三月二十四日 壇ノ浦記念日に寄す… | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

寿永四年三月二十四日は壇ノ浦の戦いが行われた日です…
(というと、1185年4月25日やろっ と、するどいツッコミが入りそうなのですが…)

“平家贔屓”の「こはにわ」といたしましては、この日に壇ノ浦の戦いを語らないわけにはいきませんのでどうかご容赦くださいな。

壇ノ浦の戦いには、いくつかの“未解決”問題があります。細かいところですが、ちょっとそれを紹介いたします。
ただし、まことに無責任ですが、投げかけるだけで、どっちがどうやねん、という話は敢て今回はいたしません。
ありのままに、へぇ~ そうなんか、と、お楽しみくださいな。

第一の未解決問題。「いったい何時に始まった?」

え… そんなのわかっていないの? と、なりそうなところです。
案外と、時間、というのがわからない時代なんですよね… 以前に江戸時代に「時間帯」のお話しをさせてもらったので詳細は申しませんが、なんせ時計が無い時代…
いや、時計はありましたが、産業構造が基本的に農業ですから、細かな一日単位の「時間割」を必要としない時代です。当然、携帯できる腕時計が無いわけですから、壇ノ浦の戦いに限らず、江戸時代末まで、物事、事件が「何時に始まったか」というのは、歴史家泣かせの問題なのです。

いやいや、ちゃんと史料に書いてあるよ、と、おっしゃる方もおられますが、その史料で大きく二つに分かれているんですよね…

にゃんたのマル秘ファイルでおなじみの『吾妻鏡』では、戦いは午前中に始まって、「午の刻」に終了した、と、実にざっくりしたことが書かれています。
ところが、九条兼実の日記『玉葉』によると、

「午の刻に始まり、申の刻に終わりました。」

と、記されています。
この時代の史料としては『玉葉』と『吾妻鏡』の二つが有力なものなのですが、『玉葉』が朝廷の立場から見た歴史、『吾妻鏡』は幕府の立場から見た歴史、ということになるので、まぁ一般に中世史家のみなさんは、この内容二つを突き合わせて擦り合わせていろいろ判断するところです。

ところが、壇ノ浦の戦いの開始時間に関しては、一方の記述の終了時刻がもう一方の開始時刻になるのですから、もう、ぜんぜん違う、としか言いようがありません。

第二の未解決問題。「水手・梶取り(非戦闘員)を射たのか?」

これはよく言われる話です。
最初、平家が優勢であったが、源義経が「卑怯にも」非戦闘員であった船の水手・梶取りを射殺すように命じて、そのために平家の側が操船不能に陥った、という話です。
実は、この話も「未解決問題」なんですよね…
まず、ものすごいことを言うと、それを示す史料はありません。
『平家物語』では、御座所船(安徳天皇が乗っていた船)に源氏の兵士たちが乗り移ってきたときに、漕ぎ手やその場にいた者どもを切り殺し、射殺した、という描写があるだけです。
これに関しては、この話がそのまま拡大解釈されて義経が「そのように命じた」ということになっている可能性があります。

第三の未解決問題。「源氏と平氏、どれくらいの数の船で戦ったのか?」

これもわりと基本的な部分で難しい問題です。
戦国時代でも、兵力数については諸説あり、検証が難しいところ…
平安末期から鎌倉時代にかけての話となると、もはや確定する史料がありません… というと、いやいや、船の数ならちゃんと記録があるぞ、と、言われるところなのですが…

       ( 平氏軍 ) ( 源氏軍 )
『平家物語』  1000艘   3000艘
『吾妻鏡』    500艘    800艘

かなりの差異です。
『玉葉』『吾妻鏡』『平家物語』という三つの史料の記録がかなりバラバラなんですよね…
どうしても、思考というか想像というか、そういうところからしか語られない部分になってしまいます。

第四の未解決問題。「潮の流れが変わったのか?」

これは壇ノ浦の戦いでは、ある意味重要な話ですよね。最初は平氏が勝っていたが、潮の流れが変わったために形勢が逆転した…

 門司関、壇ノ浦はたぎり落つる汐なれば、平家の船は汐に逢って出て来たる。

『平家物語』は戦いの序盤、潮に乗って平氏軍が現れた、という記述はありますが、潮の流れの変化については実は述べていないんですよね… いったい誰が言い出した話なのか…
実は、12~16時の間に潮の流れは変わるようなのですが、もし『吾妻鏡』の記述に従うと戦いそのものが12時に終わっていますから、潮流に変化はなくなってしまいます。
「何時に戦いが始まり終わったか」という問題と密接な関係が出てきてしまう問題です。

それに… みんな船にのっているわけですから、潮の流れが変わってもその上に乗る船たちの相対速度や相対距離はそれほど変わるとも思えません。
この潮の流れの変化が戦いをどのように左右したか、は、今となっては検証できない問題になってしまっています。

第五の未解決問題。「阿波重能の裏切りはあったのか?」

『平家物語』では、阿波重能率いる300艘の船が、平氏をみかぎり義経側に寝返った、ということが出てきます。
戦いの途中で裏切る、というのは、江戸時代に儒教の武家道徳が広がってからは「卑怯な」話ですが、中世の主従関係は、わりと冷淡な「双務的契約」関係なので、自分を保護しきれない主は、主が悪い、とされている価値観の時代です。壇ノ浦の戦いに限らず、「寝返り」ということはよく出てくるところ…
むしろそれで賞されるケースも多く、ここでもたくさんの裏切りがあったと思われます。
ところが、『吾妻鏡』によると、阿波重能は、敗戦兵として捕えられた、つまり「捕虜」になったことが記されています。
平知盛が、御座所船そのものを囮にして源氏軍を集め、反包囲して討つ、という作戦を立てていたのですが、阿波重能の裏切りによりその作戦が義経の知るところになった、ということで、この「裏切り」があったか無かったか、は壇ノ浦の戦いの勝敗を決する重要な出来事なので、この問題が未解決というのは、なんともスッキリとしないところです…

最後の未解決問題は… 「平教経は、いつ死んだのか?」

平教経といえば、平氏軍の中では超優秀な部将で、その鬼神の如き戦いぶりは敵からも称賛されています。
おいつめられてもはや戦いは決した、というところでもあきらめずに奮戦します。
平知盛に、「もはや戦いは決した。これ以上罪つくりなことをしては後生にさわるぞ。」と声をかけられるほどです。
何よりも、源義経そのものにターゲットをしぼり、これを討つ、という計画を立て、一時は義経を捕える寸前まで追い詰めますが、有名な「八艘跳び」で義経が逃げた、というエピソードも作っているわけですが…

なんと『吾妻鏡』によると、一ノ谷の戦いの戦死者名簿に「平教経」の名前があるんですよね… すでに一ノ谷の戦いで戦死している可能性があるんです。
討ち取った人物も明確になっていて、安田義定によって殺され、京都で獄門になったという記録があります。
『玉葉』や『醍醐雑事記』では、一ノ谷では戦死していないように書かれていますし…

有名な壇ノ浦の戦いですが、未解決な問題はたくさん残っていて、研究者はけっして放置しているわけではないのですが、どうにも結論が出ない…

謎は謎、不思議は不思議でよいのですけれどね。

壇ノ浦の戦い… 三月二十四日に、ふと思い立って、そこはかとなく書き綴ってみました。