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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

第33回は、柴田勝家でした。

手柄を立てた勝家は、「姥口」の茶釜を拝領した、というのがにゃんたのマル秘ファイルで紹介されていました。

柴田勝家は、信長に仕えた有力武将の一人です。
 ただ、柴田勝家に関する「一級史料」(同時代の記録)はほとんど皆無で、江戸時代の『名将言行録』『常山紀談』などに書かれたエピソードをもとにしないと、なかなか人物像が描けません。「妻」のことも、後年、信長の妹お市の方を娶る、という話が有名ですが、ではそれ以前はどうだったのか、というと皆目わかりません。
 おもしろいことに「家族」のエピソードがあまり出てこない武将の一人でもあるんですよね。

 同時代の記録としては、ルイス=フロイスの『日本史』や「イエズス会への書簡」などに出てくる散発的な記録が残っています。

「信長の重臣二人のうちの一人」

「イエズス会への書簡」でも、「同時代の武将の中ではもっとも勇猛」ということが記されています。
 まぁ、ルイス=フロイスが「知っている範囲」という条件付きですが、かなりの武人であったことは想像できます。

 彼の「寛容」も記録されています。もちろん、ルイス=フロイスは宗教家ですから、宗教に関する観点からですが、北陸地方(勝家はこの地方を信長にまかされます)で、「キリスト教の布教は禁止しない。広がるか広がらないかは、宣教師の腕次第だ」と言ったといわれています。
 「彼は禅をたしなむが、他の宗派を排斥しない」ということもフロイスは述べています。

 まぁ、良いようにいえば寛大で鷹揚、悪いようにいえばテキトーで雑、というとでしょうか。

 そう考えると、信長が、「姥口」の茶釜を贈った、というのはひょっとすると、“ちょっとした皮肉”があるかもしれません。

 茶釜の「姥口」を用いたお点前は、なんと申しましょうか、ややお上品に茶杓を扱うお点前が美しいといわれています。
 「おまえ、姥口扱えるくらい、ちょっと繊細になれ」みたいなメッセージがこめられているとしたらおもしろいところですが…

 番組内でも説明しましたが、信長から茶道具をもらう、というのは特別な意味がありました。
 一つは、「茶会」を開いてもよい、つまりは、独自の外交を認める、つまりは「傘下大名として認める」という意味でもありました。

 実際、信長は、後継者の長男信忠以外の子たちは、他家に養子に出しており、一族大名を設立することを企画していたようで(後の江戸幕府における親藩のようなもの)、

次男 信雄 北畠氏
三男 信孝 神戸氏
四男 秀勝 羽柴氏

 と、それぞれ養子に出しています。

 これらに「譜代大名」(羽柴秀吉・明智光秀・柴田勝家・滝川一益・丹羽永秀など)を与力させる、みたいな方法で、三男信孝は柴田勝家が後援していました。

 北陸をまかされた柴田勝家は、「茶釜」を与えられて「傘下大名」としての自立を認められた、という解釈です。

 ただ、そういう「特典」だけの意味ではなく、そもそも「茶道具」はこの時代の大名、貴族、趣味人の商人たちの間では、ものすごい人気のアイテムで、それそのものの価値も高いものです。

 戦国大名の松永久秀などは、信長に帰属を申し出るときに、

 「九十九茄子」

 という茶入れの銘記を献上とたところ、いきなり大和国一国の切り取り次第の特権を付与されました。
 有名な茶道具は「一国支配」に該当する、という価値観の時代なのです。

 武田征伐で手柄をたてた滝川一益などは、関東地方の上野国を与えられ、厨橋城(現在の前橋)の主となったのに、

 「え~ 城なんかほしくないわ… 『珠光茄子』がほしかった…」

 と、嘆いたといいます。
(「~茄子」というのは、茶入れのことで、なすびのような形と光沢をしているので、茶入れ=茄子、と、銘がつけられているんです。)

 秀吉の九州征伐などは、秀吉が侵攻するたびに、地元の小豪族たちがめずらしい茶器などを献上して「忠誠を誓って」いますから、まるで九州征伐は「茶器収集戦争」みたいな感じになっています。

 さて、柴田勝家が、信長から拝領した茶道具というと…

 こはにわは、「青井戸茶碗 銘・柴田」という名品が大好きです。

 井戸茶碗、というのは、いわゆる高麗茶器(高麗時代の作ではないんですよ。あくまでも朝鮮のものという意味。)の名品で、戦国大名、戦国時代の趣味人たちからは垂涎の的でした。
 その井戸茶碗の中でも、信長が柴田勝家に下賜したものが根津博物館に残っています。もちろん、重要文化財。名前もそのものズバリ「柴田」となっています。

 柴田勝家は、茶をたしなんだのでしょうか…
 ドラマや小説の中で描かれている勝家は、勇猛な武将と描かれていますが、信長から下賜された茶器は実にたくさん残っています…

 申しましたように、柴田勝家の私生活の記録はほとんどありません。
 たくさん残っている、ということは、使わずにしまいこんでいた証拠、ともいえますし、ほんとにそれだけ手柄が多かったからたくさんもらえた、ともいえますし…

 誰が出世したとか誰が領地をもらったとか、まったく私には興味はない。
 信長さまに仕えて、大きな武功を二十四も立てているわたしからみれば、どれもこれも小さい話だ。

 と、勝家は自信たっぷりの余裕です。
 茶器の数は、その功績を裏付けている、ともいえそうです。
 第32回は「細川忠興」さんでした。
 実は、コヤブ歴史堂の“なぞ”と“伝説”があるのですが… ゲストが西川忠志さんのときは視聴率が高いそうです。
 実際、コヤブ歴史堂最高視聴率の回は、この「細川忠興」さんのときでした。

 さてさて、唐突な話ですが…

 日本の妖怪は、よく“油”をすすります。

 え? なんのこと? と、思われるかもしれませんが、神社などには夜になると石灯籠に灯明がともります。
 これがまた暗闇を強調し、昔のことですから、なんとも不気味な雰囲気を醸し出します。その闇の中から魔物があらわれ、石灯籠の油をぺろ~りぺろり…

 ぎゃ~ こわいっ

 と、なりそうですが…

 行燈や石灯籠の油を妖怪が舐める、というのは「理由」があるんです。

 神社の灯明の油、実はよく盗まれました。近隣の貧しい農民や、浮浪者たちは、夜中になるとこっそりあらわれ、神社の灯明を盗みにきたのです。
 ぼろをまとって貧しい人びと。髪をふりみだした女性… 暗闇と灯明の中で、不気味に浮かび上がる姿を「妖怪」と見間違えたところから

 灯明を舐める妖怪

 が生まれたといいます。

 明智光秀が、浪人時代、ある神社で、「夜中になると妖怪が油を舐めにくる」という噂を聞きつけました。

 「よし。イッパツ妖怪退治をしてやろう…」

 後に知将と知られる明智光秀も、若いころは、乱世の武士。これくらいの勇気はあったでしょうし、何よりも“名”をあげるチャンス…

 夜中になるのを待って、その神社にむかう…
 やがて、暗闇から“魔物”があらわれ、油をぺろりぺろり… と、思ったら、なんと一人の男が灯篭の油を盗みにきていた…

 「こんなことだろうと思った。」

 と、その男に話しかけると、なんとそれが後の細川藤孝。細川忠興の父だったわけです。

 以上は、小説やドラマなどにも取り上げられることがある、明智光秀と細川藤孝の“出会い”のエピソードでした。

 細川藤孝は、“放浪の将軍”足利義昭に仕えており、室町幕府の再興を計ろうとしていた時期でした。
 実際、このころ困窮し、神社の油を盗んで読書をしていた、という話があって、こちらのほうは事実だそうです。

 この出会いはほんとかウソか微妙なところですが、二人は“親友”となります。

 で、明智光秀は、自分の娘、玉(後の細川ガラシア)と細川藤孝の息子、忠興との“縁組”を約束し、実際に二人を婚姻させます。

 さて、織田信長が明智光秀に倒される本能寺の変が起こりました。これが1852年。
 細川藤孝は49才、そして忠興は20才です。

 この時代は10代で婚姻しますから、30才くらいですと、孫がいる武将もいたくらい。
 忠興は、歳をとってから生まれた子、ということになりそうです。

 本能寺の変が起こったとき、誰もが、細川藤孝・忠興父子は、明智光秀の味方をすると考えていました。
 光秀と藤孝の日頃の交友、そして忠興の妻が光秀の娘、という婚姻関係から考えると(戦国時代のならいから考えても)、細川は明智派であってもおかしくはありません。

 ところが、細川父子は光秀には味方しませんでした。

 本能寺の変後の光秀の失敗の二大要素は、じつに「秀吉が思った以上に早く中国地方から大軍を率いてもどってきたこと(中国大返し)」と、「細川父子が光秀の味方をしなかったこと」と言われています。

 細川藤孝は、本能寺の変を聞くと、ただちに出家し(幽斎と号し)、家督を息子の忠興に譲ってしまいます。
 後に「信長への忠誠からその死に殉じた」「光秀に味方しないということを鮮明にした」と評価され、忠興も妻の玉を、自分の近くから遠くへやってしまっていますから、「縁戚にあっても光秀には味方しない」と宣言したのだ、と、言われるところです。

 でもなぁ… それは後の展開からの後づけで…
 これってなかなか、素晴らしい、見事な「保身術」ですよね。

 もし、光秀が勝っていたとしても

 「信長に仕えた自分が細川家の当主のままだと光秀さんに疑われる可能性があったでしょ。だから光秀のさんの娘を妻としている忠興に譲ったんです。」

 とも藤孝は言い訳できるし、

 「妻は光秀さんの娘。敵に奪われてはいけないから遠くに隠しておきました。」

 とも忠興は言い訳ができます。

 「後から」、わたしたち父子は光秀の味方をしなかったんですよ、と、「弁解」できるような処置を素早くとった、ともいえるんですよね…

 本能寺の変が起こる。
 秀吉と光秀が決戦をする。
 どっちが勝か、はっきりするまで態度を保留する。

 そのため最上の策だと思うのです。

 ただ、この“策”の前提にあるのは、「秀吉が大軍を率いて戻ってきている」「秀吉・光秀決戦がある」ということを事前に知っていた、からこそできる芸当です。

 他の武将は、各方面で釘づけになっていて動けないが、秀吉は戻ってこられる…

 それを「探知」していたのが“細川ネットワーク”です。

 細川藤孝は、戦国時代にありなが、一流の教養人(和歌の研究者)としても有名で、宮中の貴族などとは和歌を通じた交流があったのです。
 教養人の「集まり」は、情報交換の場でもありました。そして忠興もまた、「茶の湯」のたしなみがあり、後年、千利休の弟子にまでなります。

 和歌や茶の湯の趣味人、細川家には、多くの商人、貴族と交流がありました。

 信長軍団は、その遠征の規模が大きくなるにつれ、その前線に大量の物資を輸送する「兵站」を商人たちにまかせています。
 また、貴族や僧侶たちは、いろいろな各方面の情報を交流を通じて知っています。

 本能寺の変が起こった段階で、どの武将が、もっともはやく京都にもどってこれるのか、その兵站システムをフル活用して「大返し」ができるのが誰なのか、細川藤孝にはすぐに想像がついたのでしょう。

 二人の決戦を見極めてから行動する

 細川父子は、このための「行動」を速やかにとったのだと思います。
 どちらが勝ってもどのようにでも説明できる…

 秀吉勝利のシナリオで後に行動した… と、考えてみるともおもしろいかもしれません。

 細川父子は、戦国時代の“綱渡り師”とでもいうべき、独特の才能がありました。

 秀吉政権にあっては、千利休の弟子に忠興はなります。もちろん秀吉に関する情報は利休を通じて得ることができます。
 後継ぎがなく、次は甥の秀次が継ぐ… いちはやく察知した忠興は、豊臣秀次に仕えるようになり、その忠勤ぶりが評価され、黄金を秀次から下賜されます。

 ところが秀吉と淀との間に秀頼が生まれる… 秀頼が後継ぎになり、秀次が切腹させられて、秀次派とみられるようになると、「黄金はもらったのではないっ 借りただけだから返済する」と言って黄金を用意します。

 ところがこの黄金。当時の豊臣政権の実力者、徳川家康に借りて返済しているんですよね。
 これもなかなかよく考えていると思いませんか? 大名の細川家がわざわざ家康に金、借りに行きます?

 「わざとカリをつくる」
 「家康はカシをつくったと思う」「家康は忠興はおれの言うこと聞くだろうと思う」
 「言われたら家康に従う」

 「負債」をわざとつくることで家康に接近して、そのまま家康派に移行しやすくしておく…

 これはもうお見事、としかいいようのない“芸”です。

 カシをつくったと思わせて、すすんで利用されるようにもっていく…

(上司にゴマすりたいと考えているあなた、細川方式は有効ですよ。)

 節目節目で、細川が権力闘争の中で遊泳できたのは、和歌・茶道などの趣味をうまく活用したからです。

 趣味は実益をもたらします。
 趣味「を」するのではなく、趣味「で」何かをすれば、です。
初代天皇は神武天皇…
その曾祖父にあらせられる御方はニニギノミコトです。
ニニギノミコトは、妻を娶ろうとしました。その相手とは、コノハナサクヤヒメ。

 この花咲くや姫… とは、またなんとお美しいお名前か。お名前だけではなく、実は見た目もかなり美しい…

 父のオオヤマツミノミコトは、「あの… 姉のほう、どうかな…」と姉のイワナガヒメを薦めました。まぁ、順番からいえばお姉さんから、ですよね。

 ところがニニギノミコトは断ります。

「いや、コノハナサクヤヒメでおねがいします。」
「あ、そ… いやまぁ、ね…」

 どうやらニニギノミコトはイワナガヒメは気に入らなかったみたいで…
 断られたイワナガヒメは、そのことを恥じ入り、

「わたしはこの地にとどまりて、わたしのように結婚できない女性があらわれないように、人々の良縁を結ぶことにしますっ」

 と、貴船に鎮座ましますことになりました。

 お~ なんと素晴らしい女神さま! ふつうならば、いじけて逆に、カップルの縁裂いたるっ! となってもおかしくないのに… なんと心優しいことか…

 以来、貴船神社は失恋した女性を癒し、次なる良縁を結んでくださる“縁結びパワースポット”となりました。

 番組でとりあげた『古今著聞集』では、かなり俗な(あやしげな祈禱をする)神社の様子が書かれていますが、実際はそんなことはもちろんありません。
 由緒正しき、古来からの“恋を祈る神”がおわす神社なのです。

 和泉式部が貴船神社に参拝したのは事実です。不仲になった藤原保昌との間を回復しようと、歌に託して神さまに託しました。

 男に忘れさられて侍りけるころ貴船に参りて
 みたらし川に蛍の飛びけるを見て詠める

 と、『後拾遺和歌集』には記されています。で、詠んだ歌がこれ。

 ものおもへば 沢の蛍もわが身より
 あくがれいづる
 魂かとぞみる

 あれこれ悩んでここまで参りました。
 すると、蛍が川一面にとんでいるではありませんか。
 その光のはかないことといったら…
 まるで私の魂が抜け出て飛んでいるかのようです。

 するとなんとなんと、神さまが返歌をなさった、と、和泉式部は言うのです。

 おく山に たぎりて落つる滝つ瀬の
 玉ちるばかり
 ものな思ひそ

 奥山でしぶきをあげて飛び散る滝の水玉のように
 (魂が飛び散る、つまり、死ぬかと思うほど)
 そんなに深く考えるな

 ああ神さま! たしかに神さまのお声が!

 この歌は貴船の明神のお返しなり
 男の声にて和泉式部が耳に聞こえけるとなむいひ伝えたる

 『古今著聞集』では、変な儀式を拒む和泉式部をみて、物陰から見ていた藤原保昌が飛び出してくる、という話になっていますが…

 これ、ひょっとしたら半分ほんとのことだったのかもしれません。

 貴船の神は男の神さまではありません。

 貴船神社にお参りにいく和泉式部。
 切ない恋心を歌に詠む…
 それをそっと追いかけてきて、物陰からみていた藤原保昌。
 和泉式部の歌から彼女のせつない気持ちを知る…

 「深く考えるな。すまん。わたしがわるかったのだ。」

 と、出てきたのだとしたらどうでしょう。

 和泉式部に返歌した“男の神”とは、藤原保昌だったのかもしれません。
画像の転用、というと、ついつい今話題のお話しを想像してしまうかもしれません。
画像の使い回しや転用… 歴史の中でもよく似たことはあります。

まず、肖像画、というのは、平安時代のものはよく似ています。というか、以前にお話ししましたように、平安時代は、人の顔をそっくりに写すのはタブーでした。
いわゆる呪法の一つ。魂をとっちゃうぞ、というわけです。

明治時代に写真機が出てきたとき、魂を抜かれるっ と忌み嫌った人がいたという話がありますが、よく似た話です。(拙著『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』でも、小野小町はしもぶくれの美人ではない、という話で紹介しました。)

ですので、平安時代の絵巻物、大和絵に出てくる人物はみなよく似た顔になります。

さてさて、平安末期。平家の最盛期に

平資盛

という人物がおりました。

こはにわも、わりと好きな歴史上の人物です。(なんていうか、源氏よりもこはにわは平家贔屓なんですよね… 平氏の横暴、なんて話が出てくるとついつい擁護、弁護してしまうんです。)

『平家物語』の逸話のせいか、一昔前のドラマや小説では、父の七光り、祖父の七光りを背景にえらそーにしてしまうあほぼん、みたいに描かれてしまいます。

平資盛は、平清盛の孫です。父は、清盛の嫡男重盛。その次男(長男は維盛)ですが、九条兼実の『玉葉』には嫡男、と、紹介されていますし、維盛よりも官位が上ですから実は、資盛が後継者である、という説も有力です。

どうやら、重盛は、維盛には「武」の長を、資盛は「公」の長をさせようと企画していたのではないでしょうか。
軍事についての権限は維盛が保持していたようですが、それに対して宮中では資盛が重要な地位をしめていく…
実際、資盛は、後白河法皇の近臣として仕え、従三位蔵人頭になっています。

『平家物語』の逸話では、殿下乗合事件が有名で、藤原基房の乗った車と、馬に乗った平資盛が鉢合わせしたとき、下馬の礼を資盛側がとらなかったということで、基房の従者たちが資盛一行に乱暴を働いた、ということが起こりました。
 『平家物語』では祖父清盛が怒って兵をさしむけた、という話ですが、これは清盛=悪、に描くためのウソで、父親の重盛が怒ることになります。

 実際は、基房のほうが資盛一行であったことに気が付いて謝罪の使者をさしむけているのですが、重盛がこの謝罪を拒否、重盛が基房に“報復”しようとしている噂が流れ、基房はびびって出仕しなくなりました。
 ところが帝の加冠の儀式がおこなわれることになり、出仕しざるをえなくなります。
 そのとき、襲撃されて基房が出仕できなくなった… というのが殿下乗合事件の概要です。

 でも、この襲撃が10月21日だといわれているのですが、24日には重盛と基房は二人仲よく宮中に参内しているですよね…
 しかも12月には清盛の推薦で基房は太政大臣になっている…

 むしろ恩知らずは基房のほうで、重盛が死去した後、後白河法皇と密かに計らって重盛の領地を没収しようとたくらんでいるので、曲者だったのは基房のような気がします。

 平資盛は、1158年生まれ、という説と1161年生まれ、という説があります。
 この事件は1170年ですから前者なら12才、後者なら9才のとき… 子どもの資盛は、巻き込まれた、という感じで資盛には何の罪もありません。これだけで、祖父や父の七光りで育ったあほぼん扱いはかわいそうです。

 “事件”そのものは『玉葉』『愚管抄』にも記されているのでウソとはいいませんが、平氏を悪者にするための誇張がほどこされた事件のような気がしてしかたがありません。

 ちょいちょい、こはにわ先生っ いったいこの話と“画像”の転用の話、なんの関係があるの?
 と、怒られそうです。ちょっと前置きが長すぎました。

 実は、平資盛さんには肖像画があります。
 壇ノ浦で亡くなったこともあり、山口県の赤間神宮にこの絵は残っています。

 で、ですね… この肖像画、実は、加賀藩の前田利長さんの肖像画と、そっくり、というか、ほぼ同じなんですよ。(画像で検索してもらったら驚くと思います。)
 一方は、赤間神宮にあり、もう一方は、富山県高畠家所蔵で後に魚津歴史民俗博物館に寄贈されました。

 スライドして重ね合わせても、ほぼ一致すると思うんです。

 いったいどちらがどうなのか…

 二人とも官位は従三位ですので、装束がほぼ同じになる、というのはわからないことはないのですが(前田さんの場合は、中納言で武家官位だから、実際は黒色ではないのかという考え方もできます)…

 これ… 利長さんを描いた画家が、平資盛さんの絵を「転用」したんじゃないのかなぁ…

 と、こはにわは思っています。

 では、いったいなぜ平資盛さんの絵を写しちゃったのか…
 官位従三位の人の服装を探していて、平資盛さんの絵をみつけたのか…
 にしても、山口県の赤間神宮と富山県ではあまりにも場所が違いすぎる…

 時代も場所もまったく違う人物なのに、ほぼ同じ人物と思われる肖像画が残っている…

 歴史に残る“画像転用”疑惑のミステリーです。

 おっとすっかり忘れていました。
 これを言わないと“ミステリー”は完結しません。

 前田利長さんの妻、永姫さん。彼女は実は織田信長の娘なんですよね。で、織田信長なんですが… 織田家って、平氏を称しているの知っていますか?
 織田家の祖は、なんと平資盛と愛妾の間に生まれた(といわれている)親真…

 資盛さんの、ず~っと後の子孫の夫が前田利長さん。
 その肖像が、平資盛像とソックリって…
 なんとも不思議な“ご縁”です。

 
(これに関しては、学問的にまともな研究もあり、高尾哲史博士の「平資盛の肖像画と前田利長の肖像画の類似性」という論文が国学院大学の『新国学』(2013年10月号)に掲載されています。興味のある方はお読みください。)
第30回は、『万葉集』とそれを詠んだ人々についてでした。
学校教育の場では、『万葉集』の格調が高い歌ばかりがとりあげられていますが、実際は、人間の生々しい感情、ありのままの気持ちがおおらかに謳われているものが多いのです。

ところで、学校の教科書などでは、『万葉集』の歌は、ひらがなと漢字まじりで紹介されていますが、実際は、「万葉仮名」とよばれる漢字ばかりで表記されています。
そりゃそうで、奈良時代には、まだ「ひらがな」は発明されていませんから…

それを江戸時代の学者、契沖が「読み下し」、ひらがなと漢字で表記するようになりました。ですから、学校で紹介されている読み方は、契沖が読んだものなのです。

 東野炎立所見而 返見為 月西渡

 東(ひんがし)の野に炎(かぎろい)の立つ見えて 
 返り見すれば、月かたぶきぬ

 月西渡

 を、どう読んだら「月かたぶきぬ」になるねんっ と、ツッコミを入れたくなりますが、とにかく、こうして読み方がつけられていきました。

 「男と女」の歌、恋愛の歌は「相聞(そうもん)歌」といいます。

 わたしは、大伴坂上郎女の歌が好きです。彼女の「恋のお相手」はたくさんいたのですが、その中でも彼女が好きだったのは、藤原麻呂。

 奈良時代に権勢をふるった藤原不比等の四人の息子の一人、藤原麻呂です。
 しかし藤原麻呂もなかなかのプレイボーイで、さすがの大伴坂上郎女もずいぶんとふりまわされたようです。

 来むといふも来ぬ時あるを
 来じとてふを来むとは待たじ
 来じとてふものを

 え? 何これ??

 あなたは「行くよ」と言っておいて来ないときがある。
 ましてや「行かない」と言うてるんだから、来るかしら、と、待ったりはしないわっ
 「行かない」って言ってるんだからっ

 これ、来てほしくて来てほしくて、行かないと言っているときでも、ひょっとしたら来るかしら、と、思っている気持ちの裏返しですよね。
 なんだか、かわいらしい女性の歌です。麻呂もずいぶんと罪つくりな男です。

 身分違いの権力者との恋… 人にバレると、あの方にも迷惑がかかる… 

 夏の野の 繁みに咲ける姫百合の
 知らえぬ恋は苦しきものを

 現在でも、こういう恋、きっとありますよね。奈良時代も現在も、人の気持ちというのは変わらないもんなんです。

 恋愛の“美しい”話をした後で、いきなり「落とす」のもなんですが… 『万葉集』は

 「うんこ」

 の話もけっこう出てきます。

 からたちとうばら刈り除(そ)け 倉建てむ
 糞遠くまれ
 くし造る刀自(とじ)

 カラタチやイバラなどの雑木を切り払って倉を建てるんだから、ちょっとそこでウンコしている、くし作りのおばさんっ もっと遠くでやってよっ

 この時代、基本的に一般人は、道端で用をたしていました。
 そもそも下駄、というのは、外でウンコしやすいようにつくられた履物なんです。
 
 ヨーロッパでも、下水道が完備していないとき、道路が尿と糞だらけだったので、ドレスの裾が汚れないようにハイヒールが発明された、と、いわれています。

 ウンコをするために、きっと繁みに入って用をたしていたのでしょう。その雑木を切り開いたところで、しゃがんでウンコしているおばさんに遭遇した、そんな歌かもしれません。
 実際は、宴会で(酒が入った上で)詠まれた戯れ歌ですが、いつの時代でも下ネタ、ウンコ話は好きですよね。

 この歌は、『万葉集』の第十六巻にある歌ですが、この第十六巻はおもしろい歌満載です。
 かの正岡子規も

 「万葉を読む者は、巻十六を読むことを忘るべからず」

 と、絶賛している巻です。みなさんも、是非、読んでみてください。

 さて、万葉集には酒の歌も出てきます。酒、といえば、大伴旅人という歌人が有名で、『万葉集』の編集長とでもいうべき大伴家持の父です。

 歌人、と、紹介しましたが、実は大伴旅人は武人としても有名で、九州南部で、大和朝廷に従わなかった「隼人」を征服したことで有名な人物でもあります。

 あな醜(みにく)
 賢(さか)しらをすと
 酒飲まぬ 人をよく見ば 猿にかも似む

 大伴旅人は、全部で70くらいの歌を詠んでいますがそのうちの13首は酒の歌です。

 酒好きの大友旅人は、酒を飲まない(飲めない)人を猿みたいだ、と、ばかにしているんですよね… 酒も飲まずに宴会で、しらっとすわっているやつらなんか猿じゃんっ みたいな感じかもしれません。

 『私の万葉集』(集英社文庫)という杉本苑子さんの本があります。(たいへんよい本ですよ。万葉集が好きな人は是非読んでみてください。)
 その中で、杉本さんは、大伴旅人に「反論」しています。

 失礼な言い草ではないか。
 下戸の私は大いに気に食わない。
 酒呑みというのは独善的で、えてして、かかるタワゴトを口走るものだが
 猿の赤っ面に似ているのは、そもそも酔っ払いか、しらふか、どちらであろうか。

 そうとうお怒りのようで…
 私も酒をそんなに飲まないもんだから、杉本さんのお気持ちはよ~くわかります。

 ところがですね…
 ちょっとこの歌には“裏”がありまして…

 奈良時代は、ちょうど仏教が民間レベルにまで広がってきている時代なんです。

 かつてローマ帝国内で、キリスト教が広がったとき、支配者層は、その対応に苦慮しました。
 最初は弾圧、やがて認め、そうして後には国教となっていく…

 奈良時代の日本も、それによく似ているところがあるんです。
 仏教を受け入れるか拒むか…
 もともとの日本の文化や宗教を尊重するか、仏教を国家の統制下におくべきか…
 ちょうどその境目が奈良時代の、長屋王から聖武天皇にかけての時代なんです。

 で、「酒のまぬ人」とは、仏教を信じる人あるいは仏教を国家統制の下に置こうとしている人々をさしていて、そういう人々を皮肉っているのだ、という考え方があるのです。

 この説にのっかると、この万葉の歌も、なかなかきな臭い香りがしてきます。

 大伴旅人は、反仏教派で、聖武天皇などが進める仏教政策には不満があった貴族のグループに属しています。
 あからさまに仏教反対、とは、いえぬところを歌にて批判している…

 みにくいよね
 利口ぶって酒なんか飲まない、というているヤツらの顔みてごらん。
 まるで猿だっ

 聖武天皇と長屋王の対立も、仏教政策が背景にあり、長屋王派であると考えられた大伴旅人は、変の直前、なぜか突然、大宰府への異動を命じられています。
 変が起こると、大伴旅人は長屋王の味方をして軍を動かすと考えたのかもしれません。

 この大伴旅人の妹が、さきに紹介した大伴坂上郎女…
 そしてその大伴坂上郎女が愛した男が、藤原麻呂。
 この藤原麻呂および、武智麻呂、宇合、房前らの四兄弟が、長屋王を失脚させ、自殺においこんだのです。

 その大伴氏の姫と藤原麻呂の恋… 当然これは「秘事」でなくてはならなかったわけですね…

          知らえぬ恋は苦しきものを…