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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

沖縄国際映画祭が行われています。

それを記念して… 
沖縄の歴史、特別編「マル秘ファイル」を紹介いたしましょう~

第一のファイルはこちらです。

★ 琉球王国の人たちは、《にゃ~にゃ~》を《にゃ~にゃ~》いた。

さてさて、沖縄は、19世紀に沖縄県として日本に編入される以前は、「琉球王国」でした。

さて、おもしろいのはこの琉球王国の“外交”姿勢です。

沖縄県最南端の与那国島からは、「台湾」がよく見えます。
ところが、琉球王国は、違う文化の国を支配したり征服したりすることによって争いが起こることを避けたい、と、考えていました。
ようするに「異文化接触」によるトラブル回避のために、人々が台湾に渡ることがないようにするためにある禁令を発しました。
それは「台湾に渡ってはならない」というような命令ではありません。もっともっと全否定的な命令です。それは…

「台湾が見える」と口にすることを禁止する、というものでした。

   台湾の見えるということは禁制なり  ~『大島筆記』~

 琉球王国の人たちは、「台湾」を「見なかったことにして」いた。

第二のファイルはもっと“不思議”な話です。

★ 《にゃ~にゃ~》かもしれない人々が《にゃ~にゃ~》島があった。

これは、もう、どう言っていいかわからない怪奇なお話です。でも、実は一部の愛好家の方々には有名な話。
しかも、「マル秘ファイル」は琉球王国の正史に記述されていることで、けっこうマジなことなのですよ。

 久高島。
 代々異種の人が生まれている。
 太古より知念間切の久高島には異種の民がいた。
 生来性格は素直で通常の人々よりも賢く勤勉。
 人々の生活はたいへん裕福でその種族は七、八名いるようだ。
 彼らはみな、膝からくるぶしまでがたいへん細く、カカトがない。
 足の甲は短くその指は長く、そしてその形は手のひらのよう。
 それで立っている。
 …彼らは神のように敬われている。 ~『球陽』第十四巻 尚敬王の三十年~

これ… どう考えても宇宙人?? というようなお話しです。
久高島は、「神の島」として有名で、「琉球神話」では

 創造の神アマミキヨが天上より降臨して最初に造った七つの島の一つ

とされています。
「神が降りた」島…

 「宇宙人」かもしれない人々が「住んでいた」島があった。

信じるも信じないも、あなた次第… ぎゃ~~ という話です。

第三のファイルはこちらです。

★ 全力で《にゃ~にゃ~》のに、1時間差で《にゃ~にゃ~》。

え… 何それ…
という方がほとんどだと思いますが、年配の沖縄の方なら、「1時間差で」という部分で、あ! 知っている知っている、と、なる方もおられます。

「マル秘ファイル」は、戦前の国語の教科書です。

日露戦争時、バルティック艦隊が日本にせまっていました。
軍事衛星どころかレーダーすら無い時代。
いったいどこに現れるのか、まったくわからない状態が続いていました。
そのとき、宮古島の漁師の青年が操業中にバルティック艦隊を発見したのです。(おそらくまちがいなく第一発見者です。)
大急ぎで宮古島にもどって役場に伝えました。
しかし、電信施設は当時、石垣島の郵便局にしかなく、村の長老たちが集まり、村の中でも勇敢で屈強な5人を選んで、なんと180㎞離れた八重山郵便局に知らせることにしたのです。
彼らは国の一大事の報せを背負い、船を漕ぐこと5時間、全力で走ること30時間、バルティック艦隊到来を八重山郵便局から発信して知らせたのです!

しかし… 「ああ、それ、1時間前に信濃丸が発見して知らせてくれたよ。ありがと。」となってしまいました…
しかし、国の危機を思う彼らの気持ち、宮古島の人々の勇気をたたえて国語の教科書に取り上げられることになったのです。

 全力で「150㎞船を漕ぎ、全力で30㎞走って知らせた」のに
 1時間差で「一番乗りできなかった人びとがいた」。
                  ~『遅かりし1時間』 中等国文教科書より~

さて、勇敢で屈強、何事にも最善を尽くす宮古島の人々のさらなる勇気を伝えるファイルがこちらです!

★ 《にゃ~にゃ~》たドイツの船を《にゃ~にゃ~》。

この話は、こはにわは、もっと大々的にみなさんにお伝えすべきだ、と、思っていることなんです。知らない人が多すぎる…
「元気が出るすばらしい人びと」の歴史、ということを機会があればコヤブ歴史堂でもお伝えしていきたいなぁ、と、いつも思っています。

19世紀、日本は明治維新を開始し、新しい国家造りを急いでいました。
幕末以来、多くの外国の商船、軍艦などが日本に来航しています。
ペリーも再来するときには琉球に立ち寄ったりしているんですよ。

さてさて、ドイツの商船、ロベルトソン号が嵐の中、琉球沖を航行中、操船不能の状態に陥りました。
なんとか立て直そうとしますが失敗、ロベルトソン号は宮古島沖まで流され、サンゴ礁にのりあげてしまいました。
事態を知った、近辺航行中のイギリスの軍艦カーリュー号が救出しようとしたが失敗してしまいます。
いったい宮古島の人がどのようにしてこの遭難事件を知ったのかは不明ですが、宮古島の海の男たちは、遭難して困っている人を見つければ、自らの命の危険をもかえりみずに助けに行きます。それが宮古島の海の男たちの心意気。
サンゴ礁にむけて小舟を繰り出し、救助にむかいますが、今で言うなら超大型台風が直撃していたようで、さしもの宮古島の海の男たちも経験したことがない大荒れ…
いったん引き返します。
何事にも最善を尽くす宮古島の人々。こんなことではめげません。
なんと村人たちが総出で沿岸にかがり火を焚き、

「かならず助けに行くぞ!」

と、みんなで沿岸から声援を送り続けます。

翌朝、再度のチャレンジ! 精鋭の操船技術の達人たちをよりすぐり、たった2艘でサンゴ礁に乗り上げているロベルトソン号に近づき、手早く船員たちを救助。そうしてすぐさまサンゴ礁を離れたその瞬間、大波がロベルトソン号を襲い、たちまち大破して水没してしまいます。
まさに危機一髪! (これ、映画にできますよ、マジで。)

救出された船長は帰国後、『ロベルトソン号宮古島漂着記』を著したところ、当時のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が感激。1876年、軍艦チクローブ号を派遣して表敬訪問させました。

現在でも、ドイツのシュレーダー首相(当時)が宮古島を訪問し、その勇気と博愛の精神が称えられています。
明治政府がドイツと友好を深め、後年、日本がドイツの政治制度、軍事制度を学びに行ったときに、他の国には見せない施設や、教えない機密なども提供してくれた背景には、このような「できごと」があったんですよね。

 「イギリスの軍艦が救助できなかった」ドイツの船を、
 「宮古島の人々が全力で救助した」。
                   ~『ロベルトソン号宮古島漂着記』より~
来週というか今週で、NHKの人気の朝ドラが最終週となります。
NHKの朝ドラは、前回の「あまちゃん」がたいへんな人気だったようですが、こはにわはなんと、見ておりませんでした。
ていうか、その時間はもう学校に出かけていて、見る機会がなかったのです。
しかし、「ごちそうさん」は、“ちょっした理由”から、知人に録画をしてもらい、よく見ております。

あの番組の中で、戦前・戦中のいろいろな大阪の様子が描かれているのですが、父や伯父などが話してくれた戦前・戦中のいろいろな話と重なることがたくさんあり、ああ、こういう話、聞いたことある、と、思っています。

戦争の歴史、というと、ついつい外交史や政治史として説明されがちですが、やはり、当時の人びとの生活などの様子に関する社会史、生活史、ということも大切です。
どちらかに偏っていてはだめで、両方から色々な事実をすりあわせていく、というのが重要なところ…
戦争の体験談を語れる人がだんだんと少なくなっていくのは、ある意味「史料」の消失と同じ…
体験談なども記録にとどめていく、語り継いでいく、ということも大切だと思います。

戦中の話で、あ、これ、おじさんが言うていた、というのが、大阪空襲の話。

「地下鉄で空襲から避難できた」

という話もそうです。

おじさんは、本町で商売をしていたこともあり、「そのとき」、まさに空襲を体験しました。
父は、「そのとき」、和歌山の兵器工場で仕事をした後、帰ろうとしていました。

お盆になって、親戚の人たちが集まると、ついつい戦時中の話になります。
子どもながら、何度も聞いた話なのですが、ついつい耳を傾けておりました。

「空襲」の話になったとき、わたしが

「大阪に地下鉄あったやんね。みんな地下鉄に逃げたの?」

というと、父は、

「地下鉄は閉じていて、中には入られへんかってん。地下鉄に逃げたくても入られなかったんや。」

と言います。ところが、おじさんは

「いや、地下鉄に逃げていた人、おったよ。たしか心斎橋の駅の切符売り場に隠れてた人がおったはずや。」

と言います。
それでも父は、「いやいや、地下鉄には入られなかったはずや」と…
軽く「口論」というか「言い合い」になっていたことをおぼえています。

まず、政治史的に説明しますと、大阪の地下鉄には避難できませんでした。

『時局防空必携』

というのが配布されていて(1943年)、

「地下鉄道内への避難の禁止」
 
というのが明確に記されており、当時、大阪の地下鉄の入り口は、かなり頑丈な鉄格子で閉じられておりました。

・地下鉄道は非常時においては重要な役割を果たす。
・非常時に地下鉄道を避難所にしていると重要な物資、人員の搬送に支障が出る。
・1t級の爆弾に地下鉄道の坑道は耐えられない。

というのがその「理由」でした。

「非常時に避難する人たちの命」よりも重要な物資と人員って何やねんっ と、ツッコミを入れたくなるところです。

ところが、民衆の側の「記憶」では、そうではありません。
地下鉄の職員の“機転”というか“配慮”というか、地下鉄の“扉”は開かれて、多くの人が地下鉄内に避難していました。
それどころか、地下鉄が運行して、心斎橋から被害の少ない梅田へ多くの人たちを逃がした、という証言も残っています。

史料によると、避難できないはずだから、避難はなかった、という説明は誤りです。
誤った史料読解、ということになります。

「1t級の爆弾」の心配は実際には不要でした。
米軍は、日本に木造建築が多いことから、ドイツへの空襲とは違い、破壊を目的とした大型爆弾よりも、「焼き払う」ためを目的とした

焼夷弾

を使用していました。このことも、空襲によって地下鉄が破壊されなかった最大の理由ではありますが、地上の民家は悲惨な被害を受けておりました。

大阪城を残して、すべてが焼野原、と、なったそうです。

大阪城は、「大阪であることを示す目印」として、米軍によってわざと残された建造物でした。
「父の記憶」では南から来たB29爆撃機は、西の生駒山の上を北上し、ぐるっと北で左旋回して南下し、焼夷弾をばらまいた、そうです。

「爆弾が投下される音、テレビや映画では、なんかヒュ~~ ドカンっ みたいな効果音やけど、あんなんちゃうで。」

 ザァ~っ

という夕立みたいな音だった、と言うておりました。

天井裏の板を外し、畳をあげておく。
焼夷弾が天井裏にひっかからないようにし、畳につきささらないようにしておく、というような話も聞きました。

さて、戦後の話ですが…

わたしの父は、「野球少年」だったそうで、高校も大学も野球部でした。
甲子園でおこなわれる「高校野球」も大好きで、毎回毎回、甲子園球場に出かけておりました。
ですから、野球に関係する戦前戦後の話はよく聞かせてくれました。

案外と、野球の“復活”は早かったのです。
びっくりするかもしれませんが、1945年10月に神宮球場で「早慶戦」が開催されています。終戦からわずか2ヶ月後です。
プロ野球も11月には始められました。早慶戦には5万人が観戦に来た、といいますから、
食料難のあの時代、まさに「三度の飯よりも野球が好き」な人がたくさんいたわけです。

ところが…
神宮球場の野球としての使用は始まったのに、甲子園の使用はGHQ(占領軍総司令部)は許可しませんでした。
甲子園球場は、戦時中、スタンドの下というか裏が軍需工場として利用されていたこともあり、米軍が「占領」して、兵士の駐留所となっていたのです。

“中等野球”(現在の高校野球)が開始されるのは1946年の夏の大会からなのですが、甲子園ではなく、阪急西宮球場でした。

ここから阪神電鉄と選抜大会を主催していた毎日新聞、そして野球ファンたちの「戦い」が始まりました。

なんとか甲子園球場を復活させたい!

占領軍の司令部の一つが神戸にありました。父の話では“神戸ベース”と呼ばれていたそうです。
この神戸ベースへ、阪神電鉄、毎日新聞、多くの野球支援者たちが連日掛け合い、とうとう米軍に接収されていた甲子園が“解放”され、1947年1月からの使用が認められることになったのです。

毎日新聞は大々的に「選抜大会復活」を報じ、多くの野球関係者も大はしゃぎしたそうです。
野球が大好きだった父も、めちゃくちゃ喜んだらしいのです。ところが…

「GHQが、直前になってアカンて言い出しやがってん。」

いやいや、神戸ベースの許可とったんでしょ、と、なったのですが…
色々な手違いというか勘違いというか、実際の事情は複雑だったようなのですが、球場としての使用再開と野球大会の開催は別問題、ということだったらしいのですが、父に言わせれば、

「神戸ベースだけが勝手に決めたから東京がヘソ曲げよったんや。メンツつぶされたというか、なんでこっちに話無いねん、みたいなしょーもない理由やっ」

と、ずいぶん怒って説明してくれました。

また、同じ「掛け合い」を今度は東京でおこない、関係者は土下座する勢いで「嘆願」し、

「しゃ~ないなあ~ 今回だけ認めてやろ」

みたいな感じになったそうです。当時の阪神電鉄の担当責任者は「敗戦国がこんなにみじめなものかと痛感した」と述懐されておられました。

このあたりの“経緯”も、「ごちそうさん」では描かれているようです。

実は、これと並行し、もう一つのスポーツの開始も進んでいました。

アメリカンフットボール

です。
米軍が接収していたとき、甲子園でなんと米兵がアメフト大会を開催していたんですよね。
ここがおもしろいところなんですが、GHQの神戸ベースは、日本にもアメフトを普及させようと企画し、関西の各大学関係者に招待状を送り、アメフトの試合を観戦させたのです。

選抜野球大会が終わってわずか一週間後に、

アメリカンフットボール学生王座決定戦

も、開始されているんですよね。“甲子園ボウル”の始まりです。

ところがこのとき、大珍事が発生します。

実は、甲子園では、夕方からボクシングの試合が開催される予定で、それよりも早くにアメフトの試合が終わる予定でした。
外野部分でアメフトの試合、内野ではボクシングの試合…
なんとも変な光景なのですが、なんとアメフトの試合がなかなか終わらず、アメフトは続いているのに、同時にボクシングも始まる、というおもしろいことになったそうです。

以下は蛇足ですが…
最初に“ちょっとした理由”で「ごちそうさん」は録画している、という話をしました。

実は、「ごちそうさん」に出演している女優、

 西門希子役の高畑充希さん

なのですが… 実は、こはにわが教えている私立中学の卒業生なんです。お勉強もたいへんよくできました。

彼女が中2・中3のときの担任がなんとわたし…
(しかも、彼女、歌、うまいでしょ。というか歌手ですが。軽音楽部でボーカルも担当していたんですよ。)

ほんとに立派な女優になってしまいました。
学年主任ともども、みんなで彼女の活躍を陰ながら(一視聴者として)応援しております。
みなさんも是非、高畑充希を応援してやってください。

大阪の堺筋本町に「ぜー六」という昔ながらのアイスモナカを売っている店があります。
ここのアイスクリームが、なんというか昔ながらの懐かしい“アイスクリン”の味でしてね。

「先生っ わたし“ぜー六”のアイスモナカ大好きやねんっ」

と、彼女が言うていたのをよくおぼえております。

「おまえ、通(つう)なこと言うなぁ~」

ぜー六のアイスモナカは昔からあり、本町で商売をしていたおじがよく買ってきてくれたアイスで、わたしも大好きでした。

高畑充希さんは、「ごちそうさん」の出演者にふさわしい、大阪の食いしん坊な女優さんですよ。
みなさんも一度、大阪の昔のアイスの味、ぜー六のアイスモナカ、食べてみてくざたい。

これを食べると父やおじさんの昔話を思い出します。
昭和の味… こはにわにとっては父やおじさんの終戦直後の記憶を呼び覚ます“なつかしい味”です。
こはにわが子どものころ、父の兄、つまり、おじがいっしょに暮していました。
このおじがかなりのインテリで、本町で商売をしておりましたが、中学生のときまで家庭教師のようにお勉強をみてもらっておりました。
お勉強の面に関しては、この人の影響をかなり強く受けています。

漢文の教養もあり、英語も堪能、若いときに家庭教師とかもしておられたので、まぁ昔のことですから、お世話になったという人が年始に来られたり、歳暮中元をわざわざ家まで届けに来ておられたり、という光景を記憶しています。

驚くべきことに、『平家物語』や『太平記』を暗誦(特定の一部なのか全文なのか今となってはわからないですが)しておられ、よく一節を口ずさんで解説してくださっていました。
(むろんその他の古文なども、有名な箇所は確実に暗誦しておられたようです。大正時代に高等教育を受けた人って、わりと強烈にいろいろなこと、暗記しておられますよね。)

「おかけで」古文などはたいてい、「ああ、それ、知っているわ」「聞いたことある」「意味わかる」とずいぶんと楽ができました。

とくに『平家物語』がお好きだったようで、わたしが小学生の低学年のときに原文でよく聞かせてくださいました。(むろん当時はチンプンカンプン。何の意味かわからないし、不正確に聞き取っていたところもあったり…)

いや、『平家物語』だけではありません。平氏に関するいろいろな“悲劇”の話はよく聞かされました。

ゲンジがだめ、とか、一言もおっしゃらないのですが、ど~も遠回しに、ゲンジの田舎もん的なエピソードや、ずるいところなどをさらりと話すもんだから、サブミナルコントロールされてしまい、こはにわはすっかり、気が付けば平家贔屓になっていたような感じです。

「青葉の笛」

という歌があります。物悲しい曲調で、

い~ちぃ~のぉ たぁ~にの
い~くぅ~さ、やぁぶぅれ~

これを歌ってくださったんですよね。
なんせ、こはにわは子どもでしたから、これが「一の谷の戦破れ」ということが判明する
のにずいぶんと時間がかかりました。

子どもなのに勇敢に戦った、子どもを源氏は殺してしまった…
熊谷次郎直実と平敦盛の話もよく聞きました。

「ムカンノタイユウ」

という言葉が妙に印象的で、ムカンノタイユウって何のことだ?? と長く思っていましたが、これ、敦盛のことだったんですよね。
17才なのに従五位下の位階を所持しながら官職にはついてなかったのでこう呼ばれいた、つまり「無官の大夫」というわけです。

「カジワラノゲンタガニドガケニ…」
「エビラニウメヲエダカザシシハ…」

これも記憶に残っています。
「エビラ」は「箙」、つまり背中に背負っている矢を入れておくものですね。

「箙に梅を枝かざししは…」

箙に梅の枝をかざす…

「カジワラゲンタ」は「梶原源太」、つまり梶原景季のこと。「ニドガケ」も「二度駆け」のエピソードのことだったんですね。

「一の谷の戦い」は、すでに後白河法皇の仲介で「停戦」することになっていたのに源氏がそれを無視して攻めてきたのだ、という話も聞かされました。
これは史実で記録も残っています。

平宗盛が、後白河法皇宛てに

「あなたさまが、和平が成立したから戦いをやめよ、とおっしゃったから戦闘態勢を解いていたのに源氏が攻めてきたんですよ。これはいったいどういうことです?」

という抗議の手紙を書いています。
(このあたりの源平の戦い(治承・寿永の乱)は、拙著『超軽っ日本史』のP164~174に詳しく書いておりますので、是非、読んでみてください。)

なんとなく、平家かわいそう… 源氏わるいなぁ… 的な感じも刷り込まれてしまったようなところがあります。

屋島の戦いでは「扇の的」の話。これなど、さんざん聞かされましたから、こはにわもすっかり暗誦できます。
強引に那須与一を射手に任ずる義経、せっかく雅な行事だったのに、舞を見せる老人を射殺せと命じた義経、などなど説明してくださいました。
もう、完全に子ども心に、義経ひどい、が刷り込まれました。

壇ノ浦の戦いのくだりでもそうです。
義経についても、コロコロと鎧を替える、非戦闘員の漕ぎ手を弓で射た、出っ歯だからみつけやすい、などなど、そんな話も聞きました。
有名な「八艘飛び」のエピソードも、おじさんに言わせれば「負けて逃げただけ」「敵前逃亡の話にすぎない」ですからね。

おじさんは、平家贔屓、というより、どうも平清盛の子、重盛が好きだったようです。

ただ、昔の人ですから、「清盛の横暴を抑止していた重盛」という立場です。

「重盛が生きていたら平家の天下は続いていた。」

みたいな話もよくされていました。
『平家物語』は清盛の横暴を強調するため、重盛が良識派のように描かれていますが、たしかに重盛は後白河法皇や貴族との関係も良好で、貴族の中でも人気があったようです。
仏教の信仰も深く、寺院への保護・援助もしています(記録では3000両ほどの金をつぎこんでいます)から、僧からの評判もよい。
当時の記録は貴族や僧が残していますから、重盛は悪く書かれていません。

ただ、重盛は早くに死に、宗盛に実権がうつってしまいます。こうなると重盛の一族(小松系)は平家の中での立場が、ちょっと複雑になってしまいました。
出家してしまう者、戦いから離脱する者、将来を悲観して自殺する者なども出てきます。
後白河法皇との戦いは避けたい、というところだったのでしょう。重盛の子、資盛もなんとか後白法皇と「和解」しようと努力しますが、面会を謝絶されています。

資盛と右京大夫の悲恋の話もよく聞かされました。

二人の仲を引き裂いたのは源氏… みたいな「感じ」も「平家の都落ち」の話のときに織り込まれていましたからね…

大阪の東住吉区、JR阪和線南田辺駅の近くに

「法楽寺」

という寺院があります。ここの“お不動さん”は田辺不動として有名で、子どものころからおじさんによく連れられてお参りに行っておりました。むろん今でもこはにわはよくお参りしております。

で… 不覚にも最近気が付いたのですが…

このお寺、山号が紫金山、院号が小松院… え… まさか…

『平家物語』の三巻。「金渡」にこんな話があります。

平重盛は仏教を篤く信仰していた。
宋の高僧、仏照の徳を慕い、黄金を献上した。
仏照は感動して、「紫金」の仏舎利を贈った。

そして院号の「小松」は、平重盛“小松内府”からとられているんですよ。

法楽寺の創建は治承二年(1178年)、開基がなんと平重盛…

おじさんの「平家教育」の徹底ぶりには舌を巻いてしまいました。

法楽寺さんは、源平の戦いで亡くなった兵士たち、どちらもへだてなく弔った、ということです。
平氏と源氏の対立の中で、朝廷との和平を交渉しようとしていた平重盛“小松系”の人びとの「和」の意思がよくあらわれているといえます。
第35回は「足利義満」でした。

足利義満、と、いいますと、連想ゲーム的に言うと「金閣」が有名です。

京都観光都市伝説、というのはけっこうありまして…

京都人は「大文字焼き」とは言わない、というのがあります。
たしかにあんまり言いませんね… 大阪の人は「大文字焼き」と言う方多いんですが…
あ、いや、京都の方でも言いますよ。
でも、正しくは

「五山の送り火」

です。

京都人は「金閣寺」とは言わない、というのがあります。
これはどうでしょう…
京都に観光に行かれた方はわかりますが、道路の標識などに堂々と「金閣寺」と書いてます。
たしかに金閣寺、というお寺はありません。鹿苑寺、というのが正しいわけです。
同様に銀閣も慈照寺、でして、

鹿苑寺舎利殿 “金閣”
慈照寺観音堂 “銀閣”

ということになります。

ただ、一時、鹿苑寺の金閣が見えるところに「立札」があって「これは金閣寺ではありません」とわざわざ書かれてあった… という“伝説”もあります。(いや実は実際にあったときもあるんですよ。)

金閣・銀閣は、京都北山・東山、のまさに「一対」の観光スポットとなっています。

話が逸れているついでに…

こはにわは、大阪の私立中学で教師をしていますが、「足利義満」に関する講義をするときの「まくら」はいつもきまっています。

 金閣と銀閣、どっちが二階建てで、どっちが三階建てだと思う?

案外と、子どもたちは迷います。大人でも、あれ? どっちだったかな… となる場合も多いと思います。

 金閣が三階建て
 銀閣が二階建て

です。

で、金閣は、「金箔」を貼っているのですが…

 ここで続いて問題です。(実は中学入試でも問われることがあるんですよ。)

 金閣の金箔の貼られ方なのですが

A 一階から三階まですべて貼られている
B 一階には貼られておらず、二階と三階に貼られている。
C 一階と三階に貼られているが二階には貼られていない。
D 一階と二階には貼られているが三階には貼られていない。

 さて、どうでしょうか…

案外、建物すべてに金箔が貼られている、という“錯覚”というか“思い込み”をされている方も多いのですが、

 B 一階には貼られていない

が正解なんです。
(一階には金箔無し、二階は外に貼られているが中には無し、三階は外も中も貼られている、ということになっています。)

一階は、日本古来の寝殿造にみられる白木の造り、二階は武家に多い書院造の禅宗様式、そして三階は中国の皇帝のような居室…

よって、貴族を従え、武家をも従え、自らは中国の皇帝のような存在であるのだ、という義満の野望を表現している、と言われる学者もおられます。

そもそも金箔、というのは、部屋の内側などには装飾する場合はそれまでにもみられたのですが、建築物の外観に貼る、という「突き抜けた」発想をした人はいません。

後年、信長も秀吉も、かなりの派手好きですが、建物の外観に金箔を貼る、ということはしていませんよね。(黄金の茶室は確かに豪勢ですが、茶室、ですからね…)

義満にはかなりの発信力があったように思います。

話が逸れてるついでに、話をさらに飛ばしてしまいますが…

「洛中洛外図」

というのがあります。
これ、高校の教科書などにも紹介されているので、何だか「一つの作品」と思われている方も多いのですが、実は数種類あります。(たとえば信長が上杉謙信に贈ったものは「上杉本」と言われています。)

これは昔の京都市内の様子が描かれているのですが… どうみても、「空」から見下ろしたような描かれ方なんですよね…
さりとて、飛行機で「俯瞰」したほどではない… 小高い丘から眺めた、という感じなのですが、別に東山から眺めたような風景でもなく、船岡山から眺めた風景でもない…

どういう「視点」からこんな絵が描けるのかな… と、思ったのですが…

「京都を眺めおろす視点」

実は、昔は京都市内にあったのですよ。

それが相国寺にあった“七重の塔”なんです。

高さ109mほど… 

えっ 高いっ という方もおられたり、
え… と言われてもぴんとこないな… という方もおられたりでしょうが…

現在木造建築物の“最高峰”は京都の東寺の五重塔、これが55m…
つまり、それの二倍。
もっとわかりやすく言ってしまうと、京都駅前に高くそびえる「京都タワー」が100mほどですから、室町時代にすでに「京都タワー」が存在していたんですよね…

京阪電車などで大阪から京都にむかいますと、左手の車窓のむこうに京都タワーが見えてきて、「あ、京都に来たな」という実感を持つ方もおられるとは思うのですが、あの規模のものが現在の相国寺のあたりにあったんです。

それにしても足利義満… 金閣といい、七重の塔といい、ものすごい発信力のあった人物としか言いようがありませんよね。

御所を見下ろす七重の塔… これが発信する“意図”は、金閣をはるかに上回っています。

偶然か意図的か…

地図をみていただくとわかりますが、金閣と銀閣を結ぶ直線のちょうど中央に相国寺があります。
金閣・銀閣、一対とでも言うべき京都二大観光スポットは、相国寺を中心とする点対称に配置されています。
(むろん、それを企画したのは、足利義満ではなくて銀閣を建てた足利義政になるのですが… 彼が金閣と相国寺を意識しなかったといえばそんなことはなかったでしょう。)

でもね、ものすごくスケールが大きいことをいうと、相国寺は臨済宗相国寺派の総本山で、鹿苑寺も慈照寺も、まぁ同系列ですから、京都市内すべてを境内と考えた、一つの寺のそれぞれの建物、と、考えるとこの配置もおかしいわけではありません。

金閣、銀閣は、言うまでもなく素晴らしい寺院ですが、相国寺も是非、参拝してください。
庭園や枯山水… こんなところに、こんな美しいスペースが隠されていたか… と、感動いたしますよ。
金閣・銀閣・相国寺、をセットで観光してみてください。

さて、金閣は昭和になって、放火によって炎上しました。
七重の塔も、15世紀に炎上しています。

金閣が炎上した事件は、三島由紀夫によって小説の題材となりました。
「金閣が燃える」という破局的な美…

それにしても、七重の塔が炎上した様子は、そのスケールは金閣炎上の比ではなかったでしょうね…
もしそれが夜だったならば、京都市内全域が、赤々と照らし出されたことでしょう…

残念ながら、当時の記録は淡々としていて、「文学的な」描写は残ってはおりません。
第34回は、「藤原ファミリー」でした。
もちろん、単一の人物をとりあげるのも楽しいのですが“ファミリー”“一族”など「人物群」もコヤブ歴史堂では取り上げています。

藤原氏は一日にしてならず…

小学校の教科書では、藤原道長と頼通父子をとりあげて、そして摂関政治、ということを説明してしまいます。
以前にも申しましたように、最初に摂政となったのは藤原良房ですし、関白となったのは藤原基経のときです。

さらにさかのぼって、平安時代初期、藤原氏が力を握るのは、嵯峨天皇のときに力をふるった藤原冬嗣のときです。

では、藤原冬嗣から藤原氏が強くなったのか、というとそうではなく、奈良時代から大きな力をふるっていました。

藤原氏の祖は、大化の改新の功労者、中臣鎌足です。死後、“藤原”の姓を天智天皇から賜り、その子の藤原不比等から政権の中枢に力を伸ばします。

藤原不比等
藤原四兄弟(武智麻呂・房先・・宇合・麻呂)
藤原仲麻呂
藤原百川
藤原冬嗣
藤原良房
藤原基経
藤原道長
藤原頼通

と、ここまでほぼ300年以上、藤原氏が政治の中心にありました。
しかし…

欠けぬ満月はありません。

道長・頼通の父子のときが“最盛期”ということは、逆に言えばここからは衰えていく、ということです。

中学では、「摂関政治」の次には「院政」という項目があります。

天皇が、子どもに位を譲ってからも政治の実権をにぎり、政治をおこなう…
院政、というと、ついつい摂関政治に「対抗」するために始められたように思われがちですが、実際はちょっと違います。

(詳しくは、拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』「藤原氏の摂関政治に対抗して院政が始まったのではない」の項を是非お読みください。)

そもそものきっかけは、藤原頼通の娘は、男子を生まず、藤原氏をおじいちゃんにしない天皇が位につきました。

これが後三条天皇です。

後三条天皇には二人の后がいて、一人は藤原茂子。もう一人は源基子。
藤原茂子との間には貞仁親王が生まれます。
源基子との間には実仁親王と輔仁親王の二人が生まれます。

後三条天皇は、貞仁親王に位を譲ったのですが、母は藤原氏。非藤原氏の子たちに位を譲りたかったので、貞仁親王に

「おまえに位は譲るがおまえの次の天皇は実仁、そしてその次は輔仁だ。」

と言います。
貞仁親王は、こうして白河天皇となりました。

そして後三条天皇は上皇として政治を進めようとしたところ、わずか一年で死去してしまいます。
それどころか、さらに次の天皇、と、されていた弟の実仁も死んでしまったのです。

白河天皇はこれをチャンスと考え、弟の輔仁親王に位を譲らず、自分の子ども(堀河天皇)に位を譲って上皇となったのです。
こうして「院政」が始まりました。
白河上皇は、藤原氏に対抗するために院政を始めたのではなく、弟の輔仁に天皇の位は譲らないぞっ という天皇家内の対立から院政を始めたんでよね。

そもそも白河天皇の母は藤原氏です。
なんのことはない、白河天皇は藤原系の天皇なんです。
そして当時の藤原氏の長である、藤原師実とはたいへん仲がよく、二人で政治をしているんですよね。

で、師実の子、師通が関白になることを認めました。
師実と堀河天皇は、やる気満々で政治を始めます。

 藤原師通

番組で取り上げた、妻の全子をないがしろにしたために恨まれて呪われた、という人物です。

実はどうもこの人、よく他人に恨まれるようで…
比叡山の僧たちとも対立し、抗議にきた僧たちに武士を派遣して撃退しました。
で、この僧たちがなんと師通を呪詛し、そのために死んだ、という記録さえあります。(『百錬抄』)

ところで、白河上皇なのですが、政治に未練はなかったようなんです。というのも、かわいがっていた自分の娘が死んでしまい、失意のあまり、政治に興味がなくなっちゃいました。
師通が長生きしていたら、そのまま摂関政治は続いていたかもしれないのですが、「妻の呪い」のためか「僧たちの呪詛」のためか、師通は37才で死んでしまうのです…
それどころか、堀河天皇も死んでしまいました。

堀河天皇には4才の子がいて、これがこの子が天皇(鳥羽天皇)となります。
師通にも子がいて、これがわずか22才の忠実です。

4才の天皇と22才の摂政…

まったくの飾りで政治能力ゼロ。

この“危機”のために、白河上皇が返り咲く、というわけだったのです。
学校教育では、院政開始は1086年、と、説明しますが、実際はこの時(1107年)から始まった、といえそうです。

 藤原忠実

忠実は、白河上皇の子をうんだ師子に一目ぼれし、祖母(藤原麗子)にお願いして、師子を白河上皇から譲り受けて妻としています。
これが番組でも取り上げた『今鏡』に記されたエピソード。

まだまだ未熟な忠実が白河上皇と接近できるようにと、藤原麗子が仕組んだ縁組だったと考えられます。

政治、というのは、実は、制度によって動いているのではなく、人によって動いている案外と脆いものかもしれません。
摂政も関白という役職は、制度としてちゃんと存続しているのに、それにふさわしい人がその座になければ、たちどころに機能しなくなっていく…

欠けゆく望月… 師通、忠実によって院政が始まってしまったのです。