件となったのが

 高一族の政界からの引退と、高師直の出家

でした。尊氏は、あっさりとこの講和を受け入れ、高師直を出家させて、身柄を引き渡します。(た、尊氏! 冷たいぞっ)

ところが、その身柄が京都へ護送されている最中、足利直義派によって高師直が「暗殺」されてしまうことになります。

それが

    正平六年/観応二年の二月二十六日

というわけです。

ちなみに、高師直と対立していた足利直義ですが、翌年の同じ二月二十六日に病死する…
なんともいえぬ“符合”です。

そして誰もいなくなった…

あ… 足利尊氏一人が残りました。
自分の汚名を全部部下が引き継いで死んでくれ、対立しているライバルも消え…
気が付けば、尊氏にとって一番都合の良いように“決着”していた、というわけです。
第36回は「こんなナデシコもおったのにゃ~」のパートⅡでした。
そのうちの一人が「藤原千古」でした。

この人を番組で取り上げたとき、視聴者のみなさんの多くは、誰??と思った人も多かったとは思います。

でも、歴史学の中では、この人の研究のおかげで当時の貴族の生活がよくわかった、という部分も多いのです。

にゃんたのマル秘ファイルとして紹介したことがある『小右記』の筆者、藤原実資の娘が、藤原千古なんですよね。
ちなみに、藤原実資は、「小野宮右大臣」と呼ばれていたので、「小」「右」「記」となるわけです。

藤原道長の家を、藤原主流派、とするならば、実資は反主流派。
よって与党内の派閥のように、「政権内野党」という感じで、日記の中で、藤原道長らを批判的に描いています。
道長が詠んだこととして有名な「和歌」

   この世をば わが世とぞ思ふ 
   もち月の 欠けたることも なしと思へば

は、『小右記』に道長が詠んだとして紹介されているので、「道長が詠んだ歌」として教科書にも出ているのです。
極論をいえば、もし実資の作り話だったら、道長のこの歌はなかった、ということになってしまうわけです。

さて、その実資の娘が千古ちゃんなのですが、実資はものすごく溺愛しました。

恥ずかしげもなく

「ぼくのかぐや姫ちゃん」

と日記に堂々と書いておりますから、ちょっとイタイ父親だったかもしれませんね…

さてさて、そのかぐや姫ちゃんですが… 生まれは1011年頃だと推察されています。道長が摂政となったのが1016年、「もち月の歌」を詠んだのがその翌年ですから、かぐや姫ちゃんが5才か6才のころ。かわいい盛りです。

宮廷では、毒を吐いていた皮肉屋の実資が、家に帰ったら娘の前でデレデレしていたと思うと、ちょっとおかしいですね。

1020年ころ、実資は、おどろくべきことをしています。
彼は「処分状」(財産の分与を指示したもの)を書いたのですが…

    道俗子等一切不可口入

実資の子、資平や、出家していた良円にはいっさい財産をゆずらないっ と、宣言し、すべてを千古のものとしました。

出家者はともかく、子の資平も相続から外されている… ただ、実は資平は養子ですので、まぁ、実の娘に譲る、というのはわからないことでもないのですが…

こうなると、財産は、千古と結婚する“誰か”のものになる、という宣言と同じです。

「うちの娘と結婚すると、うちの財産と地位がもれなくついてくるよ。」

というような解釈も可能です。

これはどう理解してよいことなのか…

まぁ他の藤原氏の例にもれず、実資は、娘を天皇の后としようとしますが、道長・頼通父子によって、退けられてしまいます。

ところが実資は、不思議な行動をこの後、しているんですよね…
千古を、なんと道長の子、長家と結婚させようと画策します。
ところが長家はそれを拒否。

他にも、道長の養子になっていた、源師房(皇族)とも結婚させようとしています。
師房は、道長の評価が高く「頼通に子がなければ後継ぎは師房にしてもよい」と言っていたらしいので、「もしも」の期待をこめて千古と結婚させようとしたのでしょうか…
ところがこの話も流れてしまいました。

するとこりずに、道長の孫、兼頼と結婚させようとして、今度は成功します。
千古は道長の孫と結婚することになります(婿になる)。

天皇の后にしようとした娘を、ライバルの家に嫁がせようとする…
日記を読むかぎり、道長に対して批判していた実資なのに、最後は九条流(道長の系列)に歩みよろうとしたのでしょうか…

千古さんは、1038年、父の実資よりも先に死んでしまいました。27才くらいで亡くなったことになるんですね…

父より先にあの世に行ってしまう…
かぐや姫は、月に帰ってしまった、というわけです。

このあたりのことに興味のある方は、『かぐや姫の結婚』『なぐり合う貴族たち』(繁田信一)をお読みください。
歴史学、ということで専門的な研究に興味のある方は「平安貴族の婚姻と家・生活-右大臣実資娘千古と婿兼頼の場合」(服藤早苗)と言う論文がすぐれています。
第36回は、「こんなナデシコもおったのにゃ~」のパートⅡでした。
そのうちの一人が「静御前」です。

唐突ですが… 神社の正しい(古来の)お参りの仕方をご存知でしょうか(諸説あります)?

鳥居があります。まぁこれが神域への入り口。
よくど真ん中から堂々と入られる方がおられます。でも、鳥居の真ん中は神さまが通られる場所。畏れ多いと憚って、鳥居をくぐるときは真ん中をさけて、ちょっと端から入ります。

さて、お清めの場所があります。水がたたえられていて(自然の河川を利用する場合もあり)、そこで柄杓で手と口などを注ぐ…

でも、昔は体全体を清める場所。
すっぽんぽんになって、体に水をかぶります。

が、しかし! 現在そんなことはできません。
ですのでぇ~ 省略して、手と口を清める、で、全体を清めた、ということにします。

で、ありのままの姿で神の前に向かう、ということで、すっぽんぽんの状態で神前に向かう…

が、しかし! 現在そんなことはできません。
ですのでぇ~ 省略して「ありのまま」=「飾り」をしない、ということで、指輪や腕時計、アクセサリー類を外して、裸になった、ということにします。

さて、神前に立ち、よく「二礼二拍手一礼」というのが正式だ、と、言われていますが、本来は、神さまによって参拝方法は違います。
明治時代になって神道令が出され、全国統一、という形式にしました。(出雲大社などは参拝方法は異なります。)

で、ひもがたれさがっていて、上にお鈴がついている… それをジャラジャラ、と鳴らす、ということがよくみられる光景…

でも、昔はここで、「舞」を奉納するのです。歌って踊る… 手には鈴などの鳴り物を持って…

が、しかし! 現在そんなことはできません。
ですのでぇ~ 省略して、鈴を鳴らして、踊った、ということにします。

鈴を鳴らすのは、歌と踊りの奉納の省略形なんですよね。
ですから、神社によっては、神前、あるいは隣接した建物で「舞」を奉納しているときは、神前の「鈴」を取り払っている場合があります。

あれ? ジャラジャラがないな…

と、思われた場合は、あたりを見回してください。若い女性が鈴を手に持ち舞を奉納しておられるはずです。(京都のえびす神社さんなどは「十日えびす」の時にそうなさっていますね。)

えらい長々と、お話ししてしまいました。

若い女性が、歌と舞を奉納する、というのは神さまの前ではふつーに昔からおこなわれていることなんですよね。

中世以降、「歌と舞をしてさしあげましょう」というのは、まさに「神さま扱い」ということで、“最高のもてなし”になりました。
(ここから転じて、もてなしの場で、歌と踊りを女性がおこなう、というのが広がっていくことになります。)

神さまの御機嫌をとる…
「酒」と「歌」と「踊り」が欠かせません。(商売繁盛で「ささ」持って来い、は、「ささ」つまり「お酒(おささ)」のことなんですよね、ほんとは…)

「白拍子」は、まさに「歌と踊り」を神さまに奉ずる女性なのです。
「神の前」は、やがて転じて「貴人の前」ということになりますが、平安末期あたりですとその中間地点で、貴人たちも、神前での白拍子の舞を「いっしょに」見物していて、いわゆる神さまの「おこぼれ」を頂戴する、ということになります。

「白拍子」をついつい、高級クラブのホステスさん、みたいにたとえたり、結局は娼婦だ、とか説明したりしてしまいがちですが、それは「西洋の文化」にみられるモノを、そのまま日本にスライドさせてしまった説明で、「白拍子」の説明としてはかなり不正確なんですよね。

わかりやすく説明してしまうことによってかえって本質が希薄になる…

神の前に踊りを奉ずる。
そういうイベントを主催できるのは貴族や皇族くらいしかいない。
当然、そういう貴人と話しをする機会を得る。
貴人=文化人と「話し」ができなれればならないので、和歌や有職故実などの教養も必要となる。
舞や歌などについては貴族たちは「目が肥えている」。
舞・歌の芸を磨いていないと呼んでもらえない。
もちろん見た目も美しいのが有利になる。

「いや、素晴らしい舞であった。神さまも喜んでおられよう。」
「ありがとうございます。」
「また来てくれぬか。」
「よろこんで。」
「それはそうと…」と、いろいろな話になる。
そこで、和歌やら笛やらの話になったときに、どれだけ貴族のお相手をできるか、が勝負。
むろん、「うわ~ ええ女やなぁ~」となれば、
「今宵は泊まって参らぬか?」

なんて話にもなる。「あとはあなたの腕次第」というワケです。
お受けする場合もあれば、それこそ歌など一首詠んでさようなら、という場合もある。

日本的ですよね。やんわりぼんやりとした、にじんだ情感のある関係…

静御前は、そういう「白拍子」のナンバー1でした。
いや、何より、京都に雨が降らなかったとき、後白河法皇が、「静」に舞を奉納させたところ、一同、その歌と舞の素晴らしさに息をのんだといいます。
息をのんだのは神さまも同様でした。100日続いた干ばつが、ウソのように雨が降り出した、という話が残っています。

「しずかっ おまえすげ~わっ」

と、後白河法皇はその場で「日本一」と紙に書いて「静」にくだしたといいます。

大河ドラマでは、源義経との出会いは、義経が鞍馬山にいたころから知り合いでした、みたいなことになっていますが、それはちょっとまぁドラマということでフィクションです。

二人の出会いは案外と新しく、平家を壇ノ浦で破った後のこと。
もっと言うと、頼朝とケンカして、京都にもどってきてから、というのが定説になりつつあります。
みなさんが思っているより「短い」期間のおつきあい、ですよね。

義経が吉野へ逃亡するとき、まぁ簡単にいうと女がいるとジャマだから、と、「これをおれだと思って大切にしてくれ」と「鏡」を渡しました。
そのときの、静御前の返しの歌がじつにせつなく美しい…

 見るとても
 うれしくもなし 増鏡
 恋しき人の
 影を止めねば

虚飾無き、ストレートな気持ちを歌ったもの…

さて、義経一行と別れた静ですが、道に迷い、山中をさまよいます。
とつぜん、にぎやかな人の声。
蔵王権現の縁日です。

白拍子としては、神前で舞と歌を奉納し、義経の無事を祈りたい…
しかし目立った行動をしては見つかってしまう…

迷ったあげく、静は歌と舞を奉納しました。

最初は、うすよごれたなりをした女が舞っている、と、思った参詣の人々でしたが、その歌の美しきこと、舞の流麗なる様に、息をのんでしまいます。
静の歌と舞が境内の中心となりました…

あ!! これこそ法皇さまに日本一と称えられた、静御前ではないか!

ある僧侶が、静を見知っていたのです。
だが、この僧侶は同時に静が「指名手配」されていることも知っていました。
舞を終えた静のまわりに、追手の者たちが集まり、そのまま連行されてしまうことになりました…

なんと申しましょうか…
この話が史実であったとしたならば、静はもうこの場で捕まるつもりだったのかもしれません。

あきらめ、とは申しませんが、「見るとてもうれしくもなし」という心情にあった女性ならば、「いっそ捕まえてください」という気持ちになっていたともいえるかもしれません。

捕まった静は、鎌倉へ護送されます。
いくばくかの詮議を受けた後、鶴岡八幡宮の八幡大菩薩の前で、歌と舞を奉納することになりました。
むろん、源頼朝の前です。

最初は、ごくありふれた、白拍子がよく歌う舞でした。

そしてその後…

 吉野山 みねの白雪ふみわけて
 入りにし人の
 あとぞ恋しき

 しづやしづ
 しづの をだまき 繰り返し
 昔を今に
 なすよしもがな

と、謀反人、義経を慕う歌と舞を演じてみせました。
白拍子の舞と歌に虚飾があってはいけません。
ありのままの気持ちを歌うことは、神に対して礼を失することにはならないのです。
どうぞ、罰するなら罰してくださいまし、とでもいうのでしょうか…

 「見るとてもうれしくもなし」
 「あとぞ恋しき」
 「なすよしもがな」

何をしてもらってもうれしくもない。
ただただ、あの人のことが恋しいだけ。
もうどうしようもないけれど…

これだけ繋げても、歌になりますなぁ…
寿永四年三月二十四日は壇ノ浦の戦いが行われた日です…
(というと、1185年4月25日やろっ と、するどいツッコミが入りそうなのですが…)

“平家贔屓”の「こはにわ」といたしましては、この日に壇ノ浦の戦いを語らないわけにはいきませんのでどうかご容赦くださいな。

壇ノ浦の戦いには、いくつかの“未解決”問題があります。細かいところですが、ちょっとそれを紹介いたします。
ただし、まことに無責任ですが、投げかけるだけで、どっちがどうやねん、という話は敢て今回はいたしません。
ありのままに、へぇ~ そうなんか、と、お楽しみくださいな。

第一の未解決問題。「いったい何時に始まった?」

え… そんなのわかっていないの? と、なりそうなところです。
案外と、時間、というのがわからない時代なんですよね… 以前に江戸時代に「時間帯」のお話しをさせてもらったので詳細は申しませんが、なんせ時計が無い時代…
いや、時計はありましたが、産業構造が基本的に農業ですから、細かな一日単位の「時間割」を必要としない時代です。当然、携帯できる腕時計が無いわけですから、壇ノ浦の戦いに限らず、江戸時代末まで、物事、事件が「何時に始まったか」というのは、歴史家泣かせの問題なのです。

いやいや、ちゃんと史料に書いてあるよ、と、おっしゃる方もおられますが、その史料で大きく二つに分かれているんですよね…

にゃんたのマル秘ファイルでおなじみの『吾妻鏡』では、戦いは午前中に始まって、「午の刻」に終了した、と、実にざっくりしたことが書かれています。
ところが、九条兼実の日記『玉葉』によると、

「午の刻に始まり、申の刻に終わりました。」

と、記されています。
この時代の史料としては『玉葉』と『吾妻鏡』の二つが有力なものなのですが、『玉葉』が朝廷の立場から見た歴史、『吾妻鏡』は幕府の立場から見た歴史、ということになるので、まぁ一般に中世史家のみなさんは、この内容二つを突き合わせて擦り合わせていろいろ判断するところです。

ところが、壇ノ浦の戦いの開始時間に関しては、一方の記述の終了時刻がもう一方の開始時刻になるのですから、もう、ぜんぜん違う、としか言いようがありません。

第二の未解決問題。「水手・梶取り(非戦闘員)を射たのか?」

これはよく言われる話です。
最初、平家が優勢であったが、源義経が「卑怯にも」非戦闘員であった船の水手・梶取りを射殺すように命じて、そのために平家の側が操船不能に陥った、という話です。
実は、この話も「未解決問題」なんですよね…
まず、ものすごいことを言うと、それを示す史料はありません。
『平家物語』では、御座所船(安徳天皇が乗っていた船)に源氏の兵士たちが乗り移ってきたときに、漕ぎ手やその場にいた者どもを切り殺し、射殺した、という描写があるだけです。
これに関しては、この話がそのまま拡大解釈されて義経が「そのように命じた」ということになっている可能性があります。

第三の未解決問題。「源氏と平氏、どれくらいの数の船で戦ったのか?」

これもわりと基本的な部分で難しい問題です。
戦国時代でも、兵力数については諸説あり、検証が難しいところ…
平安末期から鎌倉時代にかけての話となると、もはや確定する史料がありません… というと、いやいや、船の数ならちゃんと記録があるぞ、と、言われるところなのですが…

       ( 平氏軍 ) ( 源氏軍 )
『平家物語』  1000艘   3000艘
『吾妻鏡』    500艘    800艘

かなりの差異です。
『玉葉』『吾妻鏡』『平家物語』という三つの史料の記録がかなりバラバラなんですよね…
どうしても、思考というか想像というか、そういうところからしか語られない部分になってしまいます。

第四の未解決問題。「潮の流れが変わったのか?」

これは壇ノ浦の戦いでは、ある意味重要な話ですよね。最初は平氏が勝っていたが、潮の流れが変わったために形勢が逆転した…

 門司関、壇ノ浦はたぎり落つる汐なれば、平家の船は汐に逢って出て来たる。

『平家物語』は戦いの序盤、潮に乗って平氏軍が現れた、という記述はありますが、潮の流れの変化については実は述べていないんですよね… いったい誰が言い出した話なのか…
実は、12~16時の間に潮の流れは変わるようなのですが、もし『吾妻鏡』の記述に従うと戦いそのものが12時に終わっていますから、潮流に変化はなくなってしまいます。
「何時に戦いが始まり終わったか」という問題と密接な関係が出てきてしまう問題です。

それに… みんな船にのっているわけですから、潮の流れが変わってもその上に乗る船たちの相対速度や相対距離はそれほど変わるとも思えません。
この潮の流れの変化が戦いをどのように左右したか、は、今となっては検証できない問題になってしまっています。

第五の未解決問題。「阿波重能の裏切りはあったのか?」

『平家物語』では、阿波重能率いる300艘の船が、平氏をみかぎり義経側に寝返った、ということが出てきます。
戦いの途中で裏切る、というのは、江戸時代に儒教の武家道徳が広がってからは「卑怯な」話ですが、中世の主従関係は、わりと冷淡な「双務的契約」関係なので、自分を保護しきれない主は、主が悪い、とされている価値観の時代です。壇ノ浦の戦いに限らず、「寝返り」ということはよく出てくるところ…
むしろそれで賞されるケースも多く、ここでもたくさんの裏切りがあったと思われます。
ところが、『吾妻鏡』によると、阿波重能は、敗戦兵として捕えられた、つまり「捕虜」になったことが記されています。
平知盛が、御座所船そのものを囮にして源氏軍を集め、反包囲して討つ、という作戦を立てていたのですが、阿波重能の裏切りによりその作戦が義経の知るところになった、ということで、この「裏切り」があったか無かったか、は壇ノ浦の戦いの勝敗を決する重要な出来事なので、この問題が未解決というのは、なんともスッキリとしないところです…

最後の未解決問題は… 「平教経は、いつ死んだのか?」

平教経といえば、平氏軍の中では超優秀な部将で、その鬼神の如き戦いぶりは敵からも称賛されています。
おいつめられてもはや戦いは決した、というところでもあきらめずに奮戦します。
平知盛に、「もはや戦いは決した。これ以上罪つくりなことをしては後生にさわるぞ。」と声をかけられるほどです。
何よりも、源義経そのものにターゲットをしぼり、これを討つ、という計画を立て、一時は義経を捕える寸前まで追い詰めますが、有名な「八艘跳び」で義経が逃げた、というエピソードも作っているわけですが…

なんと『吾妻鏡』によると、一ノ谷の戦いの戦死者名簿に「平教経」の名前があるんですよね… すでに一ノ谷の戦いで戦死している可能性があるんです。
討ち取った人物も明確になっていて、安田義定によって殺され、京都で獄門になったという記録があります。
『玉葉』や『醍醐雑事記』では、一ノ谷では戦死していないように書かれていますし…

有名な壇ノ浦の戦いですが、未解決な問題はたくさん残っていて、研究者はけっして放置しているわけではないのですが、どうにも結論が出ない…

謎は謎、不思議は不思議でよいのですけれどね。

壇ノ浦の戦い… 三月二十四日に、ふと思い立って、そこはかとなく書き綴ってみました。